第77話 SP5 敗者の栄光

 白富東の選抜メンバーは、春日山の他にも多くのチームの練習を見学し、甲子園の試合を楽しんだ。

 そして準々決勝が終わり、この年のベスト4が決定した。

 大阪光陰、春日山、神奈川湘南、そして夏の決勝を戦った勇名館である。

「は~、ここまできたら最後まで見たかったな」

 大介の声は皆の内心を代弁していたが、秋季大会の準備なども考えると、さすがにそろそろ戻る必要がある。

「まあでも、今年の優勝は春日山でしょ」

 ジンが見る限り、それ以外にはありえないとまで思える。


 セイバーの持つ統計データによると、春日山の総合力はそれほど高くない。

 だが勇名館と同じで、投手の力が突出している。

 準決勝は大阪光陰と勇名館、春日山と神奈川湘南という対戦だ。

 だがさすがの勇名館も、大阪光陰には負けるだろう。

 そしてもう一方の準決勝であるが……上杉勝也が点を取られる場面というのが想像がつかない。


 春日山の上杉は、弟を先発としてある程度投げさせてはいるが、彼自身はここまで一点も取られていない。

 三回戦は一人で投げ、ノーヒットノーランを達成している。

 一点どころか、二塁を踏ませたこともない。なにせバントをしようとしてもバットに当たらないのだ。

 あまりに周囲に比べて、彼一人の実力が傑出しすぎている。


(大介には残念だろうけど、今年は優勝出来なかったろうな)

