三章3 『図書館の姫 その3』

「わたくし、あなた様に俄然(がぜん)興味が湧いてきましたわ」

 少女はつぶらな瞳いっぱいに僕の姿を映し出した。

 僕はその瞳のきれいさに思わずドキッとしてしまう。

「ねえ。黒茸という生き物は――」

「あ、あの」

 ちょっと我慢ならないことがあって口を挟ませてもらった。

「一応、僕は黒茸を名前(・・)として使っているんだ。だからさ、できれば名前を呼ぶ感じにしてもらえると嬉しいんだけど」

「あら、これはうっかり」

 口を押えて、くすりと少女は笑う。


「それともう一つ」

「何かしら?」

「僕は君の名前をまだ聞いていない」

 きょとんとしていた少女は「ああ」とぽんと手を打って言った。

「ごめんなさい。そうよね。一方的に名前知っている関係は対等ではありませんもの」

「そう言うことを気にしてるんじゃない。ただ、純粋に君ともう少し仲良くなりたいと思ってるだけだよ」

 嘘は言ってない。交友関係がもともと少ない僕は、対人関係に飢えているところがある。ただ|適切な(・・・)距離感が必要であるがゆえ、みだりに誰彼構わず仲良くなることができないのだ。その点、この少女はそういった事情を汲(く)み取ってくれそうな気がした。だからもう少し交流を深めてみたいと思った。


 少女は魅力いっぱいの微笑を浮かべて言った。

「わたくしはオモイカネ。まあ一応、神をやらせてもらってますわ」

「かっ、神!?」

 大声を出してしまってから、慌てて僕は周囲を見回した。

 図書館の中では大声や騒音は厳禁である。それを破ってしまった後ろめたさがのしかかってきて、気まずさで胸が塞ぐ。

 僕が辺りを窺う仕草が面白かったのか、オモイカネさんはくすくすと笑った。

「そんなに不安がることはありませんわ」

「で、でも、マナーはきちんと守らないと」

「ここにはマナーなんて存在しませんもの」

 謎めいたことを言うオモイカネさんさんに、僕は「どういうこと?」と尋ねた。


 オモイカネさんさんはくるっと周囲を指で指して言う。

「だってここは、わたくしの世界ですもの」

 言われて僕も彼女の指頭に倣(なら)って視線を巡らせてみた。

 確かにその光景はさっきまでのものとがらりと変わっていた。

 大樹が下方から――そう、眼下が存在しており、それはとても深くまで存在する――伸びてきていて、幹(みき)の随所がくりぬかれて和綴じの本や巻物が詰められている。

 また大樹の幹に清流があったり、葉の上に椅子や机――ちょうど僕が座っている――が存在していたりと、なかなか不思議な様相を呈している。


 というか、僕は今、葉の上にいるのだが……。

「こ、ここって風に吹かれたりしたら、ま、マズイんじゃないかい?」

「ご安心なさい。いくら風に吹かれようとも、振り落とされることはありませんの」

「どうしてそう自信満々に言えるんだい?」

 オモイカネさんはその場でぴょんぴょんと何度も跳ねてみせた。僕はビクついて思わず葉の上に伏せてしまったけど、不思議なことに振動はまったくこなかった。


「ほらね?」

 さも得意そうな声が降ってくる。

「全然大丈夫でしょう?」

「ど、どうして……?」

「それは、この機全体が重力のようなものを常に放っているからですわ」

 オモイカネさんは天の蒼(あお)に溶け込むぐらい、どこまでも高く伸びている大樹を見上げて言った。

「いわば樹一本一本が、一つの星みたいなものなんですのよ」

「そ、それはすごいね」

「ふふっ。ですからここから地面に跳び下りることはできませんし、樹から飛び出ロケット並みの推進力が必要ですの」

「ろ、ロケットあるの?」

「ありませんわ、今のところは」

 その言い方が僕は気になった。

「今のところはっていうことは、開発予定とかあるのか?」

「いいえ、ありませんわ。この世界には基本的にわたくししかおりませんし、樹ごとに行き来するのも神技(しんぎ)を使えばそう難しいことでもありませんもの」

「神技?」

「はい。言うなれば、神のみが使える特殊能力……といったものでしょうか」


 オモイカネさんはとんと今度は地面をつつくようにブーツの爪先(つまさき)で叩いた。普通ならばその程度の力では何も起きない。しかし途端、彼女体は重力から解放されたかのようにふわりと浮き上がった。

