3 人を殺したら幸せになった
「え? なに?」
気配に気づいたのか、義父の隣に寝ていた母が目を醒ました。
俺の存在に気づくと、一瞬驚き、次に義父の首に突き刺さる包丁に気づいた。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫がこだまする。
息が枯れたかのような気味の悪い音を出しながら、母が義父の体を揺らす。
「しっかりして! 目を醒まして!」
それは妹が殺されたときは、まるで別人のような反応だった。
「おまえが殺したの!? このっ、人殺しっ!」
その科白に、俺のすべては何も感じることがなかった。ただただ、本能が理解する。
やはり、こいつも敵だったのかと。
「こんなことをして! これからどうすればいいのよ!」
母は義父の首から包丁を抜き取ると、その切っ先を俺に向けてきた。
だけど、心が追いついていないのか、腕は小刻みに震えていて、両目も血走っている。
ベッドから降りようとした母は興奮と緊張からか、よろけるように体勢を崩した。
俺はその隙を逃さなかった。
義父の寝室にあった本棚から、はみ出していたハードカバーの本を引き抜くと、そのまま母の下顎を殴りつけた。
次に飛ぶようにして、母の腹を蹴りつける。
母は包丁もろとも無様に床に転がった。
慌てて包丁を拾おうとする母よりも早く、俺が包丁を拾いあげる。
「ひ、ひぃいいいいい! た、助けて……」
母が恐怖に顔を引き攣らせて、息子である俺に命乞いをしてきた。
その表情は義父を見るときの、哀れな表情にそっくりだった。
「うん、わかった。助けてあげるよ」
俺の言葉に、母は安堵したように息を漏らす。
その首に包丁を突き立ててやった。
ひょう、という空気が漏れる音がして、母が訝しげにこちらを見上げた。
なぜ? そう動いた唇の奥から血があふれ出て、母は絶命した。
俺は両親が死んだのを再度確認すると、母のスマホを借りて警察に電話した。これも事前にシミュレーションしていた動きだ。
一、義父の殺害に失敗した場合。
二、義父のみを殺した場合。
三、両親とも殺した場合。
それぞれ、どのように通報すべきか、前もって考えていた。
ただひとつ想定と違っていたのは、「妹が虐待された」ではなく、「妹が殺された」と伝えなければならなかったことだ。
『はい、Y警察署です。どうされました?』
電話の声は、想像していたよりも若い男のものだった。
「へ、部屋で両親が死んでいます。どうしたらいいですか?」
『わかりました。落ち着いてください。君は無事かい? 危険がない状態?』
強盗にでも襲われたことを想定しているのだろう。また、声で俺が子供だということも察したみたいだ。
「はい、危険はありません。大丈夫です。家には誰もいません」
『わかった。じゃあ、君の名前と年齢、自宅の住所も言える?』
俺は大きく呼吸しながら、震える声で答えた。相手は一応プロだ。過剰な表現をすれば、演技だとバレてしまうだろう。
イメージは以前、実際に見た交通事故の現場。
「親が事故に遭いました。連絡してください」。
そう助けを求めた俺と同じくらいの子供は、明らかに動揺はしていたが、テレビやアニメで見るように、大袈裟に叫んだりパニックになったりはしていなかった。
演出と現実は違う。
創作作品はわかりやすさを優先するため、現実よりも過剰な表現がなされている。
その事故での違和感がきっかけとなり、実際の事故の動画と映画などを見比べたりして気づいた事実だ。
『両親が部屋で死んでいると言ったね? そこは自宅?』
俺が「はい」と答えると、少しだけ間が空いて、電話の向こうで何事かやりとりをしていた。
おそらく、俺の自宅に警官を向かわせる指示でも出したのだろう。
『どうしてご両親が亡くなったか、わかるかい?』
そこで俺はオペレータの質問に答えるかたちで、妹が義父に殺されたこと、母がリビングから包丁を持っていき、眠っていた義父を殺害したこと、次に自分を殺そうとしてきて、抵抗した結果、母を殺してしまったことを伝えた。
「僕は逮捕されてしまうんでしょうか?」
