一章15 『僕の日常その14 ―でえと?編―』
その後もてんちゃんと一緒に動物園を巡った。
可愛い動物、カッコイイ動物、面白い動物……。
名前を挙げるならウサギやフクロウ、オオカミや馬、テナガサルやフラメンコ……エトセトラエトセトラ。
午後四時ごろを見計らって、僕は帰ることに決めた。
「そろそろ帰ろうか」
と言うと、悲しそうに眉が下がった。本当に些細だが、てんちゃんにしては大きな表情の変化だ。
「……もう?」
「帰りが遅くなったら、お父さんとお母さんが心配するだろう?」
「でも」
「うん、僕も遊び足りないなって思ってるよ。本当はまだてんちゃんと一緒に動物を見て回りたいんだ。でもそういうわけにはいかない。世界にはいくつかルールがあるけど、その内の一つに子供は五時までに家に帰らなきゃいけないってものがあるんだ」
「ルール」
ぼそりとした呟きだった。
その小さな呟きがなぜか、僕の心を強く打った。
その答えは、てんちゃんの瞳に映っていた。
彼女が瞳で訴えかけてくる。
「黒茸さんは、好きなの?」
「……何が、かな?」
「ルールが」
ズキリと胸が痛む。
僕はルールが好きか?
……好きなわけがない。
もちろん、平和に生活を営んでいくためにはある程度の決まりごとが必要だ。
それは強い者の横暴を制限し、弱者を守る盾となる。
けれども。
世の中には理不尽を強(し)いるルールだっていくつか存在する。
偉い人を利するためだけに作られたものだって、あるかもしれない。
そう、理不尽。
僕がもっとも憎み、僕をもっとも苦しめているルールは、まさにそう呼ぶのが適当だ。
ふいにてんちゃんは、俯(うつむ)いて消え入りそうな声で言った。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るのさ?」
「ええと、その……」
つぶらな瞳が宙を彷徨(さまよ)う。
困らせてるな、てんちゃんのこと。
僕は自己嫌悪に陥りそうな心をどうにか立て直し、てんちゃんの目線を捕らえて言った。
「……もう少し、遊んでいくかい?」
ずるいな、と我ながら思った。
そう言えばてんちゃんがなんて答えるか、わかっているくせに。
案の定、彼女は首を振って言った。
「……ううん、帰る」
「そっか」
僕らはどちらともなく、ゲートに向かって歩き出す。マクロさんも
空はまだ青く、太陽の気力もまだ残っているようだ。
園内には午前中よりも客が増え、閑古鳥は姿を消していた。
ゾウの前を通りかかると、呼び止めるように「パォオオオオオ!」と鳴いた。でも僕達は立ち止まらなかった。
カンガルーの親子の姿がイヤに脳裏にちらつくのを、首を振って追い出した。
●
電車の中は行きよりも若干人口密度が高くなっていた。でも距離を取ろうと思えばできないこともない。
すっかり忘れていたえけど、夕方以降になると電車内に客が増えてくる。だから仕事帰りの人と時間が被らないようにするためにも、僕は早く帰らねばならなかったのだ。もしかしたらてんちゃんはそのことを思い出して、申し訳なさそうにしていたのかもしれない。本当に気の利くいい子だ。
そのいい子はドアの窓にべたっと顔を張りつけて外を眺めている。
僕も同じようにしてみる。
長閑(のどか)な田舎の景色が右から左に流れていく。あまり景色が変わらないせいだろうか、眺めていても電車が速く走っているという実感が湧きにくい。電柱だけが速さの指標として目に訴えてくる。
別段、面白くはないがそれ以外にやることはない。田舎だからWi-Fiが飛んでいなければ満足にスマホをいじれない。本は一応持ってきているが、読む気にはなれない。行きのようにてんちゃんとお話ししようにも、周囲に人がいるからか、あるいは無理に帰宅するよう促したせいか、彼女はまともに取り合ってくれなかった。
ふと僕は思い出した。
そういえば、てんちゃんのお話はまだ聞いていない。
マクロさんが現れたせいで、お流れになっていたのだ。
僕はてんちゃんの横顔を見やった。無心だと一目でわかる表情で、画(え)のような風景を眺めている。
ガタン、ガタンという音と揺れがなければ、時間が止まったと本気で信じ込んでいたかもしれない。
しばらく眺めていたが、てんちゃんがこちらに気付く様子はない。あるいは気付いているのだろうか。
どちらでもいい。電車はしっかりと今も動いていて、目的地へと向かっている。時間は今日の終わり、明日の始まりへと流れていく。
では。
僕は一体、どこを終着点としているのだろうか?
何を目的に生きているのだろうか?
呪いと言う爆弾を背負ってまで。
自滅願望は不道徳的とされて、忌み嫌われている。
多くの人が受け付けないし、そんなものを持っていると知れれば精神科や心療内科を勧められる。
病んでいるなと、自分でもそう思う。
幸いなのは、僕にはてんちゃんが傍にいてくれることであり。
同時にそれは、苦しみの種でもあった。
僕は悪くないし、てんちゃんも悪くない。
神様にだって罪はない。
答えを口にすれば、きっと運命は僕を深い海の底へと引きずり込もうとする。
そんな予感がした。
目的の駅で電車から降りたのは、僕とてんちゃん、それに買い物袋を持ったおばあさんだけだった。
おばあさんは僕とてんちゃんに軽く会釈(えしゃく)して、意外なほどしっかりした足取りで去っていった。
残された僕とてんちゃんは顔を見合わせて、それから構内の時計を見やった。
午後四時四十五分。
僕の知るルールでは、あと十五分以内に子供は家に帰らなければいけない。
「……ねえ、黒茸さん」
てんちゃんに呼ばれ、僕は彼女の方を見やった。
「あの、ね……」
俯いたまま、ちらちらとこちらを見やってくる。
僕は口を閉じたまま、続く言葉を待った。
やがて彼女は意を決したようにこちらを見やり、強張った口調で言った。
「わたし、その。……悪い子に、なりたい」
日が傾く。
夕日が構内に差し込み、空が赤く染まっていく。
カラスが声をそろえて枯れた鳴き声を響かせる。
ふわっと風が吹き、てんちゃんの長い髪を揺らした。
頬に気が貼りついても気にせず、彼女はこちらを見やってくる。
その姿を見て、僕は一瞬でもいいから、時に止まってくれと頼みたかった。
「ダメ?」
僕は唾を飲みこみ、心臓の音を耳の間近でしばらく聞いていた。
やがて僕は迷いとの対談を終えて。
「……一緒に、なろうか」
そう言って、てんちゃんに微笑みかけていた。
彼女も唇の端をゆっくり上げて、笑みを浮かべた。
日は燃えるように揺らめいていた。
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