 同じピッチャーとして、直史は思う。

 上杉は超人だ。おそらくプロに行ったとしても、既にメジャーで戦えるだけの実力を持っている。

 ただただ、ひたすら球が速い。それだけで全てのバッターを封じている。

 同じ野球、同じ投手というポジションであるが、直史には絶対に出来ないことだ。


 準々決勝と準決勝の間の休養日、白富東の選抜メンバーは、合宿所に帰還した。

 ここでは野球練習のみならず、学習の補講も行われている。

 勉強は短時間で効果的に行い、残りで野球の技術を磨くのだ。

 特にこの暑さの中で、どれだけ体力を温存できる体質を作るかは、単純なフィジカルなどよりもよほど重要なことだ。


 甲子園の熱気。スタンドでさえも感じたあの熱さ。

 グランドでは、そしてマウンドでは、どれほどに感じるものだろうか。

「甲子園での場外ホームランは、俺が打つ!」

 一人元気な大介がかっ飛ばし、フェンスは更に高く延長されることとなった。




 準決勝、大阪光陰と春日山が勝利し、一日の休養日の後、ついに決勝が始まる。

 合宿所に準備された大型モニターで、白富東の部員は全員でそれを見る。


 どちらが勝つか。

「春日山」

「春日山」

「春日山つか、上杉」

「まあ上杉が完封する間に、一点ぐらいは取れるだろ」


 上杉が点を取られるというイメージが、白富東の部員には全く湧かない。

 だがそんな中で一人、違う方向から試合を見つめる者がいる。

「俺たちが春日山と戦った場合、どうやったら勝てる?」

 直史の問いは、新しい視点をもたらす。

「つっても、もう上杉と戦う機会なんてねーじゃん」

 そんな言葉もあったが、直史が言いたいのはそうではない。

「上杉みたいなピッチャーがいるチームと戦う時、どうやって勝つんだ?」


 そんなチームは存在しないと言いたいが、実際に上杉は、ここまで全国制覇をしていない。

 だから相手チームに上杉がいても、勝つ方法はあるのだ。

「守備の乱れ、キャッチャーの後逸、あとは雨天での暴投などが、上杉君の負けた原因ですね」

 セイバーが即座に補足する。

 守備は強化された。キャッチャーは優秀になった。そして今日は雨は降らない。

 上杉に勝つ方法はあるのかもしれないが、少なくとも今日の条件では、実際に勝つのは無理だろう。




 試合が始まる。

 春日山が先攻であるが、大阪光陰のエース蜂須賀は、見事にこれを三人で切った。

 そしてその裏、大阪光陰の攻撃。

 三者三振という、上杉にとっては珍しくない、完璧な立ち上がりであった。


 そして試合は進む。

 両者共に点は取れない。しかし春日山は散発ながらヒットを打つのに対し、上杉は一本の内野安打以外、全て完全に抑えている。

「いくらなんでも飛ばしすぎだろ」

 直史がそう言ってしまうぐらい、上杉の投球は完璧すぎる。

 大阪光陰は、バントの構えをしたりバスターをしたりと、どうにか上杉を揺さぶろうとする。

 しかし当たるところまではいくのだが、前に飛ばない。


 だが春日山もエース蜂須賀の前に、二塁を踏むのが精一杯だ。

 とことん守備が鍛えられている。

 大阪光陰も七回に、先頭打者の前野が初めて内野の頭をわずかに抜けるヒットを打ったが、やはりそこから進めることが出来ずに憤死。

「これって、上杉さん、実は割りと抑えて投げてるんじゃね?」

 大介が無茶苦茶なことを言う。

「だって160km超えたの三球しかないし」

 常時155km以上、時折140km前後の高速チェンジアップを投げるので、どうも錯覚しそうになるが。


 おそらく上杉は、九回を完封するだけでなく、延長にまでおよんだとしても、一点も取られないつもりだ。

 そう考えに及んだ瞬間、直史は背筋がぞくぞくするのを感じた。

 この人は、超人だ。

 人間の姿をしているが、人間に可能なことではない。

 メジャーからチャップマンを連れて来ても、ここまで完璧な投球は出来ないだろう。


 そして予想された通り、試合は延長に入る。

 大阪光陰は疲れが見えてきた蜂須賀に代わり、二年生の加藤。

「そういや延長のルールってどうなってたんだっけ?」

「タイブレーク? そしたら春日山圧倒的に有利だよな? 春日山は時々ヒット打ってるし」

 タイブレークとは試合時間の短縮のため、また選手の消耗を防ぐために最近導入されたルールであり、13回の表からは無死走者一二塁という条件からスタートする。

 つまりランナーさえ許さない上杉の方が、圧倒的に有利になるのだ。

「決勝はタイブレークはないですね」

 かたかたとパソコンで調べたセイバーが言う。

「決勝戦のみは従来と同じく、延長15回で引き分け再試合です」

「あれ? 投手の回数制限は?」

 ジンの質問に、やはりセイバーは素早く答える。

「15回までですね。だからこの試合は問題なく、最後まで上杉君は投げられます」


 延長15回。これを一人で無失点に抑えるなど、まずありえない。

 しかし今、テレビの中で上杉と言う神が、その常識を覆そうとしている。

「やっぱ現地で見たかったな」

 大介の呟きには、直史でさえ頷かざるをえない。


 上杉は無表情だが、楽しそうだ。

 自分もあんな風に投げているのだろうか?

「佐藤君と似てますね」

 一緒に試合を見つめていた瑞希が、不意にそんなことを言った。

「とても楽しそうです」

 俺が? と直史は問うことはなかった。

「あ~、確かに」

「相手を翻弄してる時のナオだな」

「表情とかは全然違うけどな」

 どうやらそうらしい。




 野球を楽しむ人々の中で、セイバーだけは違う視点からこの試合を見ていた。

 気になってルールを調べる。該当のルール、あり。

 慌ててデータを調べる。これは――ルールに抵触する可能性がある。


「上杉君が……いや、春日山が負けるかも……」


 そのセイバーの呟きは、妙にしっかりと皆の耳に入った。

 視線で問いかける。上杉なら15回だろうが引き分け再試合だろうが、平然と投げ続けるという確信がある。

 大介の言う通り、これでもまだ上杉は全力を出していない。

 セイバーは告げざるをえない。

「引き分け再試合なら、明日の試合の終盤で、上杉君の投球数が制限にかかります」

「……嘘だろ」

 と洩らしたのは大介であった。


 球数制限。現在の高校野球におけるそれは、一週間に500球までとなっている。投手を守るために設けられた割と最近のルールだ。

 二番手である上杉弟の存在もあり、本当なら上杉の投球数は、決勝である程度延長されても、500以内に収まるはずであった。

 しかし延長に再試合となれば、それを超えてしまう。

 ルールに上杉が負けてしまう。

「樋口!」

 思わず声を上げていたのは直史であった。

 球数を放らせないリードをしろ、そう言いたかった。

 だが樋口のリードは、特に球数を多くするようなものでもない。大阪光陰が早打ちを避け、どうにかねばろうとしているだけだ。


 まさか、負けるのか?

