第3話 バスルーム

 本社への異動が決まり、このアパートへと引っ越して来てから、もう五年になる。

 本当はあのまま片田舎の支社で、ダラダラと働いていたかったけど、僕の異動を皆が『栄転だ!』と盛り上がってしまい、返事をする前に祝杯まであげられてしまったので、しぶしぶこの都会暮らしを始めたんだ。


 とは言え、別に大きく給与が上がるわけじゃなし、多少の手当はついたけど、都会の住宅事情と来たらむしろマイナスに思えた。

 それだけは流石に嫌だからと、空襲を生き抜いたような、このボロアパートにすがりついたわけだ。


 無理やり増改築を繰り返した建物は、なんとも言えないアンバランスさで、色々と不便な点は多い。

 それに住人たちも、孤独なアル中の老人、やけに大人数でシェアしている外国人、本当に学生なのか不明な自称学生、一切素性が知れない男……などなど。


 まあ、普通ならこんな物件に、住もうなんて考える人は少ないんじゃないだろうか?

 ただ、この物件はとにかく家賃が安い!


 それはもちろん、僕の第一条件として挙げていたものだけど、もう一点これだけは譲れないって条件もクリアしていた。



─── バスルーム付き



 物心ついた時から、僕はとにかくお風呂が好きだ。

 住む所はどうせ寝るだけだから、どんなに古くてもいいけど、安くてお風呂さえついていればどこででも良かった。


 ここは馬鹿みたいに家賃が安くてお風呂付き、しかも駅も意外と近くて、二階の角部屋。

 もう物件カードを見た時からここに決めようと思ったほどにピッタリだった。




 ※ ※ ※




 僕の前には長いこと空き部屋だったようだ。

 部屋は妙に湿気ていて、住み始めの何ヶ月かは、何度掃除をしても足の裏がすぐに黒く汚れた。


 それに収納が多いように見えて、実際は変な出っ張りがあってデッドスペースが多かったり、唐突にガス管が部屋に突き出ていたりと不便な点は多い。

 それでも、彼女もいなけりゃ趣味もない僕には、それでも充分過ぎる。



─── ただひとつだけ、気に入らないのが、重要事項だったお風呂



 お風呂だけは妙に広い。

 それは設計の上でというわけじゃなく、色々と間取りをなんとかしているうちに、そうなってしまったといった感じ。


 浴槽の大きさはその割に普通で、大理石調な印刷がされた、古いタイプのよくあるやつ。

 シャワーもごく普通で、ちょっとお湯が出るまで時間は掛かるが、設備的になんら文句はない。


 ではなにが気に入らないのかと言えば……



───



 一歩、浴室に足を踏み入れると、その気配は押し寄せてくる。

 窓からでもない、壁からでもない、隣の部屋からの音なんか届かないし、それが何なのかさっぱり分からない。

 ただただ、誰かがいるような、見られているような、そんな気配がつきまとう。


 『超』がつくお風呂好きな僕でも、浴室に長くいられないのだから相当だ。


 急いで体を洗って出ようとする時、その気配は最も強く感じられる気がする。

 背後からジッと見つめられているような、そんな視線すら感じられるが、恐る恐る振り返って見ても、そこにはただタイル張りの壁があるだけだ。



 このアパートの契約を交わす日には、ちょっとした騒動があった。


 大家さんと不動産会社とで、連絡ミスがあったらしい。

 僕が部屋の説明を受けている時、大家さんだというお爺さんが来店して、僕と不動産屋さんとの間に割り込んで来たのだ。



「あの部屋はもうしばらく、そのままにしておいてくれと言ったでしょう……?」


「そうは言いましてもねぇ、もう何年もあのままじゃあないですか。それにこれまでの改築で、うちの方でもかなりお勉強させていただいたつもりなんですけどねぇ。

失礼ですが大家さんももう、お年を召されていますし、管理だってずっとうち任せじゃあないですか。

もうこの際、私どもに任せて、お客さんをお迎えしてしまった方が、よろしくはありませんか?」



 気の弱そうな大家さんは、やり手な感じの強面な不動産屋さんに、意外とすんなり折れてくれた。

 ただ、店で別れる時に注意事項として、こんな事を念押しして来た。



「常識の範囲でお願いしますよ?

少しなら騒いでもいいですけど……。お風呂でだけは騒がないでくださいね?

あそこは丁度建物の角に当たって、近隣の住宅に響きますから。

以前、ちょっと苦情が相次ぎましてね……それだけはお願いしますね」



 そういうことの処理はもうたくさんだと、疲れの濃い顔でそう言われた。

 結構な高齢で、弱々しくそう頼まれたものだから、最初はそれが気になってお風呂が落ち着かないのかな、なんて思ったりもしけれど……。


 でも、どれだけここでの生活に慣れてきても、あの気配はずっと浴室に充満していた。




 ※ ※ ※




 そんなある日、ちょっとした騒動が起こった。

 一階に暮らしていたアル中老人が倒れて、救急車で運ばれた。


 てっきり飲み過ぎとか、体調を崩したのだろうと思っていたら、ガス漏れで中毒になったらしい。

 ガス栓の締め忘れとか、老人の過失があったのではなく、ガス配管の老朽化で起きた事故だったそうだ。


 後日、僕の部屋にもガスの設備会社がやって来て、点検を受けることとなった。

 増改築のしわ寄せか、どこがどうなっているのか、こうして一部屋一部屋確認しなくてはならないとのことだ。


 その日、僕の部屋にはガスの設備屋さんと、大家さんが訪れて、色々とああでもないこうでもないと点検が始まった。



「リビングとお台所は問題ないですね。次、お風呂を調べさせてもらってもよろしいでしょうか?」


「あ、はい。お願いします……」



 僕に断る理由なんて何一つない。

 それに僕以外の人があの気配を感じるのかどうか、見てみたくさえあった。



 と、やっぱり業者の人も何かを感じているらしい。

 しょっちゅう振り返っては、小首をかしげるような仕草が見られた。



「なにもない……なにもありませんよねぇ? ね?」



 大家さんが不安そうにそう呟いた。

 ガス漏れは結構な騒ぎだったし、もしかして管理不足とかでお爺さんも賠償とか払わされたりするのだろうか?

