第4話 口論と夕飯



「あの、これ」


 他の職員もいる中で「ワイシャツありがとうございました」なんて大きな声では言えない。ただ手に持っていた紙袋を差し出すと、彼は中身を理解しているのか素直に受け取った。


「いいのに。面倒かけたね」


 彼はにこっと笑顔を見せた。これで終わりか。終わりに決まっていると思っていると、ふと係長の席にいた男が声を上げた。


天沼あまぬま、上っていいぞ」


「係長。でも」


「おれの頼んだ仕事は明日でいいんだ。悪いな。いつも」


「いえ」


「たまには早く帰れよ」


 帰り支度の十文字じゅうもんじを見て、察してくれたのだろう。上司から「帰れ」と言われると、「残ります」とは言い難い。


 天沼は「それでは」と言いながら帰り支度をした。一緒に帰る約束なんてしているわけでもないが、迎えにきたと思われた手前、こうして待っていた方がいいのだろうと思った。


「いえ、渡すものがあっただけです」なんて言って立ち去ったら、きっと彼は残業の続きをするだけだ。


 いつも働きすぎの様子だし、たまにはいいのではないか?

 しかも「おれの頼んだ仕事」って、なんだ?


 そんな疑念を持ちながら待っていると、彼はみんなに挨拶をして十文字の元にやってきた。


「ごめん。お待たせ」


「いえ。それより、名前、忘れるとかあり得ないし」


「ぐ……、別に忘れてないし。突然現れるからだろ! 面食らっただけっ」


 ほんのちょっとの間なのに、すぐにこうして喧嘩みたいになるのって、いいのか悪いのか……。しかも「一緒に帰ろう」的なことを言っていても、玄関に到着すればそこでお別れになるのだ。暗い廊下を歩きながら十文字は尋ねる。


「係長の仕事、肩代わりしているんですか」


「肩代わりってほどじゃないよ。係長って忙しいからね。できることは手伝わないと」


また人にいい顔して。


「自分の仕事、部下に押し付けるってないです」


 ボソッと呟く。十文字の上司である保住ほずみは、不躾に仕事を押し付けたりしない。田口たぐちのことは信頼しているせいか、ちょっとしたことを依頼している姿は見かけるが、書類作り全てを部下に投げて寄越すような男ではないから、少し驚いたのだ。


「悪い人じゃないんだよ。気がついてくれる人だし」


「でもやっていることは変ですよ」


 十文字は面白くなくて眉間に皺を寄せるが、それを見上げて天沼は首を傾げた。


「そんな、なんで怒る? 上司の仕事を肩代わりするのはおれたちの責務だ」


「違いますよ。あの人たち、おれたちよりも給料もらっているんですよ? 自分の仕事は自分でやらないと。少なくとも、うちの係長はそんなことしませんから」


「それは十文字くんのところの係長が変わっているんでしょう? 普通だよ、こんなの」


「そうですか? おれは納得できません」


「おれに言われても」


「甘んじて受けているのは天沼さんでしょう?」


 つい声が大きくなってしまってハッとする。天沼は困惑した顔をしていたからだ。


 それはそうだ。なにをいきがっているのだ。でもイライラするのだ。


「そんなに怒らないでよ」


「でも」


 二人は職員玄関に到着した。本来ならここでお別れだ。ワイシャツの紙袋を眺めていた天沼は、軽く頷くと十文字を見上げた。


「ありがとう。わざわざクリーニングまで出してくれて」


「いえ」


「じゃあ」


「……」


 これで終わりでいいのか?

 イライラした気持ちのままでいいのか?


 なんで自分はイラついているのか理解できないのだ。さっさと足を進めればいいのに、どうしてもその場にとどまりたくて一歩が踏み出せない。


「十文字?」


「あの、ご飯食べましょう」


「は?」


「だって友達からなんでしょう?」


「……っ」


 そこであの晩のことを思い出したのか、彼は少し恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。


「そ、そうだけど」


「友達だったら、ご飯食べに行くでしょう?」


「それは、そうだけど」


「じゃあ、いきましょう」


 珍しく強引だと思うが、きっとイライラした気持ちの勢いだったのだろうと思われる。十文字はそう決めるとさっさと歩き出した。困惑したままの天沼は、少し遅れて黙って後をついてきた。




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