第5話 電話と急変


 十文字じゅうもんじが知っている店なんて、そうそうない。振興係でよく利用する市役所近くの居酒屋「赤ちょうちん」だけだ。二人は赤ちょうちんのカウンターに並んで座っていた。しかし「タクシーで帰るからいいんですよ」なんて息巻いて、日本酒に手をつけたのが不味かったと後悔しても遅い。そう言えば、十文字は酒癖が悪いのだった。


「だから! いい子ちゃんは止めた方がいいですよっ、バカ見ますから」


 先輩である彼に説教を垂れてどうする、と思いつつも、やめられないのだから仕方がない。カウンターで横に座る天沼あまぬまは苦笑いだ。


「ああ、そう。だから怒っていたんだ」


「そうです。怒っています。なんなんですか、あの係長。おれ、嫌いです」


「そう、うんうん。ありがとう。おれのこと心配してくれているんだね」


 なぜ車通勤の自分が日本酒で、すぐ近くの天沼が烏龍茶なのかは疑問だが、そんなことはお構いなしに彼は飲み進める。素面しらふで対応できるほど、心に余裕がないせいなのだろうか。


「心配なんて、誰が」


「嘘だよ。怒っている人って、困っている人なんだって」


「は、はあ?」


「おれが雑な扱いを受けていると思って心配してくれているんだね」


「ば、バカじゃないですか? 自意識過剰もいい加減にしてくださいよ……」


 図星で何も言えない。プイっと視線をそらすと、天沼は吹き出した。


「わかりやすいね。十文字」


「あのねえ」


 言い返えそうと口を開くと、彼は突然に十文字を指差した。


「十文字春介しゅんすけ。十文字前市長の二男じなんでしょ?」


「な、なんですか。それ」


「調べました」


「それってストーカー行為ですけど」


「そう? 珍しい名前だもの。すぐに出てくるって。ほら、ちゃんと名前、覚えていたでしょう?」


 クスクスと笑う天沼の横顔を見て悪い気がしないのは、彼が自分に少しでも興味を抱いてくれたということだからだ。相手を知りたいって心が、自分に向いてくれているということだと思えるから。


 かくいう自分も、職員のデータベースで彼を検索したことは秘密にしておこう。だって自分がやったら、本気でストーカーだもの。気味悪がられて終わりな気がした。


「育ちのいいボンボンなんだねえ〜、そんな感じするな」


「そうですか」


「そうだよ。お洒落だしね。モテそうだよね」


 カウンターに添えられている彼の指を見ていると触れたくなる。飲むと出てくる悪いクセ。すぐに人に触れたくなる。だけど、どこかで自制心が必死に稼働しているのだ。本気だからこそ触れてはいけない気がするのに、我慢できない自分もいる。


 そっと指を伸ばして、その指を触れようとしたその時。カウンターに置かれていた彼の携帯が音を立てた。


 ––––こんな遅い時間に電話がくるのか? 家族か? それとも友人?


 表示画面を確認した彼は、十文字に「ごめん」とだけ言って席を立った。


「お疲れ様です。課長。どうされましたか? こんな時間に……」


 彼は古くきしんだ、赤ちょうちんの扉を開いて外に出ていった。


「課長?」


 時計の針は23時近いのに、課長からなんて電話が来るものか?


 十文字は自分の課長を思い浮かべた。自分のところの課長は、野原のはらと言う男だ。振興係のメンバーからは「AIロボ」とあだ名がついているくらい、無機質な男だ。その彼が、こんな時間に電話をかけて寄越すところを想像しようとしてもイメージがわかない。


「か〜、んなわけないっ」


 独り言のように呟くが、気持ちはなんだか面白くない。グラスに残っている日本酒をぐっと飲み干して待っていると、天沼が顔を出した。戻ってきた彼はどことなしか様子がおかしかった。


「天沼さん?」


「……あの、えっと。ごめん。おれ。帰らなくちゃ」


「え?」


「ごめん。十文字。これ、お代。一人で帰れる? タクシー呼ぼうか」


 何この雑な対応。呆気にとられている彼をいいことに、天沼は「おかみさん、タクシーお願いします」と声をかけてから十文字に一万円札を握らせた。


「ごめんね。今日は。楽しかった。ありがとう」


「ちょ、天沼さん?」


 逃げるように去っていく彼を止めることができない。というか事情がわからないから、どうしたらいいのかも、わからなかったのだ。


「な、なんだよ。これ」


 ––––一万円なんて多すぎだし。意味わからないしっ!


 突然の変わりように対応できていない自分も不甲斐ないし、課長からの電話の内容が気になって気になって仕方がない。


 自分との飲み会を中断させるほどの内容なの?

 呼び出された?


 どういうことなんだ。


「お客さん、タクシーきたわよ。お会計しましょうか」


 おかみさんの笑顔にさらに困惑しながら、十文字は会計を済ませてタクシーに飛び乗った。





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