一章13 『僕の日常その12 ―でえと?編―』

「まいちゃんっ、まいちゃん!」

 血相を変えて駆けてくる女性。

 その人に気付いたまいなは、笑みを咲かせて手を振った。

「あっ、ママー!」

 嬉しそうにベンチから立ち上がったまいなを、その人は地面にスカートがつくのも構わずぎゅっと抱きしめた。

「ほえ……、ママ?」

「よかった……、無事で本当によかった」

 長い睫毛を震わせて、その女性はぽろぽろと涙を零(こぼ)す。


 まいなはきょとんとした顔で首を傾げてる。

「……どうしたの?」

「怖い思いをさせて、ごめんね。わたしがちゃんと見ててあげなかったから……」

「大丈夫だよ。てんちゃんと、黒茸さんがいたから」

 女性は顔を上げて、僕達の方を見た。


 僕の姿を見た女性はちょっと目を見開いたが、すぐに驚きを打ち消して居住まいを正し、丁寧に頭を下げてきた。

「この度(たび)は、まいなの面倒を見ていただきありがとうございました」

「いっ、いえ。当然のことをしたまでです」

 普段、あまりお礼を言われない僕は少しきょどってしまった。

 女の人は柔らかな微笑を浮かべて小首を傾げ、それからてんちゃんの方を向いて同様に深くお辞儀(じぎ)した。


「お嬢ちゃんも、ありがとう」

「当然のことをしたまで」

 口調まですっかり僕の真似をしていた。

 女性は口元を押さえて、でも堪えきれずに肩を揺らして笑い声を零した。




「黒茸さん、てんちゃんまたねー! パンダさんもまたねー!!」

 まいなことまいちゃんは母親に手を引かれ、ぶんぶん手を振って去っていく。

 僕とてんちゃんも同じように手を振って二人を見送った。

「ねえ、黒茸さん」

「うん、なんだい?」

「さっきまいなのお母さんから、何かもらってたけど」

 ……なぜだろう。心なしかてんちゃんの目線がいつもより少し厳しい気がする。


「いや、別にそんなすごいものをもらったわけじゃないよ」

 なぜか僕の口ぶりも言い訳(わけ)っぽい感じになってる。一体どうして僕はこんな小さな女の子にビビっているのだろう?


「何もらってたの?」

「ほら、これ」

 僕がてんちゃんに見せたのは、小さな長方形の紙。さっきの迷子カードよりもぺらぺらしている。デザインもシンプルで名前とロゴみたいなものが入ってる。


「何、これ?」

「名刺だよ」

「名刺?」

「自分の名前と身分を記すものだよ。それを相手に覚えてもらうために渡すんだ」

「なんのために?」

「えっと、これからも末永くお付き合いしたいですって意を込めて……かな?」

「ふーん」

 理由はわからないが、どんどんてんちゃんの目線の温度が下がっている。


 このままでは身も心も凍ってしまうと思い、僕は話題を転ずることにした。

「そ、そうだ。お腹空いてないかい?」

「……あ、お昼食べてない」

 スマホの時計を見やると、午後1時。てんちゃんが普段どんな生活を送っているかは知らないけど、遅くともこれぐらいの時間には普段ならお昼を食べていることだろう。


「じゃあ、食べに行こう」

「ワニさんのお肉?」

「……あるといいね」

 パンダは意外と肉食らしいが、てんちゃんもそうらしい。

 美しい薔薇には刺(とげ)があるそうだが、可愛い存在にも爪と歯、そして胃があるのだ。

 あらゆる生物は食物連鎖のピラミッドのどこかに存在しており、可愛い生き物もまた例外ではない。その生物が肉食であったとしても、おかしくないのだ。


 グー……。

「あ、黒茸さんのお腹鳴った」

「……あはは。恥ずかしいなあ」

「黒茸さんも食べるの、ワニさんのお肉」

「いやまあ……、あったら食べようかな」

 空きっ腹になると、肉が食べたくなる。

 可愛いかどうかは置いておいて、僕もまた肉好きであった。




 フードコートに着いた僕達は、各々好きなものを買った。

 僕は肉うどん、てんちゃんはカレーライスだ。

「ワニさんのお肉、なくて残念」

「そうだね」

「とても、とっても美味しそうだった。あのアミアミした肌のお肉をジュージュー焼いて香辛料っていうのかけて食べるの」

「でも、カレーライスだって美味しいだろう?」

「うん、大好き」


 スプーンですくったカレーをぱくっと食べるてんちゃん。口に含んだ瞬間、目に並列繋ぎの豆電球並みの光が灯る。

「美味しい」

「よかった」


 僕も肉うどんを啜る。コクのある肉汁が滲みたつゆの絡んだ、もちもちもの麺。とっても美味しい。


「黒茸さん、笑った?」

 僕はちょっとたまげて訊いた。

「わかるのかい?」

 こくりとうなずくてんちゃん。

 見ればわかるように、僕の周りには小さな靄のかかった四角が積み上がっていて、姿が見えなくなっている。

 だから声を発していないと僕の感情は伝わらないし、表情なんてわかるはずがないのだ。


「どうしてわかったんだい?」

「なんかね、ふわわーってわかったの」

「ふわわー?」

「そう、ふわわー」


 てんちゃんの抑揚のないふわわーのイメージが正しいのかと思ったけど、いや、そうじゃないだろうと思い直した。

「ふわわーっていうのは、具体的にはどんな感じなんだ?」

「起きたまま頭の中にふわーって夢が広がっていく……、そんな感じ」

「白昼夢みたいな?」

「ハクチュウム?」

「昼に起きたままで見る夢……かなあ?」

「起きたまま見る夢。面白そう」


「あ、カモ肉美味しい」

 言ってから『あ、このまま話脱線するな』と思ったけど『ま、いいか』と思い直す。

 気を張り詰めて話すことでもない。表情のことは、また後で訊けばいい。

「カモ肉?」

「うん、肉うどんに入ってるんだ」

「へえ、食べてみたい」

「じゃあ、取っていいよ」

「でも、スプーンじゃ取れないよ」

「そこに割り箸があるだろう? それを使えばいい」

「あ、そっか」


 てんちゃんは割り箸手にを取り、両脇から手をぷるぷるさせて割ろうとする。なかなか上手くいかないようだが、僕はじっと微笑ましく見守っていた。

 彼女の顔が真っ赤になる頃、パチンと音を立てて箸が割れた。きれいに真っ直ぐで、ささくれもない。

「おお、上手いじゃないか」

「……やった」

 顔が火照っているからか、珍しく高揚しているように見えた。

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