新しい世界

第1話 突然、はじまりました。


 荷物が入った段ボールを抱えて階段を登っていく。今まで勤務していたのは一階だったから、階段に慣れない上に、古い造りのおかげで、浅い高さの階段を登るにはちょっとした注意が必要だった。


 覚束ない足取りで上り切り、ほっと一息を吐く。階段が大変……ではない。緊張しているのだ。


 8時10分。新しい部署に行くのに、一人だけ早々と出勤するのは迷惑な気がしたので、少し遅めの出勤にした。みんなの迷惑にならないように。だけど、遅刻はしない程度に。そう考えるとこういった時間が妥当なのではないかと思ったのだが。


 ——秘書課はどこだろうか。


馴染みがないおかげで、少し迷いながら足を進めた。


 年度末に前任者との引き継ぎがある場合がある。内部で重要な部署であればあるほど、引き継ぎがあるものだが今回はそれがなかった。


 何故ならば、からだ。


 どうやら秘書課は、澤井副市長の御眼鏡に適う職員を当てられなかったらしい。いつからそうなっているのか聞いてはいないが、天沼の異動が決まった時点では、そのポストには誰も配置されていなかったのだ。


 当時、上司だった廣木ひろきには、『みんなが、印籠を渡されるわけではない。例外もある。気に病むな。前任者がいないので、業務については副市長が教えてくれる』と言われた。


 それはそれで恐ろしい気がするが、現実なのだから仕方がない。期待よりも不安ばかりが募る異動先に、動悸を自覚しながら歩みを進めた。


 すると、まだ勤務時間前だというのに、妙に騒がしい部屋を見つけた。視線を上げて扉の隣に掲示されているプレートの部署名を確認する。


『秘書課』


 ここが、今日から自分が勤務する部署なのか。天沼は、段ボールを抱えたまま顔を出した。


「あの。おはようございます。本日より配属となります天沼あまぬまです……」


 最後のほうは声が小さくなる。なにせ、誰もこちらなんか見ていないからだ。


「おい! 市長の挨拶文の最終手直し終わったか?」


「もう少しです」


「遅いぞ」


 中心にいる男は、小柄でお腹が出ていた。彼の周囲にいる総勢20名弱の職員たちは、朝一だというのにお構いなし。


 パソコンを猛烈に叩いている者。電話で怒声をあげている者。山のような資料を漁っている者。みんな必死の形相で恐ろしい。女性職員は一人も見当たらなかった。


 始業前とは思えないくらいの忙しさだった。ぽかんとして佇んでいると、小柄のその男が天沼に気がついたようだ。


「天沼か」


「は、はい。おはようございます。あの……」


「そんな挨拶は後にして。悪いけど、初め式の準備で忙しい。業務のことは後でゆっくり教えるから。それよりも……」


 彼がそう言いかけた瞬間。秘書課の開け放たれた扉から大柄な、邪悪な表情の男が顔を出す。


「おい、お前! 10分後に会議だから、資料を作っておけ」


 数枚のメモを渡されて、天沼は顔を上げる。


「おれですよね?」


「くだらないことを聞くな。お前しかいないだろうが」


 業務の内容も知らない。自分の名前すら名乗っていない。この人。予習してきたので少しは見知っている。彼が悪名高い、梅沢市役所副市長の澤井さわいという男だ。天沼の脳裏には、彼の事前情報が走馬灯のように流れていく。


『今年56歳。梅沢市役所始まって以来の生え抜き副市長。強引だが、穏便な裁きは、歴代の職員の中でも群を抜いて優れている。

 ただし、口を開けば嫌味と文句の嵐。彼の右に出る者はいないくらいの性格の悪さ。根に持つタイプで、一度怒りを買ったら者は徹底的に潰される。

 退職したり、休職したりする職員は数知れず。

 副市長に就任後、彼のサポートをこなせる人材はおらず、ここ数年で10名以上の職員が年度途中での異動を余儀なくされている』


 事前に天沼がまとめた情報。その副市長の澤井が、さっそくやってきて天沼にメモを渡すのだ。しかし、質問を投げかけている場合ではないということを理解する。


「10分後ですね」


「そうだ。六部な」


 それだけ言うと、澤井は、廊下に姿を消した。天沼はそれを見送ってから、さっきの男を掴まえる。


「おれの使えるパソコンはありますか?」


「これだ」


 男はぶっきらぼうに側のノートパソコンを指した。天沼は、殴り書きのような読みにくいメモに目を通しながら、パソコンを開く。


 ——疑問を持つのは無意味。目の前の仕事をこなせ。


 頭の中でそう声が響いている。メモの内容は、市制100周年記念事業の打ち合わせだ。


「えっと……コンセプト」


 澤井のメモでは少し足りない。フォルダーから、市制100周年で検索をかけると、前年度末に決まっている資料が出てくる。内容的には、澤井のメモと相違がなさそうだ。


 こちらからの内容を引っ張ってもいいのかと尋ねようとも思うが、澤井のところに確認に行っている暇はなかった。怒られても仕方がない。意味が分からない資料よりはいいだろう。時間がないのだ。ここに飛ばされて嘆いている場合ではないということか。


 自分の荷物の整理もままならないままに、書類作成を行う。必要部数六部を印刷し、ホチキスで止めたところで、澤井が顔を出した。



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