三章5 『図書館の姫 その5』
やあ、黒茸さ。
僕は今、知恵の神のオモヒメと不思議な世界にいる。
どうやらここは、本の世界で、でもその前にいた不思議な空間もどうやら現実ではないらしい。つまりここは現実ではない世界の、さらにことなる空間ということになる。まるでマトリョーシカのようだね。
で、今その本の世界がなんか日本庭園みたいになってる。
目の前には澄んだ黄緑色の玉露(ぎょくろ)に、醤油の匂いが香る煎餅。
なんか不思議な組み合わせのように思えた。
「こういう高級そうなお茶って、もっと和菓子屋で売ってるような練り物みたいなきれいな見た目のお菓子とセットで出されるものだと思ってたよ」
「玉露というのはそれだけで甘みがありますの。ですから、甘いお菓子ではなく別の味のものとセットでお出しするのが基本ですのよ」
「なるほど。さすが知恵の神だ、詳しいね」
「まあ、常日頃いろんな方の知識に触れてますので。というか、それぐらいしかすることがないんですけどね」
美しい所作で玉露を飲むオモヒメ。僕もそれを真似するよう意識して飲んでみる。
玉露は確かに微かに甘みがあり、しかも香り高く飲んだ瞬間に心が癒されていくのを感じた。周囲の景色がゆったり落ち着いたものであることも精神に作用しているのかもしれない。
「……さきほど、黒茸様のことをお伺いしてて思ったのですが」
「うん?」
「黒茸様は、人に触れたら世界が亡(ほろ)んでしまう――そのような呪いを生まれつき背負っていらっしゃるんですよね?」
「うん。まあ、そうだね」
オモヒメはちょっと考え込むように口元に手をやった後、改まった様子で言った。
「それって、似ていると思いません?」
「似てるって、何が?」
「ちょっと例を交えてお話させていただきましょうか」
オモヒメはすっと手を横に振った。途端、畳の上のものはそのままに、周囲の光景が一変した。
黒一色の空間。しかしそこには色んな小さな光を灯ししもの――おそらく星がいっぱいに瞬いている。
夜空――いや、そうじゃない。
僕は遠くに見つけた。
青い光を纏いし星を。
目を凝らしてみると、白くうねるもの、緑の模様みたいなものが見えてきた。
「ねえ、あれってもしかして……」
僕が指差したものを見て、オモヒメはゆっくりとうなずいた。
「生命体の住む星でございますね」
つまり、地球ということだろう。
「じゃあここは……?」
「星と星の戯(たわむ)れる場所。宇宙ですわ」
僕は息を呑んで――きちんと呼吸することができた――辺りを見回し、畳の下を確認した。
地面がない。どこまでも底の見えぬ闇とつぶらな光の空間が広がっている。
「……すごいよ。僕、宇宙にいるんだ!」
「ええ。宇宙飛行士の方の記憶を見て再現してるので、おおむね本物を忠実に再現できていると思いますわ。まあ、細部がちょっと違うかもしれませんけど」
畳は少しずつどこかへ向かって――いや、地球に近づくように移動していた。
星は遠くから見ると小さくてかわいいが、近づくとものすごく大きくて迫力があった。
乗ったことはないけど、遊園地のアトラクションってこんな感じなのだろうか?
畳は高速で移動しているはずだが、茶器やお菓子が吹っ飛ぶことはなかった。そもそも宇宙にいるはずなのに呼吸ができるし、重力を感じる。あらゆる物理法則がここでは意味を成さないようだった。
僕は周囲の景色を眺め、感嘆の声を漏らしながら言った。
「カメラ持って来ればよかったなあ。ああでも、現実世界に写真は持って帰れないか。残念だなあ」
「はい、どうぞ」
なんだろうと声の方を向くと、オモヒメは手に一眼レフのカメラを手に持ちこちらに差し出してきていた。
「……えっと?」
「写真は持って帰れませんが、気分だけでも味わっていただこうかと。あ、きちんと暗視対応のものにしておきました」
「こりゃ、どうも……」
僕はカメラを受け取り、ファインダーを覗きながら周囲を改めて見やった。
小さな小窓から見る宇宙は却(かえ)ってその空間の広がりを感じた。視野が狭くなることにより逆にそのスケールの大きさが際立(きわだ)って感じるというか……。上手く言葉にできないけど、そんな感じがする。
試しに一枚、とシャッターを切ってみる。パシャッという音と共にフラッシュが焚(た)かれる。宇宙で写真を撮影しているなんて、不思議な感覚だ。
続けざまにシャッターを次々切っていく。
見覚えのある星もあった。
土星に水星、それに大きな太陽。
どれも写真では知っていたけど、実際に目(ま)の当たりにすると印象が違った。その巨大さや色味に質感。触れてすらいないのに、視覚を通してそれ等が伝わってくる。
ファインダーから目を離して眺めると、宇宙全体が僕の視界を覆ってくる。星が眩く光りつつも優しく包み込んでくる。
相反(あいはん)する感覚に戸惑いつつも、僕はそういうものなのだろうと納得した。
きっと世界はそうなのだ。
厳しさと優しさ、両方によって成り立っている。
圧迫するような闇と、星々のような遠くから見守るような温かさ。
そして。
カメラを置き、器(うつわ)を手に持って、玉露を口に含む。
直接心を温めてくれる、一服。
人は死んだら星になるという。
僕、黒茸がどうなるかはわからない。
でも星のような存在ではありたい。今はそうでなくても、いつか――
ぱりっと醤油煎餅をかじった。香ばしく濃ゆい味。なんだかとても落ち着いた。
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