三章10 『図書館の姫 その10』

「火星の民は誘導されて隕石の被害に遭わない場所へ避難しました。ところが、たった一人――いえ、一柱だけ不幸な方がいらっしゃいました」

 僕はちょっと考えてから言った。

「一柱……ということは、神様かい?」

「はい。いかなる理由でかはわたくしも存じませんが、逃げ遅れて隕石に巻き込まれて――そのまま」

オモヒメは俯き、言葉を濁して話を締めくくった。


 僕はごくりと唾を飲みこんで訊いた。

「……その神様って言うのは、誰なんだい?」

「司るは、幸福。皆からはドーラ・パム――ドーラと呼ばれていらっしゃったようです」

「じゃ、じゃあ、あの隕石で火星から幸福が消えてしまったのかい!?」

 こくりとオモヒメはうなずく。

「ドーラがいなくなったことで、火星に住む人や動物、果ては神まで幸せを感じることができなくなってしまったのです」

「大変じゃないか」

「そうですね。でも、幸いなことに近しい感情を失わずに済みました」

「なんだい、それは?」

「安堵です。安心感さえあれば、人は幸福に近しい喜びを得ることができます」

「なるほど。危険を回避できて安心できれば、それなりに嬉しいかもしれない」

「火星人もそのことに気が付きました。しかしその方法で幸福を捏造するために、火星人達は今までの生活を一新させねばならなくなります」

「というと?」


「安堵を得るためには危険が必要。それを生み出すにはどうするか」

 間を置いて、オモヒメはシンキング・タイムを設けてきた。

 僕は思考の海をしばらく彷徨(さまよ)った後に答えた。

「……そりゃまあ、危険なことをしなきゃいけないね」

「はい。危険なことをする――火星人達はそのことについて考えました。最初は手持ちのものを賭けた、ギャンブルを思いつきました」


 望遠鏡を向けた先では、二人の男が食物をかけてコイントスらしきものをしていた。

 投げられたコインが宙を舞う。二人は息を飲んでそれを見守る。やがて地に落ちてリザルトが出た時、一方が落胆し、一方が両手を上げて喜色を顔いっぱいに浮かべた。


「……あれは幸福じゃないのかい?」

「安堵から来る興奮、気持ちの昂(たかぶ)りですわ。残念ですけど幸福ではありません」

「わからないな。それを幸福と呼んではいけないのかい?」

「まあ、これから起きることをご覧になればわかるかと」

 僕は肩を竦めて再び望遠鏡を覗いた。


 ギャンブル以外にも体を張った決闘や度胸試しが行われるようになった。

 些細な対立は、やがて個と個から集団と集団へと変化していく。

 徐々にギャンブルや決闘の強い勝ち組と負け組が生まれていく。その構造は実生活にも影響を及(およ)ぼしていく。

 強き者は横暴に振る舞い、負け組は彼等に従う。まるで主人と奴隷だ。

 その内に強者同士での争いが始まり、対立による溝は深まっていく。


 ついにはコミューンが分かたれた。

 かくして二つの国が生まれ、各々の長を強者が務めた。敗者は彼等のためにせっせと働くことを強(し)いられる。

 その二つの国も無性生殖する生物のようにどんどん分裂していく。

 いくつもの国が火星いっぱいに広がっていく。

 己が領土を見つけるために隕石によって荒廃した地へ向かう者すらいた。

 そのおかげで星の半分は元の姿を取り戻していった。ただし、それは星の見た目だけだ。火星が隕石により失った幸福は、癒(い)えない傷となっていた。住む民はそれと気づかず自傷行為を繰り返していくことになる――内部に入った黴菌(ばいきん)が細胞を破壊していくように。


 安堵感は大きければ大きいほどに、より幸福に近しいものが得られる。

 そうと気付いた火星人達はやがて命すら賭けるようになる。

 命を賭(と)すべく、それに用(もち)いる武器が生み出された。

 こん棒、剣、槍、斧、弓……。

 火星では本来、それ等は必要のなかったものだ。

 外敵はおらず、誰もが仲良く暮らす楽園だったのだから。


「段々と物々しくなってきましたわね」

 オモヒメを見やると、彼女は寝転んでどら焼きをぱくついていた。着物が崩れて肩がはだけかけているのも気にしてないっぽい。

「……家で映画でも見てるようなくつろぎっぷりだね」

「まあ、所詮(しょせん)はあれ、過去の出来事の再現ですし。鑑賞気分にもなろうというものですわ」

「ちょっとは感情移入とかして、胸が苦しくなったりしないのかい?」

「まさか」

 けらけらと笑われた。……人情味がない人だ。いや、神だから当然か。


「でも、ああまで簡単に人の心が離れ離れになっちゃうなんて。ちょっとビックリしたよ」

「そうでしょうか。人とは本質的に、個と個との生き物なのですわ」

「そうかな?」

「はい。コミューンが細分化した現代の地球こそがあるべき姿なのです。家という殻(から)に籠(こも)り、己(おの)が存在を確立していく。さながら力なき神のように」

「……力なき神」

「はい。神は自分に似せて人間を作りました。それは新たな神を生み出すため。しかし結局は失敗した。その失敗作は己を人間と定義して、神に選ばれた存在として勘違いしたまま今日まで繁殖を繰り返してきたのです」

 いよいよオモヒメの本性が見えてきたなと思った。

 ここまでずけずけ彼女がものを言うのは、僕だからだ。

 神でもなく、人間もない――黒茸だからだろう。

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