三章4 『図書館の姫 その4』
目を覚ますとそこは荒れ果てた大地だった。
木どころか草一本すら生えていない。
それに不毛の大地には色(・)がなかった。
そこに確かに地面がある。しかしそれを事物として認識はできても、それ以上に付加される情報はない。大地と便宜的に理解はしているが、それはもしかしたら海かもしれないし、空かもしれない。
何をもって大地とするか。それは確固たる足場になるからである。
月にいると仮定しよう。
クレーターができるような大きな岩がある。それが球形であれば星となる。もっとも親しみのあるものの名を挙げるなら月だろうか。
しかし月には重力がない。
果たして我々はその星の膜たる岩を大地と呼べるだろうか? 地と呼べども、信頼をもって大地と呼称するだろうか?
つまりこれは、本当であれば大地ですらない。
僕は地面を蹴る。ふわりと体が浮いた。
重力がない。しかし体を地面に接しようとすれば、途端にその概念が生まれる。
僕は当然の疑問を抱いた。
|ここはどこだ(・・・・・・)?
ぐるりと見回しても広がっているのは虚無ばかりだ。
白い空間。霧ですらなく、遠くまで見渡せる。何もない空間を。
果てなく広がるここに僕は一人ぽつんと存在していた。何億年も何もない場所に幽閉されるボタンの話をどこかで聞いたことがあるが、それを押せばこんな場所に辿り着くんじゃないだろうか。
僕はため息を吐いて頭上を仰いだ。
白い。ただひたすらに。雲に覆われた天よりも、さらに。
見るべきものもないのでぼうとそうしていると、突然キラキラしたものが降ってきた。
雪……?
いや、そうじゃない。
これはついさっき見たものだ。この世界に来る直前、オモヒメが持っていた本から吹いた――そう、風。たしか風が伴っていたのが、まさにこの光だった。
光はすぐに辺り一面を覆うかのように量を増していく。今は風もなく、ゆっくりと宙を遊泳(ゆうえい)するかのように降りてくる。本当に雪みたいだ。
触れようと手を伸ばした時、一際眩く宙が輝き出した。
僕の目はそれにひきつけられ、体も動きを止める。
じっと見入る。
突如、光の中から黒いブーツが出てきた。
……あれは、オモヒメのものじゃないか。
そのまま膝、スカートに腰、胸、顔に長い髪と光の中から彼女が姿を現した。
白い世界にその黒づくめの格好は異様なぐらいによく映えた。
大地でない大地に降り立った彼女は、軽く乱れた髪を整えた。
「さすが黒茸様ですわ。本の世界にいきなり飛ばされても、意識を保ったままでいらっしゃられたとは」
「ま、まあね」
本当はちょっと前まで気を失っていたのだが、なんだか情けなく思えてきたので黙っておくことにした。
「ところで、本の世界っていうのは……?」
「もうお気づきかと思っておりましたが」
「……ええと。確かこの世界に来る直前、本が大きく見えたような。……ま、まさか」
僕は震え気味の声をどうにか絞り出して訊いた。
「ここって本の中の世界!?」
オモヒメはにこりと微笑みを浮かべてうなずいた。
「ええ、その通りでございます。ここは本の中の世界。ゆえに白き虚無の空間が延々と広がっているのですわ」
「……なっ、あ、アメイジング」
「くすくす。そこはアンビリーバボーの方がふさわしいと思いますわ」
オモヒメはそっと空を撫でるように手を動かした。途端、そこになんの前触れもなく一脚の椅子が現れた。
「えっ、ま、マジック!?」
「失礼ですが、黒茸様は物覚えがあまりよろしくないのですね」
「……えっ?」
彼女は軽く肩を竦めて、またも宙を撫で、机に半紙、文鎮(ぶんちん)、墨の入ったすずりに筆と次々に出現させていった。もはや手品の域は軽く超えていた。
漂う墨の香りは虚無的な空間において、事物に満ちた現実世界を思い起こさせるいわば錨(いかり)的な存在のようであった。
筆を手に取ったオモヒメはすらすらと慣れた手つきで半紙に字を記していった。
それが出来上がると文鎮をのけて出来上がった字を見せてきた。
「神技ですわ、神技」
その二字は達筆で、本職の書道家に見劣りしないレベルのものだった。
「上手いね、すごく」
「まあ、ここは本の世界ですので。やろうと思えば頭の上に乗せた林檎に矢を射たり、机の上にのせたものを落とさずにテーブルクロスを引くことも自在にやってのけますわ」
「もうちょっと有益なことを思いついたりしないのかい?」
「わたくしの存在自体が益に繋がるものではありませんので。まあ、オモイカネという存在が消滅すれば知恵というか知識……もっと突き詰めて言えば、記憶そのものが消滅する恐れがありますけど」
オモヒメは僕を見下ろしてやや冷たい笑みを浮かべて頭をつついてきた。神である彼女が僕に触れたところで呪いは発動しないし、ましてやここは現実世界ではない。もしかしたら今この場にいる僕自身も“本当の”僕ではないかもしれない。今や呪いすら背負っていない可能性だってある。
「……なんだかこの世界って、いるだけですごく不思議な気分にさせられるね」
「あら、わかりますの?」
半紙と筆を置いたオモヒメはそれの上で真横に手を振った。途端、机上のものが全て消え去り代わりに香ばしい日本茶に醤油の香る煎餅とが現れた。
「お茶にしましょうか。その方が楽しくお話しできるでしょう?」
「う、うん。でも……」
戸惑ってる僕を不思議そうに眺めていたオモヒメは、やがて「ああ」と合点がいったようにうなずいた。
「ごめんなさい、気が利かなくて」
彼女は机に肘をつき、何もない掌(てのひら)を上向けて、そこにふっと息を吹きかけた。
少しして僕の真後ろにカタンという音がした。
なんぞやと見やればそこにいつの間にか一脚の椅子があった。
「……あ、どうも、ご丁寧に」
「段々順応してきたようですわね、この世界に」
「そりゃまあ……」
こうも立て続けに不思議なことが起きれば、イヤでも感覚が麻痺して慣れてくる。
「玉露でよろしかった? もし望むなら、ダージリンも出せますけど」
「いや、いいよこれで。ただ、こういったお茶は縁側か畳の上で飲みたいけどね」
「なるほど、わかりましたわ」
「えっ?」
オモヒメは立ち上がったかと思うと、何やら体をゆるりと動かし始めた。
まるで時の流れに身を委ねたような動きだ。
これは……日本舞踊の一つ、舞いというやつだろう。
日本でかつて上流階級の人達が楽しんだものだ。今も盆踊りや巫女舞、もちろんオリジナルも残りのものも残り、人々に親しまれている。
その動きがゆっくりと空間に伝わっていくような錯覚。
しかしそれは気のせいではなかったようで、少しずつ周囲の景色が変わっていく。
まるで墨で描かれたかのように輪郭が現れ、滲むように色づいていく。
それは舞いのようにゆっくりとした変化だった。まるで誰かが描画しているのを眺めているかのような。
よくできた舞台を見ているようだった。
やがて色がしっかりと質感を持ち、空間に輪郭が溶け、周囲が竹に囲まれた日本庭園となり目の前に赤い番傘がさされ畳の敷かれた場所ができた。
いつの間にか黒地に紅いチョウの舞う着物を着ていたオモヒメはぴたりと動きを止め舞を締めた後、軽く礼をした。
僕はどうしたものかと悩んだが、とりあえず感動の意を伝えるべく彼女に拍手を送った。
風が吹く。実際の季節より一足早い、新緑の香りがした。
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