 ただでさえ気弱そうな人だから心配になる。


 それでも、僕はこの際だし、あの疑問をぶつけてみることにした。



「あ、あのぅ、大家さん? 変な質問だとは思うんですけど、このお風呂って、変な気配が……」


「あ~ッ! ここだ~、あったあった、ありましたよ~!」



 大家さんに言い終わる前に、お風呂場から設備屋さんが大きな声で呼んだ。

 どうやらなにかが見つかったらしい。



「ここですよ、ここも同じ製品使われてますね。取り替えないと、同じ事故が起こっちゃいますからね。

これは壁を壊しての工事になってしまいますが……いいですかね?」


「僕なら全然構いませんけど……。それなら大家さんに……あれ?」



 いつの間にか大家さんはいなくなっていた。

 僕が浴室に入った時まではいたんだけどなぁ。



「あ、管理設備のことでしたら、不動産会社さんが一括しておられるんで、一応借主さんの確認だけでいいんですよ。

─── この分だと、2~3日、お風呂使えなくなってしまうかもしれませんが……」



 お風呂に入れないのは嫌だけど、はもっと嫌だ。

 当然、僕はどうぞどうぞと許可を出した。




 ※ ※ ※




 工事が始まって壁が壊され始めた。

 壁は思いの外に薄くて、最初だけ立ち会うつもりだったけど、すぐに穴が空けられた。



「……すん。…………臭い……な」


「え? が、ガスでも漏れてるんですか!?」


「あ、いえ。もっとこう……ガスではないですね」



 その日は修理箇所を確認しただけで終わった。

 壁には大穴が開いているけど、どうやら部品がそろう明後日までは、お風呂を使ってもいいらしい。


 しばらくは銭湯通いになるのかと、やや心は沈んだが、それならと今日はゆっくり入ると心に決めた。




 ※ ※ ※




 壁に穴が空いてから、余計に気配が強くなった気がする……。

 浴槽に意地で浸かっていたけど、やっぱりそれが気になって仕方がない。

 思えば工事の人も何かを感じていたようだけど、ちゃんと聞いてみればよかったな。


 そんな事を考えながら、薄いビニールとテープで養生ようじょうされたのを剥がして、なんとなく穴の向こうを覗いてみた。


 壁は薄くて、その奥には人が一人入れるような空間がある。


 そこに頭を突っ込むと、確かに妙なニオイがしていた。

 そして、目の前には唐突に、コンクリートの柱がある


 その柱だけやけに劣化して、色が変わっているし、どうにも不格好なそれは、よく見れば天井まで届いていない。

 そこにあるのが、あまりに不自然な存在だった。


 よく見ると、一部から布のような物がはみ出している……。



 胸の動悸が激しくて、それを確認するのに邪魔にさえ感じた。

 でも、もうそれを確かめないと気がすまなかった─── !



 穴から身を乗り出して、業者が置いていったのか、そこにあった道具の中からハンマーを拝借して、その怪しい柱を叩いてみる。



…………ボロっ!



 コンクリートの柱にしては、嫌に軽い音がして、湿りきった表面が簡単に崩れる。

 何度も、何度もそれを叩いていると、お風呂のせいなのか、その作業のせいなのか、僕の体から今まで密閉されてきた埃臭いその空間に汗がポタポタと滴る音が響く。



……ガシャ、ガラガラッ!



─── ドサッ!!



 鉄筋もなにも入っていない、そんな唐突は柱の一部が崩れた時、中から布に包まれた何かが倒れてきた。

 かなり大きい包みだ。


 それは長年の結露のせいか、布のではあるが、ハンマーの端っこで簡単にボロボロと剥くことが出来る。

 何度か引っかかりながら、強引にこっちに引き寄せると、ゴロンとこちらに転がって布が大きくめくれた───




「う、うわあああああああああああぁぁぁぁぁッ!?」




 中から出てき来たのは、女の死体だった。

 蝋人形みたいな妙な質感になっていて、腐敗はしていないが、髪型とか服装でかなり古いものだと素人の僕でも分かってしまった……。


 僕は裸のまま浴室から飛び出して警察を呼ぶと、バスタオルで拭きもせずに服を着て、アパートの外でうずくまっているしか出来なかった─── 。





 ※ ※ ※





 死体は四十年以上が経っていたらしい。

 湿度とか温度とか、一定の条件がそろうと、死体は腐らずに脂肪分が変化して『死蝋しろう』という状態になる事があるのだと、その時に聞かされた。


 大家さんに事情を聞こうとした警察は、少し離れた場所にある大家さん宅で、大家さんの首吊死体を発見した。


 足元には遺書があり、数十年前に妻を殺し、あそこでコンクリートで埋めた事が告白されていたという。

 大家さんが命を断ったのは、設備屋さんと立ち会いに来た直後だったようだ。


 ……もう隠し通せないと思ったのかも知れない。



 警察からの帰り道、僕は嘔吐した。



 思い出してしまったんだよ。

 いや、ずっとそれが頭から離れなかった……。


 布から出てきた死体の顔を。


 顔に巻かれた布が持ち上げていたのか、両まぶたが限界まで見開かれていた。

 彼女はあそこで、四十年もの間、浴室を見つめていたのだ……



─── 両目をいっぱいに開いて



 あれ以来、僕はお風呂がだ。

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