一章10 『僕の日常その9 ―でえと?編―』

 駅から出てすぐ。

 目的地は目と鼻の先にあった。


「……あっ、ゾウさん」

「うん、そうだね。あれは置物だけど、本物は中にいるんだよ」

「へえー」


 キラキラした瞳で置物を見つめるてんちゃん。

 この顔が見れただけでも、ここ――動物園に来たかいがあったなあと満足感を覚えたが。


 あろうことか、すでに園内に入る前に動物はすぐ傍、足元にいた。


「ねえ、黒茸さん」

「何かな?」

「動物園って、動物のための場所だから、マクロさんも中に入れるよね?」

「ニャーオ」

 マクロさんが、足元で間の抜けた声で鳴いた。




 マクロさんとは、あの悪魔みたいな黒猫のことだ。

 なぜか僕達の後をついてきて、目的地の動物園前にこうして一緒にいた。

 本心ではとっととどこかに行ってほしいのだが、てんちゃんが気に入ってしまい邪険にできぬのが現状だ。

 てんちゃんに隠れて実力行使を――と思うも、僕にはそんな力なんてない。

 だから怯えながらも、行動を共にするしかなかった。


 一縷(いちる)の望みを動物園の入場制限に託してみたが。


「はい、大人一名、子供一名、黒猫一匹ですね」

 すんなりと受付をパスしていた。

 憤懣(ふんまん)を込めて睨んでみたが、ヤツは涼しい顔をして「ニャーン」と鳴くばかりだった。心なしか、僕を小バカにしているような響きがあった。まったく、憎らしいったらありゃしない。


 動物園の中は平日ということもあり、人は少なかった。

 僕にとっては好都合だ。心ゆくまで動物の愛らしさを堪能することができる。

 ただし牙と爪を向けてくる、お前はダメだと内心で黒猫に吐き捨てる。てんちゃんの前だから口に出しては言えないけど。


「まず何から見ようか?」

「ゾウさん」

 即答だった。

 入り口で置物を見て、興味を掻き立てられたのか。純粋な子供らしい情動に、心がぽかぽかしてきた。

「そうか。じゃあ行こうか」

「うん。マクロさんも」

 てんちゃんは地面の黒猫を抱(かか)え上げた。


「ニャーァ?」

「迷子にならないように、ギューする。イヤ?」

「ニャァ、ニャア」

 かぶりを振るように頭を動かす黒猫。まるで人語を解しているみたいだが……、気のせいだろう。


 歩き出してすぐ、僕の目は一組の母と子を捉えた。

 彼等は手を繋いで、楽しそうに笑い合いながら歩いていた。


 どうして母は、この手を繋いでいるのか――

 愛(いと)おしいから、というのもあるだろう。

 でも何より、大切だから。小さな手をしっかりとつかんでいないと、どこかへその存在が零れ落ちていってしまいそうだから……。


 隣のてんちゃんを見やった。

 彼女も大切な存在を、両手でぎゅっと抱きしめている。


 けれども、僕は。

 それを許されない。


 呪いのせいで、どれだけ大切だと思っていても、その行為がむしろ傷つける――どころか亡(ほろ)ぼしてしまう。

 彼女だけでなく、世界もろとも。

 こんなに近くにいるのに、最後の一線は越えられない。

 そのことに胸がぎゅっと締め付けられた。


「黒茸さん?」

 名前を呼ばれ、僕ははっと我に返った。

「な、なんだい?」

「ほら、ゾウさん」

 てんちゃんの指差した先には、言葉通りゾウがいた。

 大きな体に長い鼻、アイロンで伸ばしたみたいな耳に大根みたいな牙、眠たげな目に太い四本の脚。灰色のシワシワな肌は、人間とは違って老けよりも力強い印象を与えてくる。


「可愛いね、ゾウさん」

 マクロさんを撫でながら、目はゾウの方を向いている。

 彼女にかかれば、どんなものも『可愛い』の魔法がかかってしまうのだろう。事実、僕の目にも段々ゾウが、可愛く映ってきた。

「そうだね、可愛いね」

「ニャーオ」

 てんちゃんじゃなくて、マクロさんの方が答えてきた。やっこさんの鳴き声を聞く度にビクついてしまうのは、情けないと思いつつも生存本能ゆえの反応であるため地震ではどうしようもない。はあ、やれやれ


 ゾウを眺めていたてんちゃんが、ふと思いついたように言った。

「似てる」

 それきり言葉は続かない。ただの独り言のつもりだったのかもしれないが、端的な一言というのはどうも意味深に聞こえて、気になってしまう。


「似てるって、何が?」

「ゾウさんが、黒茸さんに」

「……え、ボクに?」

 てんちゃんはこくりとうなずき、ゾウさん目掛けて何度か指を振った後、僕に向かっても同じことをした。


「やっぱり。形そっくり」

「輪郭……、シルエットが?」

 てんちゃんはこくりとうなずく。


 僕は自身の姿を思い浮かべて、ゾウを見た。

 垂れた胴体と鼻。謎の二つの下がった袋と耳。

 まあ、似てるとも言えなくはないけど……。


「不満?」

 心を見透かされたような気がして、ドキッとした。

「う、ううん。可愛いゾウさんと一緒なんて、光栄……嬉しいよ」

「そっか、よかった」

 胸に手を当て、ほっと息吐くてんちゃん。安心したという意味だろう。

 僕も彼女を悲しませずに済んで、よかったと思った。


 それにしても、ゾウと僕が似てる……か。

 改めて見やると、眠たげに垂れ下がった瞳、纏う空気は気怠げで、動きはのっそりとしている。どう贔屓(ひいき)目に見ても、あまり格好いい動物だという印象は持てない。

 やっぱり複雑な気分だ。

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