「え、ど、どうして……?」

 戸惑う僕を、宙に浮いたオモイカネさんはくすくすと笑った。

「つい今しがた申しましたわ」

「……神、技?」

 こくりと彼女はうなずく。


「ええ。この程度であれば、位(くらい)の低い神でも成すことができますわ」

「……へえ」

 僕は呆気に取られながら、オモイカネさんの周囲を見やった。どこかに糸か何かあるんじゃないかと思って。けれどもそんなものは一切見当たらない。種も仕掛けもないってことだ。


「さて。それでは、参りましょうか」

「ま、参るって……どこへ?」

「……ああ、まだご説明しておりませんでしたね」

 オモイカネさんはくるっと宙で指を回した。途端、彼女の中に一冊の和綴じの本が現れる。

「わたくし、オモイカネさんは世界中の知恵を司る神でございます。ゆえに全ての人間をはじめとした知性ある者達の意識全てを行き来することができるんですの」

「……な、何それ」

 雷神さんも雷神さんでかなりぶっ飛んだ存在だと思っていたけど、オモイカネさんはそれ以上の存在だと感じた。


「じゃあ、オモイカネさんは――」

「ちょっとお待ちになって」

 やんわりとした、しかし有無を言わせぬ口調で彼女は僕の言葉を遮(さえぎ)ってきた。

「オモイカネさんという呼び方は、よろしくないと思うんですの。長いうえにくどさも感じますわ」

「え、ええっ……? なら、なんて呼べばいいのさ」

「そうですわねぇ……」

 ちょっと考えた後、オモイカネさんは掌を指先からすっと合わせて言った。

「オモヒメなんてどうでしょう」

「……あ、あの。神、じゃなくて姫なの?」

「はい。わたくし、正直自分に神なんて位は似合わないと思っているんですの。知恵を司っているといえば聞こえはいいですが、実際は他人の得た知識に寄生(きせい)しているようなものですし」

 彼女は頬に手をやり、嘆かわしそうにため息を吐いた。


「……よくわからないけど、神様がイヤなんだ?」

「はい。わたくしは知恵という司っているものが制約となっていて、他の神のように外に出ることもできませんし……。こうして意思樹(いしき)の世界を彷徨(さまよ)う以外にできることがありませんの」

 なんか『意識』の発音が少しおかしかった。そこにどんな意味があるのか、僕には推し量(はか)ることすらできないけど……。

「でも永(なが)い時を生きて、こんな退屈な世界から抜け出す術(すべ)をいくつか手に入れたんですのよ」

「ど、どういうの?」

「たとえばさっき黒茸様に話しかけた時のように、知性ある者の意識の内に語り掛けて遊び相手……ではなく。お互いに構成されし知識とそれによって紡がれし歴史の根源へ至るべく語りあったり、とかでしょうか」

「……本音がぽろっと漏れてたし。というか、自分の言っていることの意味、ちゃんと理解できてる?」

「ふふっ、さて、参りましょうか」

 僕の発言はすべからく無視されてしまったようだった。


 オモヒメが本を開くと、途端にそこから光を伴(ともな)う風が吹き始めた。

「そ、それは?」

「ふふっ、お楽しみです。自分の目で目の当たりにするまでの――」

 風は天に一度上ったと思ったら急に下降してきて、僕の方へと迫ってきた。

「わっ、わわっ!?」

 どうにか逃げようと思ったけど、無駄だった。そんなことをする間もなく、僕は風に担(かつ)ぎ上げられるように宙に浮かされてしまう。

 浮いた僕はそのまま木の葉のようにくるくると自身の意志に関係なく舞い踊る。


 あれよあれよという間に、僕はオモヒメの真上に来ていた。

「ちょっ、本当にそれはなんなんだい!?」

「何度聞かれようとも答えは同じですわ」

 こちらを見上げた彼女はにこりと笑みを浮かべた。

「開けてお楽しみに、見てお楽しみに。ひも解く知識に心を躍らせる。それが知恵の泉に浸る楽しみであり、旅路の醍醐味(だいごみ)である。そうでなくて?」

「いやっ、まったく意味がわからないんだけど!?」

「理解できぬ――それもまた一つの享楽の種となりますわ。どうかどうか、黒茸様。これから訪れる一時(ひととき)が、あなた様の心を震わせんことを」


 オモヒメの顔が近づいてくる――落下してるのだ。

 あるいは風に叩き付けられている真っ最中か。

 いずれにせよ、このままじゃぶつかってしまう。

 そう思った時だった。

 本が急にデカくなった。視界を一気に占めていく。

 いや、僕が小さくなっているのか……?


 理(ことわり)を解する前に、僕の意識は眩い光に飲まれて白く染まった。

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