第5話 副市長と天職
「今日は帰っていいぞ」
はったと顔を上げると、澤井が自分の席で資料を眺めていた。この部屋にいるのは自分しかいない。だからきっと、自分に声をかけているのだろうということは想定される。
しかし目の前には資料の山。今朝ここに座ったばかりなのに、もう何年もここで仕事をしているかの如くだ。
副市長室は二階の隅にある。市長室の半分ほどであるがそれでも一応、応接セットもあり重役の部屋の雰囲気。
窓際にある大きなデスクの上には資料が山積み。澤井は黒いゆったりとしたリクライニング式の椅子に背を預けて、ふてぶてしい態度で座っていた。澤井から見て真正面が出入口だ。その間の部屋の中央には四人がけの応接セットがあるが、そのテーブルの上には書類が山のように置かれていた。少し触ったら雪崩が生きるかもしれない。
天沼の席は澤井の横に置かれていた。一般職員と同様クラスのデスクセットだ。右隣には「決済」「却下」の書類ボックスが入っているワゴンが置かれている。左隣にはもう一人が座れる空のデスクが置かれており、そこにも応接セットのところにあるような書類が積まれていた。
——年度初めだというのに、どうしてこうなるものか。
室内を見渡していたせいで返答が遅れた。それに気がついたのか。澤井は天沼に視線をくれた。
「おれに付き合うと午前様になるぞ。初日だ。さっさと帰れ」
「しかし……」
「こんなことで狐に摘まれたような顔をするな。始まったばかりだ。いつまでやってもこの書類が片付くことはない。……全く。この前までそこに座っていたやつがクズ過ぎてな」
澤井は応接セットのテーブルを顎で指す。
「そこのは年度越えしてしまったものだ。時間があれば、そこから片付けたい」
「承知しました」
「ただし、時間があったらな」
「はあ……」
澤井のパソコンと共有でつながっている彼の日程表をクリックする。今朝は市制100周年記念事業推進室との打ち合わせに始まり、初め式、各部長との面談をこなし、昼食は抜き。午後は外郭団体の長の挨拶を受ける時間が延々と続いた。そして、時間は18時を回っているというのに、全くもって時間の経過に気がついていなかった。『目まぐるしく』というのが正しい。
「ともかくだ。今日はもう帰っていいぞ。明日も明後日も、これから延々とこういう毎日の連続になる。ここに座っていたいなら、休める時に休め」
「……はい」
さすがに疲れたようだ。素直に頷くと、澤井は満足したのか。そのまま見ていた紙面に視線を戻した。持参してきたバッグを抱えて、そろそろと頭を下げて退室する。
——疲れた。
仕事最中は無我夢中だったのに、こうして帰宅となると足が重い。ふと秘書課の前を通りかかり、挨拶をしなくてはいけないと顔を出すと、今朝と同じように職員たちが右往左往して忙しそうだ。だけど今朝よりは少し緩やかか。大差のないことなのに。なんとなく心の余裕が見て取れる。そう思ってい突っ立っていると、ふと朝の男が天沼の前にやってきた。
「天沼、だったな。お疲れ」
「あ、あの……」
天沼は彼が誰だかわからない。何せ朝は挨拶もなしに業務開始だったからだ。戸惑った表情に男が気がついたのか。苦笑してから笑顔を見せる。
「悪かったな。おれは秘書課課長の
「いいえ。天沼です。どうぞよろしくお願いいたします」
彼は最初の殺伐とした印象よりも柔らかい笑みを見せる。朝は本当に忙しかったのだろう。そういう部署なのだ。一日で認識した。
「どうだった。澤井副市長付の一日は」
「あの。これって、ずっと続くのでしょうか?」
「悪いな。副市長からお払い箱にされるまではそうなるな」
「そうですか。お払い箱になった場合はどうなるのでしょうか?」
天沼の疑問に金成は笑う。
「そんなこと聞いてきたやつは初めてだ」
「すみません」
「いや。当然の質問だよな。大丈夫だ。お払い箱になったやつのほうが普通だ。そういう奴はここで働いてもらうから安心しろ」
「……そうですか」
それはそれで大変そう。電話にかじりついている人。パソコンを叩いている人。みんな帰れそうな気配はない。
「こっちは市長のサポートだ。副市長のサポートはこちらの職員も行うが、一応、お前が中心に常にサポートするようになる。スケジュール管理、書類の整理等々だ。今日は早く帰れるが、一週間もすれば午前様の毎日だ。休んでおけよ。体力勝負の部署だ」
「そのようですね。承知しました」
金成は口元を緩めてほっとした顔をして天沼を見る。
「異動してきてくれて助かったよ」
「え? まだおれはなにも……」
「副市長のところに職員をやって、一日持った試しがない。いつ呼び出されるかと冷や冷やしていたが。どうやら無事一日過ごせたらしい。お前には見込みがある。なんとかよろしく」
彼はそう言うと、両手を合わせて頭を下げた。
「そんな。まだ一日です。これからどうなるか……」
「いや。されど一日だ」
ぽんぽんと肩を叩かれて、そして押される。
「ほら。帰れ。よく寝ろよ」
「は、はい」
背中を押されて、そろそろと廊下を歩く。本当だったら十文字に連絡をとって……なんて思っていたが。金成の様子と澤井の部屋の様子を思い浮かべると、これは長丁場になる仕事だと理解する。
「今日は帰ろう」
『今だけだ』
その言葉を胸に自宅に帰る。明日に備えなくては。まだ先に見えない不安はあるけれど、心のどこかではわくわくとしている自分がいることも理解している。これは自分向きの仕事。そう思ったのだった。
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