第14話 始まりと暇乞


 四月一日。


「早めに出るんでしょう? 天沼あまぬまさん」


 玄関ドアを開けて、外から声をかけると、中から慌てている声が響いた。


「だって、十文字じゅうもんじが時間通りに朝、起こさないから」


「いつまでも気持ち良さそうに寝てるんだもの。邪魔しちゃ悪いかなって思って」


「そういう気遣いはいらないから」


 顔を出した最愛の男、天沼のネクタイが曲がっていることに気がついて直してあげると、彼は気恥ずかしそうに視線を伏せた。濃紺色のそれは、なんだかちょっと天沼をできる男に見せる。


「今日から秘書課か。なんだかいい響きですね」


「気が重いだけ」


「天沼さんのベストポジションでしょう? 人のサポートさせたら右に出る人がいないんだから」


 そうは言うけど、二人にとったらしばしのお別れになるかもしれないのだ。天沼は澤井さわい副市長付きになる辞令が出ている。あの澤井だ。副市長の忙しさは、市長同等だ。その彼に付き従うなんて、休みは期待できないということも肯けた。


「休みが、あるといいけど」


「そうだねえ」


「あったら連絡くれるんですか」


「そうだね」


「天沼さん」


「嘘だよ。ちゃんと連絡するって」


 のらりくらりの返答に声を大きくするが、全く相手にされていないのか、天沼は笑顔を見せていた。朝日に光る彼の笑顔は眩しいくらい清々しい。あの時に泣いた彼ではないのだ。


 あれから、二人は時間があれば一緒に時間を過ごした。結局は、強引に押し切っている十文字のペースのようにも見えるが、天沼は、そう嫌でもない様子。田口たぐちのことは、結局のところ、好きなのかどうかなんてはっきりしていないみたいだけど、自分のことを向いてくれるなら良しとするしかない。


「応援しています」


「十文字も人の心配している場合じゃないよ。保住ほずみ係長も田口も抜けちゃって。新しい人が二人くるんでしょう」


「そうなんですよ」


 玄関を施錠して、エレベーターに乗り込む。


「一人は先輩で議会事務局から。もう一人はおれと同じルートで市民課からですよ。渡辺わたなべさんも係長になるってテンパっているし。心配だらけですよ」


「でしょう? みんなそうなの。田口たちだって、議会でも注目の的事業の中核メンバーだし。プレッシャーも多いだろうね」 


「本当は、一緒にやりたかったくせに」


「確かにね。でも、よくよく考えたら、おれには無理だったと思うね。おれ、一人で決断するって苦手だから」


「決められたことを、うまくやりこなす能力ですもんね」


「だね」


 マンションから外に出ると、すっかり春の陽気だ。


「しばらく会えないけど、浮気なしですからね」


 十文字がふと彼の横顔を見ると、天沼は笑顔を見せた。


「そういう、君もね」


「しませんよ」


「どうだか。おれにすぐ手を出すくらいだ。信用ならないね」


「それをいうなら澤井副市長の方が怪しい。四六時中、あの人と一緒にいるんでしょう? 妬けるな」


 ブウっと口を膨らませると、天沼はそれを指で突いた。


「だったら市長にでもなれば? おれが全力でサポートしてあげるよ」


「な、え? 冗談でしょう?」


「あら? そういう野心はないんだ。お父さんの地盤、まだ生きているんじゃない?」


「それは」


 久留飛くるびとの邂逅を思い出した。

 まさかね……?

 彼は、自分が市長の座に興味があるかどうか探りを入れてきたのだ。

 おれが?

 まさか。

 そんなことは考えたこともなかったのに、こうして周囲から言われると「市長に興味を持たなければならないのか?」と言う気持ちになった。


「天沼さん、おれ。市長にならないといけないのかな?」


十文字の戸惑いを察してくれたのだろうか。

天沼は優しい笑みを浮かべてから、彼の手を握った。


「まあ正直に言えば、みんなが期待しているってことはあると思うよ。なにせただの一般人とは違って、君にはそう言う血が流れているんだから。でも、そこから先は君の人生じゃない。他の誰でもない自分自身のね」


 天沼の視線を見返して、十文字は動悸こそするものの、心は穏やかになる。天沼がいるという安心感。


「どうしようもなく、抗えないこともあるかもしれないけど、君らしくいればいい。そうでしょ?」


 そう。自分を肯定してくれる天沼の言葉に救われる。どんなことでも乗り切れそう。


「今、考えたって仕方がないと思います」


「そうそう。今日からの仕事のほうが目下の課題だ」


「仕事だけじゃありませんよ。おれにとっての課題は、これから忙しくなる天沼さんと、どう時間を作るかですっ!」


 十文字の言葉に、天沼は軽く目を見開いてから微笑んだ。


「ありがとう」


「ありがとうとかの問題じゃないです。ちゃんと連絡寄越してくださいよ! 深夜でもいいんで。どうせ、遠慮して寄越さない気なんだから」


「なんでわかるの?」


「わかりますっ!」


 颯爽と歩く天沼の後ろをくっついて、十文字は市役所へと足を踏み入れた。二人が顔を合わせるのは、言葉通り、しばらく先の話––––。





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