第2話 チグハグとお菓子


「係長、この書類はどのようにいたしますか?」


 きりりとした有坂ありさかに尋ねられて、新人係長の渡辺はしどろもどろ。周りから見ていても情けないと十文字は思った。


「えっと。それは……。預かっておく」


「お願いします」


 頭を悩ませて、難しい顔をしている渡辺を見て、谷口と十文字は顔を見合わせた。今まで補佐としてやってきたものの、渡辺にとって係長職は初めての経験だ。まだしっくりこない様子だった。


 議会局からやってきた有坂は優秀だ。ここにきてから一ヶ月程度しか経過していないのに仕事の理解が早い。もしかしたら、この部署の業務について、谷口や十文字よりも詳しく理解しているかも知れないと思ってしまうくらいだ。


 それとは対照的に、十文字の下に来た富田とみたは、新人に毛が生えたような子だ。ぽちゃっとしていて、ぽわぽわとしていて……総務係の篠崎にデレデレだ。本当だったら、文句の一つでも言いたいくらいだが、逆に半分ほっとしている自分もいる。有坂みたいに出来る新人では困るのだ。少し抜けている冨田は、十文字が指導者として関わるにはちょうどいいレベルだった。


「十文字さん、パソコン、動かなくなっちゃったんですけど……」


「え~? どこいじったんだよ」


「わかりません。あちこち押したら、なんだか止まってしまって……」


 書類作成以前の問題か。十文字は渡辺を心配しつつも、冨田の世話で大忙しだった。


 四月一日。あの日以来。天沼との接点はない。大丈夫だろうか。メールをしても返信はない。嫌われたのかとも思うが、そうではないのだろう。


 ——きっと。本当に忙しいのだ。


「一度、電源落として再起動してみろよ」


「でも〜……、電源も落とせないんですけど」


「だから強制的にさ。シャットダウンしてみろって」


「それってどうするんです?」


 大きくため息を吐く。話にならない。十文字は、冨田のパソコンの電源を長押しして強制終了する。


「え? え? どうやったんですか? 一瞬で、なにが起こったのかわかりません! マジック……っ!」


 いちいち面倒。軽くため息を吐いて無視を決め込むが、冨田は動じない。


「ねえ、十文字さん、今どうやったんですか? ねえ、十文字さん」


 あまりにもうるさいので迷惑だとばかりに谷口が口を挟む。


「おい、答えてやれよ。うるさいから」


「うるさいって、酷いです」


「おいおい。おれは、お前が知りたそうにしているから、十文字に言ってやっているのに。文句言うなよ」


「でも〜」


「ああ、ごちゃごちゃうるさい!」


 自分の仕事でも手一杯だった渡辺が癇癪を起こした。


「仕事中だ! 静かにしろ」


 ダンっと机を叩く音に、一同は一瞬、静かになり、みんなが気まずそうな顔をした。すると、バラバラっと渡辺の机にお菓子が落ちる。


 はったとして顔を上げると、そこには文化課長の野原のはらがじっと立っていた。野原は陶器の人形のような無表情な顔で渡辺をまじまじと見ていた。机の上には煎餅とチョコレートが山のように置かれている。


「え、ええっと。すみません……、課長」


 渡辺がそう呟くと、野原はぼそっと言った。


「……お菓子食べて」


「あ、ありがとうございます……」


 じっと渡辺を見ていた野原の視線が、冨田に向かう。


「お前は、食べて駄目」


「え? お、おれですか」


「そう」


「え、えええ〜!?」


 野原はそれ以上はなにも言わずにさっさと席に戻って行く。それを見送ってから、渡辺はお菓子の山に視線を戻した。それを見て谷口が富田を茶化す。


「ほらみろ。デブは駄目だってよ」


「デブってまた言いましたね! もう人事に訴えますから」


 冨田はこそこそっと文句を言って黙り込む。十文字は内心ため息だ。


 ——もう、バラバラだ。


 こんな騒ぎなのに有坂は黙々と仕事をこなす。渡辺はおろおろとして取りまとめ役としては、まだ未熟。谷口は保住がいないせいか、新人いじりがひどい。抑止力がないと好き勝手なことを仕出すのか。