『大丈夫だよ。正当防衛って知っているかな? 君のお母さんは、おそらく一家心中――って言ってもわからないか。たぶん、みんなで死のうとしたんだよ。親がいなくなったら、子供が生きていけないとでも思ったんだ。そんなことはないんだけどね。とにかく、自分が殺されそうになったら、自分の身を守るために相手を殺したとしても、逮捕はされないんだよ。誰にだって生きる権利はある。だから、安心して』
その言葉は、俺の心に深く突き刺さった。
いや、俺を成す中核のようなモノに深く刻み込まれたと言っても過言ではない。
正当防衛。
言葉の意味は知っている。カルネアデスの板の話でさえ知っていた。
人は誰しも、他人の命よりも自分の命を大事にして良い権利を持っている。
けれど、その概念はどこか、俺の中では現実味を持っていなかった。
どんな理由があっても殺人は悪。一般的に広がっているこの概念と矛盾するそれは、空想世界の戯言のように感じられていた。
けれど今は違う。
実際に人を殺して、その罪を取り締まるはずの警察官から、「生きるために人を殺して良い」と許可をもらった。
――この殺人は赦されたのだ。
それから警官が到着するまでの間、オペレータは会話を続けてくれた。
深夜に三人も死んでいる家に、独りでいる俺を気遣ってくれたのだろう。
やがて警察官たちが到着し、指紋採取などの現場検証を行った。
それからしばらくは、警察署に軟禁されるようなかたちで、何度も何度も聴取を受けた。俺に頼れる親族がいないことも、このときに判明した。
やがて俺の行為は、正式に正当防衛と認められ、一家心中の被害者として手厚く保護されることとなる。
義父を殺害したのは俺なのだが、その嘘がバレることはなかった。
包丁には母の指紋がついていたし、なにより被害者である子供が嘘をつくとは、誰も思わなかったのだろう。
俺の嘘を、大人も国家も見抜くことができなかった。
俺には嘘つきの才能があった。
人を殺したらどうなるのか? 親がいなくなった子供はどうなるのか?
その一般的な答えは知っている。
人を殺したら罰を与えられ、親がいなくなった子供は苦労する。
しかし、俺の場合は逆だった。
俺はその後、児童養護施設に預けられたが、まわりは優しい人ばかりだったし、以前より裕福ではなかったが、生活に不自由を感じるレベルでもなかった。
図書館に行けば本は読めたし、勉強したいと言えば積極的な支援があった。同じ境遇の子供たちとの生活も、兄弟が増えたものだと考えれば、なんら違和感もない。
自分がいないと、子供が可哀想だと本気で思い込んでいる親がいるとしたら、それは愚かで無知な間違いでしかない。
いや、俺に言わせれば、子供を心配しているのではなく、子供に必要をされない自分を憐れんでいるに過ぎない。
俺は身をもって知っていた。
人を殺しても幸せになれる。
いや、人を殺さなければ、この幸せは手に入らなかっただろう。
だが俺には、二つだけ後悔していることがある。
ひとつは義父をあっさりと殺してしまったこと。
義父はおそらく、自分が死んだことすら気づかなかったはずだ。妹に対する謝罪も罪悪感も、痛みさえも感じることなく、安らかに人生の終わりを迎えた。
地獄などという無責任な概念は、俺の中には存在しない。
悲惨に悲痛に残虐に妹は殺されたのに、義父には安らかな死が与えられた。
それでは釣り合いがとれない。
もっと後悔させて殺すべきだった。
もうひとつの後悔。
それは、人を殺す覚悟が遅れたことだ。
妹が殺される前に義父を殺しておけば、この幸福な環境に妹の姿もあったはず。
誰にも殴られることなく、毎日怒鳴られることもなく、プレゼントももらえて、遊ぶ仲間もたくさんいる。
ここに妹がいたら、あの子はどう思っただろう? あと何回、心から笑うことができただろう?
だけど、死んでしまえばもう何もない。
救えなければ、すべてが無意味だ。
俺の躊躇いが、妹から幸せを奪ってしまった。俺に植え付けられた常識が、幸福になる道を閉ざしていた。
だから俺は――。
「だから俺は、特別指名手配中の『正義の殺し屋』になったってわけ?」
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