第3話 疲労と落胆
「おはようございます」
澤井は来ていない。彼が出勤してくるのは8時。そう思いながら副市長室に入ると面食らってしまった。今日は珍しく彼が出勤してきていたからだ。
「お前、毎朝こんな早い時間から来ているのか」
「あ、あの。……申し訳ありません」
「なぜ謝る。残業代は出ても、早朝出勤代は出ないぞ」
「承知しております」
「まったく」
澤井はため息を吐いてから、今まで眺めていた資料に視線を戻す。天沼も荷物を置いて、それからいつもの日課である作業を開始する。今日は寝坊したおかげで、調子が悪いみたいだ。いや、リズムがおかしい。自分も調子が出ないのに、澤井も早々と来ているのが腑に落ちない。心がざわつくのは気のせいではなかった。
「これ、十分後までにまとめておけ」
澤井の声が響いているのに、どこか遠くで聞こえているような気がしていた。ぼんやりしていたらしい。さすがに寝不足が積み重なって目が霞むようだ。はっとして、顔を上げてから慌てて澤井の元に駆け寄る。
「はい」
書類を受け取って席に戻ろうとするが、澤井の手から書類が離れない。天沼はじっと澤井を見返す。
「あの」
「お前、週末も休み取っていないよな」
「え、ええ」
——四月からずっとです。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふと澤井の声が響く。
「明日、休め」
——え?
「えっと。大丈夫です。おれは」
天沼は狼狽えた。しかし澤井はじっと天沼を見つめたまま言葉を続けた。
「そんな
「はい……」
——なんとでもなる。なんとでもなるのか。そうか。そうだろうな。
「労基にも引っかかる。明日は休みだ。いいか? 出てくるなよ」
「……承知しました」
——お払い箱なのだろうか。自分では役不足か。
書類を受け取ってから、自分の机に戻る。時間は待ってくれない。やらなくてはいけないことが多いのに。休みを言い渡されたことがショックらしい。
——おれは必要とされない?
視界が霞む。
悲しいのか。
それとも、疲れがどっときているのか。
目を擦りながら、必死にパソコンの画面に視線を向けた。
——作らないと。書類を。お払い箱だとしても、今の仕事をしっかりとこなさなくてはいけないのに……。
そんな焦燥感に駆られながらパソコンを打っていると、澤井の声が聞こえた。
「
「え?」
ふと、澤井からは出てくるはずのない言葉に耳を疑った。相当疲れているのだろうか。目を瞬かせて顔を上げると、澤井はじっと天沼を見ていた。
「所帯を持っているのかと聞いている」
なかなか返答をしない天沼の態度に痺れを切らしたのか、澤井は少し不機嫌そうに尋ねてきた。夢ではないようだ。パソコンを打つ手を止めて、天沼は答える。
「い、いえ。一人です」
いつも仕事の話ばかりだったから、プライベートについてこうして改めて尋ねられたことがないせいか戸惑ってしまう。そんな天沼の気持ちを知っているのか知らずしてか、澤井は質問を続けた。
「自宅は近いのか?」
「め……目の前です。すぐそこです」
天沼は窓から覗く自分の自宅マンションを指さす。澤井はそれを見て苦笑した。
「お前の仕事好きには、さすがのおれの脱帽だな」
「いえ。面倒が嫌いなだけです」
「プライベートは適当なのだな」
「適当っていうことでもないんですけど……。あっちもこっちも上手くやれないタイプなのかもしれません」
——そう。仕事ばかり。十文字のこと。考えているつもりで、やっぱり仕事が中心になってしまう。
「不器用な奴だな。仕事にばかり打ち込んでいると、人生台無しにするぞ」
「そうでしょうか。……そうですね。きっと。そうなんだと思います」
「そう言えば、お前は田口と同期だったな」
ふと澤井がそう呟く。
「田口……え、ええ。そうです」
副市長である澤井から、一職員である田口の名が出るとは思わなかった。天沼は戸惑った顔をして視線を向けた。
「副市長は……田口と親しいのですか」
「親しいわけではない。あいつはおれに似ているところもあれば、おれとは全く違うところもある。だが、どうしてだろうな。……もどかしくて放って置けない。おれからおもちゃを奪った嫌な奴なのに。気にかけるだなんておれもどうかしている」
「おもちゃって……?」
——どういうこと? どういうことなのだ。
田口と澤井。二人の接点は見えない。確かに現在は、上司と部下の関係だが、二人が言葉を交わしているのは見たことがない。
——ああ、そうだ。
確か、初日の打ち合わせの時に、書類を見て田口が作成した物だと見抜いていたことを思い出す。あの時、覚えた違和感を思い出した。澤井は田口の文章を知っているということだ。
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