第4話 挨拶と双眸
なんだか慌ただしい雰囲気の中、十文字の一日は始まった。
「あら、渡辺係長さん? どうですか? ご機嫌は?」
総務係の
––––ビビりすぎだろう。
十文字は内心そう思うが、それも致し方ないことだ。昨日まではただの平職員といっしょだったのに、今日からは突然係長と呼ばれるのだから。それにこの篠崎女史。男性職員からは恐れられているツワモノなのだ。彼女は男が嫌いなのではないかと渡辺が言っていたのを思い出す。どうやら離婚歴があるらしい。男をいびるのがものすごく得意な女性でもある。
「いやあ、ご機嫌とはいきませんよ。やはり緊張するものですから」
「まあ案外、小さい男だったんですね。口ほどにもない」
彼女の放つ棘は渡辺だけでなく、そこにいた十文字や谷川にもダメージを与えてくる。言われている渡辺を擁護できないのが辛い。自分に害がないようにと俯いて仕事をしていると、新人の冨田がふと篠崎を見上げた。
「わ~。綺麗なお姉さんですね」
彼は突然、突拍子もないことを言い出した。
––––おい、黙っとけ! このデブ!
十文字は心の中で叫んだ。彼女のようにキャリアウーマンには「綺麗だ」などという外見の褒め言葉は「セクハラ」扱いされかねないからだ。少し視線を上げると、谷川が人差し指と人差し指を交差させて、「バツ、バツ」とリアクションを見せた。
『止めろ』ということだろう。十文字はため息を吐いてから、冨田のお腹を突いた。しかし……。
「このデブは誰?」
篠崎の問いに冨田は立ち上がった。
「本日付けで振興係に異動してまいりました
他の職員に『デブ』と言われると怒るくせに、篠崎はいいらしい。冨田は朝から赤い頬を余計に赤らめて、篠崎の前に直立していた。
––––あ~あ。やっちゃったね。
十文字は手で顔を覆った。新年度初めから篠崎に目を付けられるなんて、ツイていない男だ。そう思ったからだ。しかし彼女はにこにことして冨田を見上げた。
「まあ、素直で可愛い子が来たじゃないの。生意気でいけ好かない保住くんもいなくなったことだし~……。今年はいい一年になりそうね!」
–––嘘でしょう!?
「私は教育委員会文化課総務係長の篠崎よ。よろしくね。おデブちゃん」
「よろしくお願いします!」
––––もう、デレデレじゃないか! ってか、絶対に篠崎係長は遊んでいるに違いない……。そうでなきゃ、そうでなきゃ、渡辺さんが救われない。
十文字は少々引き気味に、その場の様子を眺めていたが、そこに課長の野原が入ってきた。市長の初め式が終わったのだろう。毎年恒例、四月一日のそのイベントには課長級以上が参加をする。
「課長だ」
渡辺や篠崎は表情を引き締めて野原の元に歩み寄った。これから課長の挨拶が始まるのだ。文化課長は昨年に引き続き
日光を浴びたことはないのではないかというほど白い肌。そして不思議な雰囲気を醸し出す瞳……。
「あれ?」
十文字は目を瞬かせた。
「どうした?」
谷川の問いに十文字は小声でささやいた。
「野原課長、なんか雰囲気違ってません?」
「そうか? いや。そうかも。なんか違うな」
「ほら。目の色……」
野原は瞳の色が人と違っていた。野原がなぜ瞳の色が違っているのか、そんなに親しいわけでもないので理由はわからない。しかし今日は普通だった。そう、普通。
「あれって、カラコンじゃないですか」
「本当だ。茶色になってるじゃん。……なんか別人みたいだよな~……」
谷川の言葉に十文字も同意する。野原はあの瞳の色がトレードマークみたいなものだったから、普通の人と同じになってしまうと、随分と地味な印象を受けた。
「どういう心境の変化でしょうか?」
「いや。普通、社会人だったらあれはないよ。緑だもん。やっぱり普通の色にしたくもなるんじゃない?」
谷川は一人で納得したようにうなずく。そのうちに野原の挨拶が始まったので、十文字も口を閉ざした。
「また新年度が始まる。我々文化課は市民の……」
課内にいる総勢30名弱の職員たちは固唾をのんで野原の言葉に耳を傾けた。すると言葉を切った彼は、軽く息を吐くと「まあ、いいや」とつぶやいた。
「毎年同じ話は時間の無駄。市長から市制100周年事業がスタートするとの話があった。みんなも承知の通り、三年後のアニバーサリーを目指す。この事業は全ての部局、外部機関まで全力を挙げてのお祭り騒ぎになる。
特に我々文化課はメイン事業にも深く関わることになる。たった四名でこのお祭り事業を回そうとしている新設部署––––事業推進室への協力を惜しまないこと。それだけをお願いする。––––以上」
彼は手短に言うと、「解散」と言った。
「え? 終わりですか」
議会局から来た
「いいじゃないの。早く終わるのって」
「ですけど。新年度一発目の大事な挨拶ですよ? 正直、新人には理解しかねますよ」
「そんなこと言って。業務のあらかたは勉強してきているんだろう?」
谷川は有坂のデスク上の冊子に視線を向けた。文化課で作成している事業計画だ。
あちこちに付箋が貼ってあるし、角がよれよれになっている。すっかり読み込んでいる証拠だ。
「なんだよ。本当に。真面目かよ」
渡辺は苦笑した。
「ほら仕事だ。仕事」
彼がそう言い放った時、ふと野原が渡辺のところにやって来る。
「大丈夫? 渡辺さん」
「え? ……まあ、なんとかやってみますよ。課長」
「そう。ちゃんと仕事して」
「!?」
渡辺は目を瞬かせて固まってしまうと、野原は首を傾げた。
「いや。間違い? 真面目に仕事して? ……いや、それも違う?」
言葉選びに苦慮している様がおかしい。彼は彼で、新年度ということで多少なりとも緊張しているのだろうか。AIロボみたいな彼でも誤作動らしい。十文字はぼそっと声をかけた。
「課長。カラコンですか? いい感じですよ」
「そう? ありがとう」
心なしか瞳が輝く。
––––嬉しいんだ。
十文字と谷川は視線を合わせて苦笑した。
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