一章14 『僕の日常その13 ―でえと?編―』

 てんちゃんは箸を使って僕の器からカモ肉を取ろうとする。

 ふと思った。

 僕はすでに、うどんに自分の箸をつけている。なのに彼女がその器から取った肉を食べて大丈夫なのだろうか?

 ……いや、大丈夫だろう。僕が普段使っているスマホにまいちゃんは触れても大丈夫だったんだ。それなら、これだってセーフなはずだ。


 自分の呪いの微妙な制約に振り回されているなと感じる。

 もっと明確なルールがあれば、なまじ絶対に誰とも関わらないと決心できたことだろう。

 しかし実際はこうして抜け道がある。僕は間接的に、誰かと触れ合うことができる。

 ゆえに求めたくなってしまう……。


 自分の目線がてんちゃんの小さな白い手に釘付けになる。

 いつか、誰かと手を繋いでみたい。

 そのまま、散歩をするんだ。

 できれば、まっちゃんと夕暮れの海岸沿いを……。


「どうしたの、黒茸さん?」

 てんちゃんに話しかけられ、僕ははっと我に返った。

「いや、なんでもないよ」

「ふうん?」

 てんちゃんは割り箸でつまんだカモ肉を口に放った。

 やはり何も起きない。世界は平和なままだ。大丈夫だと思っていなはずなのにほっと胸を撫で下ろしている自分がいた。


「あむあむ、お肉、美味ひ」

「だよね」

「ごくん。ふう。黒茸さんも、カレーの豚肉食べる?」

「お、いいのかい?」

「うん」


 てんちゃんの右手にある銀色のスプーンがスパイシーな香りを漂わせる茶色い湖面を割り、ごろっとしたお肉をすくう。

 そしてそれを、俺の方へ差し出してきて。

「あーん」

 と言ってきた。


「……うん?」

「だから、あーん」

 だからという接続詞が出てきている以上、それは一般常識的なことなのだろう。

 しかし僕にはその単語の指す意味を、どうしても解することができなかった。


 僕は「ごめん」と謝罪しながら訊いた。

「それはどういう意味なんだい?」

「……もしかして黒茸さん、あーんの意味知らないの?」

「申し訳ないけど」

「……そっか。ごめん」

「てんちゃんの謝ることじゃない」

「ううん。みんな知ってるって思い込んでた、わたしが悪い」


 しまった。てんちゃんを落ち込ませてしまったようだ。

 僕の心は自己嫌悪に苛(さいな)まれる。

 もっとうまい切り抜け方があっただろうと。

 しかしすでに起きてしまったことをどうにかする術(すべ)は、僕には見当もつかず。

 ない知恵を絞って、別のことをして気を紛らわすという古典的手法に頼ることにした。


「ねえ、てんちゃん。僕にそのあーんっていうのを教えてほしいな」

「……うん、わかった。おわびに教えてあげる」

 てんちゃんはあーんのやり方を彼女なりに熱心に教えてくれた。

「あーんっていうのは、|あなた(・・・)にものを食べさせてあげるっていう意味」

「なるほど。でーもどうしてあーんなんだい?」

「食べさせてもらう人があーんって真似をすると、大きく口が開く。食べさせる人はそこに食べ物をひょいと入れる」


「なるほど。条件反射的な意味合いもありそうだね」

「条件反射?」

「パブロフの犬……って言ってもわからないよね。要するに優しい言葉をかけられて頭を撫でられると、頭を撫でられるのが好きになる。逆に酷い暴力を受けると、人に触られるのが嫌いになるってことかな」

「へえ」


 てんちゃんは目を鱗(うろこ)にして僕のことを見ていた。

 誰かにものを教えるのは、意外と面白いことかもしれない。

 自分の知識の再確認にもなるし、何より誰かが新しい知識を習得して驚いたり喜んだりする姿を見るのは、すごく楽しい。


 いずれ学校の教師でも目指してみようかと思ったが、やめた。

 こんな呪い体質であんな人の多い場所に行くなんて、自殺どころか僕の場合、世界に対する反逆行為に等しい。

 みんながこの先の人生を幸福に歩むためにも、僕は多くを望んではいけないのだ。


「……ねえ、黒茸さん」

「あ、ああ、なんだい?」

「どうして黒茸さんは、時々とても悲しい顔をするの?」


 僕は机の上に置いておいたスマホの何も映っていない黒い画面を見た。自分でさえ、自分がどんな顔をしているか分からなかった。


「……てんちゃんは、僕が人に触れちゃいけないって話はしたよね?」

 彼女は素早く一回うなずく。

「うん。触ると、世界が壊れちゃうって」

「君はその話を信じる?」

 今度はゆっくりと首を傾げた。

「よくわからない」

「うんまあ、そうだよね」


 人に触れると、途端に世界が亡(ほろ)びる。改めて言葉にしてみると、なんとも眉唾って感じが拭(ぬぐ)えない。

 けれども僕の生みの親である、神様が言っていたのだ。

 たとえそれが嘘だったとしても、今更(いまさら)確かめる勇気は僕にはない。


「……人に触れないから、悲しいの?」

「うん、それもある」

「それも?」

 僕はうなずき、レモネードで一度喉を潤してから言った。

「問題は」

 一度言葉を区切り、頭の中でこれから話す内容を一度吟味してから再度口を開いた。

「僕が誰かに触れると世界が崩壊するという事実による重圧なんだ」

 てんちゃんが眉根を寄せる。理解できないという意味の表情だろう。

 僕はできる限り自分の重いを整然と並べ、それぞれをできるだけ解しやすいように噛み砕いてから、聞き取りやすいようにゆっくりした口調で話した。。


「たとえば、てんちゃんがお友達と遊ぶと、そのお友達が神隠しに遭(あ)っちゃうなんてイヤだろう?」

 てんちゃんは大きくうなずく。

「それと同じで、だから僕は誰か――大切な人であっても――といることで世界を亡ぼす危険がある。自分の幸福を求めることが、多くの人の不幸につながるかもしれない。それがすごくイヤなんだ」

「……呪いを解く方法は?」

「わからない。以前に調べようと思ったことはあるけど、いい成果は得られなかった。

「そっか」


 僕はつゆを吸ってふにゃった長ネギをつまんだ。


 きっと僕は、最後にこうして息絶える。

 その時になって、やっと身も心も救われるのだ。……そう予感した。

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