 そういう自分だって、なんだか気持ちが浮ついていて仕事に集中できない。それに自分がきちんと指導できないから、谷口に付け入られるのだ。


 ——しっかりしなくちゃ。しっかりしなくちゃ。


 そう思えば思うほど焦って、なにもできない自分がいる。本当に情けない。昨年、自分を指導してくれていた先輩の田口の気持ちが痛いくらいわかった。そんな中、昼を告げるチャイムが鳴った。渡辺は大きくため息を吐く。


「悪い。おれ、昼飯食べてくるわ」


「あ、はい」


 渡辺が席を立つと、有坂も続く。有坂は昼休みに席に座っていることはない。いつもどこかで食べているらしかった。席に残された谷口も「弁当買いに行ってくる」と言う。気持ちを切り替えようと十文字も席を立った。


「十文字さんまで、どこに行くんですか」


 冨田は一人置いていかれるのは不安のようだ。必死。だけど申し訳ないけど今日は限界。


「悪い。すぐ戻るから。飯食べていろ」


「そんな……」


「すぐ。約束するから」


 すがるように目をうるうるとされても、無理なのだ。


 十文字はそっと廊下に出た。昼食時間、廊下は人でごった返す。食堂や、外食、売店に行く人たちがいるのだろう。部署以外の人といるほうが落ち着くだなんて、仕事嫌いになりそうだった。


 昼食を調達するつもりではない。息抜きをしたいだけ。ちょっとだけ中庭にでも行ってから戻ろう。そんなことを考えて階段へ向かうと、後ろからどす黒い声が響く。


「どうなっている。そんな手はずではなかろうが! 無能が」


「財務の廣木ひろき課長からの連絡です」


「聞いていない! そんな話は取り次ぐな」


「申し訳ありません。しかし、緊急と判断いたしましたので」


 どかどかと歩いてくる男の邪魔にならないように、十文字は横によける。人混みの中。ど真ん中を堂々と歩いてくるのは副市長の澤井だ。そして後ろからついて歩くのは天沼だった。


 澤井は天沼に一瞥をくれるが、それ以上文句は言わない。文句は一通り言うものの、天沼に言っても仕方がないということを理解しているのだろう。「さっさと廣木からの資料をよこせ」と、右手を差し出す。天沼は持っていた書類を彼の手に渡した。


「こちらです」


「まったく。人の昼飯まで横取りして。尻拭いをおれにさせるのか。あいつは……」


「副市長のお仕事です」


「そんなことはわかっている」


 十文字には目もくれず、澤井は廊下を歩きながら資料を眺める。それを追いかけていく天沼。


「っ」


 十文字に気が付いたのか、彼は軽く表情を和らげた。久しぶりだ。ずっと姿も見ていなかった。視線と視線が絡み合った。


「……」


 声をかけたいが、無論そういう雰囲気でもない。


てん、この資料では意味が分からん」


「こちらに要約したものをご用意してあります」


「さっさと、そっちをよこせ。クズな資料を読み込む時間はいらん」


 天沼の視線は十文字から外れて澤井に向けられた。


 仕事中だ。仕方がない。一階に消えていく二人を見送ってから、十文字はため息を吐いた。


てん……か」


 ——天沼さん、痩せていた。目の下に隈もできていて、顔色も悪かったな……ちゃんと、寝てんのかよ?


 力ない表情が忘れられない。疲れているのだろう。苦労しているに違ない。自分を犠牲にしてまで、身を粉にしてまで職場に尽くす。


 ——本当。


「相変わらずなんだから……」


 十文字はため息を吐いた。

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