2 天網恢恢疎にして漏らさず

 実の父に殺され、実の母にも見殺しにされた。


 最後の瞬間、妹は何を思っていたのだろう? どんな気持ちで死んでいったのだろう?


 妹の遺体は、チラシに包まれ、燃えるゴミの袋に入れられた。


 無神経というよりは、自分が犯した罪を直視したくない脆弱な心と、どのみち捨てるからといった、効率の面があったのだろう。


 妹は葬式すらあげてもらえない。

 遺体を誰かに見られたら、虐待がバレてしまう。


 義父は死体を完全に消す方法をネットで調べていたが、「こんな残虐な行為はできない」とヒステリックな声をあげて、諦めたみたいだった。

 オーソドックスに、山にでも埋めることにしたみたいだ。


 その無様な態度に、俺は酷く裏切られた気がした。


 残忍で暴虐、恐れを知らぬ帝王。


 そんなイメージとは違い、義父はただの小心者だった。

 

 人が死ぬような行為をしておいて、本当に人が死んだら狼狽えるしか能のない、想像力の欠如した馬鹿で、ただの愚か者だったのだ。


『馬鹿な人間が嫌い』というスタンスは、単に他者を下に見てマウントしたいだけの、小物の思考でしかなかった。


 そんな愚かな雑魚に怯えていた自分自身を、俺は情けなく思った。


 義父は妹を放置したまま、今日はもう寝ると言い出した。


 酒に弱い義父は、何かの記念にもらったウイスキーをコップにつぐと、流し込むようにして立て続けに飲んだ。


 混乱した頭ではどこかでヘマをするかもしれない。

 勢いにまかせて捨てにいくんじゃなく、ちゃんとしたシナリオを作るべきだ。

 明日は休みだから、誰かにバレることもない。


 それらしい理由を並べるが、とどのつまり思考を放棄したのだ。


 現実から目を背けて、これらはすべて夢で、朝になったら妹は生き返っている。そう思い込もうとしていたのかもしれない。


 やがて、義父は寝室に行くと、耳障りな鼾をあげはじめた。目を赤く腫らした母も、寝室へと消えていく。


 居間に残っていた俺は、半透明なゴミ袋の中、カラフルなチラシに包まれる妹の亡骸を眺めていた。

 小さな体はゴミ袋の中にすっぽりと入っていて、どこか冗談のように思えた。


 明日になれば、この遺体は山に捨てられ、妹はどこにもいないことになってしまう。


 人は死ぬとどうなるのか? 

 

 妹が生きていた事実はどこに消えてしまうのだろうか?


 俺はゴミ袋を広げ、チラシを剥いでから、妹の顔を露出させた。

 時間が経ったせいか、顔は醜く腫れ上がり、元の面影は微塵もなく、不気味な土色に変色した肌が、妹から人間らしさを奪っていた。


 濁った瞳は涙で濡れている。


 俺は開いている瞼を、優しく閉じてやった。


 パソコンで見たアニメで、確かそんなふうにしていたはずだ。

 けれど目を閉じたところで、安らかな死に顔には、ぜんぜん見えなかった。ただただ苦しみだけが刻まれていた。



 ――ほら、この子があなたの妹よ。今日からお兄ちゃんになったんだから、この子を守ってあげてね――


 

 妹が生まれた日、母は俺にそう言った。


 俺にも守るものができたのだと、生きる意味が生まれたのだと、そう思った。


 だけど――。


 俺は、どうすれば良かったのだろう?


 何度も何度もその答えを探し、幾度も幾度も自問して、どうすべきかを自分なりに見つけていた。

 だけど、何もしなかった。


 足りなかったのは覚悟だ。


 自分がリスクを負わなくとも、いつか世界は良くなる。

 アニメのヒーローみたいに、誰かがきっと助けてくれる。そんな甘えた考えを持っていた。


 そのせいで妹は死んだ。


 守るべき者を、守れなかった。


 殺生与奪の権を相手に与えていた。だから殺される。



 ――ならば、殺される前に殺せばいい。



 わかっていたことだ。


 単純な答えだ。


 だけど、生まれたときから植え付けられていた倫理観が、洗脳のように俺から思考を奪っていた。


 人を殺すことは悪いことだ。どんな理由があっても許されないことだ。


 それは正しい。否定などできない。否定できる人間は、単に想像力の欠如した馬鹿だ。


 そう、許されない。


 だからこそ、義父は許してはならぬ。


 そして俺も許されようとは思わない。善人であろうとも思わない。ただ、成すべきことを成すだけだ。


 俺は台所から包丁を取り出すと、義父の眠る寝室へと移動した。

 部屋には小電が点いていて、ベッドの上で仰向けに眠る義父の姿がよく見えた。


 静かに、そして機械的に、義父に近づく。


 包丁を逆手に持ち、手が滑らないよう、底の部分に左手を押し当てた。


 狙うは首だ。

 心臓は肋骨に守られているため、肋骨を折るほどの力がないと失敗する可能性がある。


 不思議と緊張はしていなかった。なんの感情も浮かんでこない。俺の中は空っぽで、虚無だけがそこにはあった。


 何度も何度もシミュレーションしてきた行為。難しいことなんて何もない。単にイメージを再現するだけでよかった。


 全身の体重をかけて、義父の首に包丁を突き刺す。


 ぐっ、とくぐもった声を出したあと、唐突に義父の鼾の音が途絶えた。


 呼吸を確かめる。息をしていなかった。


 なんと、あっけないんだろう。たったこれだけの行為を、どうして躊躇っていたのか。

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