第3話 デブと好き
悶々とする気持ちを持て余していた。冨田をどうしたらいいのか悩んでいるのだ。それに天沼と会えない日々がずっと続いている。たまに廊下で見かける彼は疲労困憊という様子で、助けてあげたい気持ちがあふれているのに、どうしようもできない状況がもどかしいのだ。
「十文字、記念館に行ってくれるか。書類を持っていって欲しいんだ」
係長の
「冨田。一緒に行くぞ」
「え! は、はい」
冨田は頷いた。二人での外勤も段々馴染んできたところだ。今年は冨田が星野一郎記念館の担当になる。そして下っ端職員一番の大仕事、星野一郎記念館のサロンコンサート企画立案が彼には課せられることになる。まだ係長の渡辺からは命じられていないが……。この部署の洗礼的な業務でもある。十文字も徹夜徹夜の連続で大変苦労したことが懐かしい。
——あれから一年しか経っていないのか……。
そう思うとこの一年は色濃いものであったということか。
しかし、その企画をこの冨田にやらせることになるのだ。先日、渡辺が頭を抱えていたのを思い出した。
——あの企画を冨田がどのくらいこなせるのか。そして、それを自分が先輩として受け止められるのか。かなり不安だが……。少しずつ慣れていってもらわないと困るしな。仕方がないことか。
そんな不安を抱えながら、渡辺から書類を預かって、さっそく廊下に出た。
「待ってくださいよ〜。十文字さん」
考え込んでいたせいで、ついいつもの調子で歩くと、後ろから情けない声が響いてくる。ふうふうと息を切らしながらついてくる冨田に気が付いて、なんだか不便になった。
「冨田。お前、今日から運転ね」
「え、いいんですか?」
「いい加減、道覚えただろう?」
「はい! ありがとうございます」
嫌がるかと思ったが、冨田は嬉しそうに笑みを見せた。少しずつ、こうやって後輩とは育てなくてはいけないものなのだ。助手席に乗っていると、冨田がどっかりと運転席に腰を下ろす。運転席側が沈み込んでいるようで、なんだかバランスが悪い気がした。
「ねえ、お前さ。通勤も車なの?」
「え、ええ。……でも、軽自動車って、本当に狭いですよね~……。おれ、お腹がつっかえちゃって。ハンドル回せるかな?」
——ハンドル回せるかなだと!?
やはり運転はさせるべきではなかったかもしれないと後悔しても遅い。冨田はさっそくアクセルを踏んで車を発進させた。かなり不安な状態で出発した車だが、妙に遅いスローテンポな運転のおかげで衝突することはなさそうだ。だがこの遅さでは、周囲の迷惑になるに違いない。
——役所の名前入っているから、危険運転じゃない限り苦情が来ることはないだろう。
そう納得させて、十文字はルームミラー越しに冨田に声をかけた。
「お前さ。どう? 仕事」
別に深い意味はない。まあ世間話的な感じで軽く聞いてみたのだ。しかし冨田はいつもの調子ではなく、思い詰めた顔をしていた。
「……十文字さん。おれってみんなに嫌われているのでしょうか––––」
「は?」
思っても見ない返答に、目を見張った。
「デブ、デブって。みんな言うじゃないですか。それって嫌いってことですよね? おれ、確かに鈍臭くて、前の職場でもからかわれていましたけど……。なんだかショックで」
——なんだこいつ。気にしていたんだ。
「すみません。こんな話。ウザいですよね」
冨田の横顔は、どことなしか寂しそうだ。
——なんだかちょっと。なにも気にしていないのかと。正直思っていた。でも、結構ナイーヴなやつらしい。……いやいや。気にするなら痩せろよ!
内心、そう突っ込みを入れたくなるものの、やはり、暗い顔つきの彼を見ていると、心が動いた。
「……嫌ってなんかいないって」
「でも」
「渡辺係長も谷川さんも、愛のあるからかいしかしないから。二人がからかうってことは、それってお前のことを可愛いとか、面白いやつとか……好意的に見ているからこそだと思うけど」
「……そうでしょうか」
「だって。この前だって、谷川さんが庇ってくれたじゃない」
十文字が無視していた時に「答えてやれよ」って口を挟んでいた。あの時は冨田がうるさいということもあったが、違った意味もあったのだと十文字は思っている。
「それは……」
「お前、考えすぎ。からかわれている内が花だから。そんなに悪くないと思うけど。むしろ、そのキャラで売ったらいいじゃないか。いいキャラだと思うけどね」
「いいキャラ……ですか? デブキャラがいいキャラなんですか?」
「そうなの! 総務課係長に気に入られているのって、お前だけじゃん。羨ましいよ」
——いや、羨ましくないけどね。
信号で停まった車。十文字は、ぼすっと冨田のお腹にパンチを喰らわす。
「ぐふ! ひどいっす」
「いい腹してんじゃない。いい感じ! こんな面白いもの持ってんだ。いいじゃないか」
「……十文字さん」
「キャラって大事なわけよ」
「キャラ……ですか」
「そうそう。一発目から愛されキャラなんて羨ましすぎるぞ」
十文字の言葉に、冨田はなんだか照れ臭そうに笑う。やっと褒められていると理解したらしい。
——本当に鈍感でめんどくさい男。だけど、素直で悪い奴じゃない。
「これから、そんなこと気にしていられないくらいの大仕事が待っている。おれもサポートするから。頑張ろうな。冨田」
ふと一瞬、冨田が目を見開く。そして笑顔を見せた。
「よろしくお願いします」
「任せろ。……とか言って、おれも先輩初体験だからな。ごめん。うまくできないかも」
「全然いいですよ。おれ、十文字さん好きです」
ぽわぽわと笑う冨田。彼の「好き」は十文字が同性に対して抱く「好き」とは違っていることはわかっていても、面と向かって堂々と言われると、なんだか照れた。
「バカ野郎」
手持無沙汰でネクタイを締めなおしてから、十文字は窓の外に視線を向けた。
——好き、か。天沼さん。どうしているかな? 側にいられるなら何度でも『好き』って言ってやるのに。素直に『好き』って口に出せる冨田がうらやましい。
青信号で発進する車。冨田と距離感が縮んだ気がして嬉しい反面、天沼のことがずっと頭から離れなかった。
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