第2話 弁当と感謝



「保住室長は優秀だよね。仕事は丁寧だけど早いし。室長からの資料だけは、全然目を通さなくても大丈夫だもの。それに澤井副市長が一番信頼している人だしね」


「一番、ですか?」


「そうだね。いろいろな人と出会うけど……」


 ふと天沼は箸を止める。


 ——そう。副市長は保住には甘い。そして、彼と会う時は本当に嬉しそうに笑う。


 そんなことを考えている自分に気がついてはっとする。


 ——どうかしている。疲れているのか? なに考えているの? おれ……。


 頭を振ってから、目の前の卵焼きに目を見張る。


「あれ? これって……」


「また、失敗です」


「そんなことないよ。すっごく綺麗に焼けているじゃない」


 最初は炒り卵みたいにぐちゃぐちゃだったのに。今日は形になっている。天沼は十文字を見ると照れている様子が窺えた。


「まだまだです」


「でも、どうしたの? すごいじゃない」


「先輩で料理が上手な人がいて……。頼み込んだら、少しですけど教えてくれるんです。ちょっとしたコツとか」


「へえ。女性? ……じゃないよね。振興係はなぜか代々男性オンリーの部署だって聞いているしね」


「なんでなんですか? 総務は女性たくさんですけど」


「さあ? 力仕事も多いからかな?」


 頭が働かない。今日は寝坊したせいなのか、いつもよりも頭が重いのだ。霞みがかかっているような……思考がまとまらないというのだろうか。天沼は首を横に振ってから、話題を切り替える。


「十文字。本当、頑張ってくれて。ありがとう。感謝しています」


 素直に頭を下げると、十文字は珍しく照れたような表情を見せてからにこっと笑顔を見せた。


「やだな。照れるからやめてくださいよ。——あ、そうだ。天沼さん。明日、おれ歓迎会なんです。遅くなります。って言っても、きっと天沼さんのほうが遅いんでしょうけど」


「そういうのは自由に行っていいんだよ。おれに気を使わないで。おれも好き勝手やらせてもらっているんだから」


「でも一応です」


 十文字はそういうところは律儀だと天沼は思った。そして箸を置いて頭を下げた。


「ご馳走様でした」


「いいえ。片付けしておきます。大丈夫ですよ。準備してください」


 寝坊したのが祟った。申し訳なさそうに彼は食器を下げてから寝ぐせを直しに向かった。


 今日は頭が働かない。

 気を引き締めないと。

 ミスは許されないのだ。


 時間を見ながら手早く身支度を整えてから、リビングに顔を出すと十文字が洗い物をしている最中だった。


「うん。ごめんね。今日も遅いかも」


「わかってる。気をつけて」


 手を拭きながら側に寄って来る十文字に、笑顔を向ける。


「うん。十文字もね。美味しいお弁当、ありがとう」


 頬にキスをしてもらうと幸せな気持ちになった。


 ——今日も一日が始まるのだ。いつお払い箱になるかわからない。頑張らないと。


 天沼はお弁当を抱えてエレベーターに乗り込んだ。



***


 天沼が出て行ってしまうと、この部屋は広すぎる。最初に訪れた時に彼からモデルハウスだったと聞いた。住んでみると、それは余計に実感できた。見た目重視のため、本当に使いにくい。


 明日は歓迎会だ。冨田の企画は渡辺のオッケーをもらっているので、後は佐久間局長の許可をもらえれば正式に通ったことになる。野原の決済も降りている企画だ。


 ——多分、大丈夫。


 佐久間の決済はもらえるはずだ。


 冨田の企画は楽器を駆使したものだ。星野一郎の曲を木管や金管の様々な組み合わせで披露する。今までにない企画に、十文字もわくわくしているくらいだ。


 最初は、ただのどんくさいデブかと思ったが、能力を発揮し出すと素晴らしいのかも知れない。


「卵焼き、今日は結構いい線だもんね」


 箸でつまんで眺める。


 昨日、有坂に教えてもらった。雑巾で卵焼きの巻き方。あんなに嫌そうにしていたのに……。


 あれから、有坂も席で昼食を食べることが増えた。人と食事をするのが苦手な人がいると聞いたことがある。有坂はそういうタイプなのかもしれない。しかし彼もまた、振興係に少しずつ慣れてきているようだ。相変わらず十文字が料理を教えてもらっていると、野原が覗き見に来るが、それは自分も教えて欲しいわけではないようだ。「興味深い」といつも感想を述べるばかりで他人事。


「課長も教えてもらえばいいのに……」


 冨田と一緒に有坂の料理教室は昼休憩時間の名物となりつつあった。


「どれ、おれもそろそろかな?」


 十文字は片付けの終わった台所を消灯し、エプロンを脱ぐ。今日も一日のスタートだ。



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