 上杉が負けなくても、試合には負けるのか?

 沈黙の中15回の攻防が終わり、翌日の再試合が決定した。




 負ける。

 上杉が負ける。

 大阪光陰が二年生投手の継投で無失点を続けている間、上杉勝也もまた無失点記録を続けていた。

 だが七回の途中、ついに球数制限が訪れる。

 上杉はファーストに退き、弟の上杉正也がマウンドに上がる。


 正也もまた、全力で投げていた。

 三振に内野のファインプレイ。この試合もまた、延長に突入する。


 だがこの世界は良くも悪くも、ドラマチックすぎる。

 延長12回の裏、四球で出たランナーがサードまで進み、そして投じられたボールが、投手の頭を越えてセンター前へ。

 あまりにも無情な、しかし伝説的な、幕切れ。

 正也はマウンドに両膝を着き、更に両手を着き、動けなくなった。


 大阪光陰の選手も、確かに喜びはあるのだろうが、例年の決勝戦後と違い、大喜びをするということはない。

 自分たちは本当に勝ったと言えるのか。


 そんな中で上杉勝也はマウンドへ行き、正也を肩車にしてかつぐ。

 守備位置に呆然と立つナインに対しても、手を振る。

 鉄のような無表情を続けていた上杉勝也が笑っていた。

 まるで勝者のような笑みだった。


 整列する両校の選手。上杉は相手校のエース蜂須賀に握手を求めた。

 蜂須賀は両手でその大きな手を包んだ。


 甲子園が揺れる。

 大観衆が上杉の名を呼ぶ。

 上杉勝也。

 甲子園の投手記録の、ほぼ全てを塗り替えた鉄腕よ。

 お前は敗者かもしれない。だが勝者にも優る英雄だ。

 この伝説の場に立会い、球場中が総立ちになり、拍手を捧げる。

 スタンドに対して無言で頭を四回下げた上杉は、敗者としてグランドを去った。


 夏の甲子園大会、春日山の失点は全試合を通じてわずか二点。

 そして上杉勝也は一点も失点することなく、敗者となった。




 ああ。

 ああなりたい。

 自分も、あんな人間になりたい。

「俺がいれば!」

 立ち上がった大介が、吐き捨てるように叫んだ。

 もし春日山に大介がいれば? しかし今年の地方予選決勝、白富東に点をもたらしたのは北村だけだった。

 それでも大介が春日山にいれば、結果はおそらく違ったろう。


 あの決勝、勇名館に敗北しても飄々としていた大介が、歯を食いしばっていた。

 そのまま逃げ出すように、部屋から出て行く。


 直史もゆっくりと立ち上がった。

 部員の中には涙を浮かべている者もいるが、気持ちは分かる。

 上杉の投球は、伝説を作った。

 テレビ越しとは言え、目の前で。

 あの人を――勝たせたいと思った。


 ゆっくりと息を吐いた直史も、部屋を出る。

 向かうのは、西の空が見える窓だ。

(上杉さん)

 甲子園の方角に、直史は頭を下げた。

(ありがとう)

 野球は、やはり勝った方が楽しい。そうに決まっている。

(でもかっこよかったのは、あんたの方だ)


「佐藤君?」

 背後から近付いていた瑞希に声をかけられ、直史は振り向く。

「かっこよかったな。俺も……あんな投手になれたらなって、少しだけ思ったよ」

 苦笑い。無理だと分かっている。

 単に球速などのパフォーマンスを除いても、あんな投手になれるはずはない。

「佐藤君ならなれます」

 瑞希は無責任に断言した。

 だが彼女はそれを本当に信じていた。


 歩み寄り、直史の右手をそっと握る。

「佐藤君にしか、なれないと思います」

 柔らかな手の体温を感じながらも、直史は思った。


 あの場所へ行きたい。

 甲子園へ。そして戦い、勝ちたい。

 直史がはっきりとそう思うのは、上杉の背中を見たから。

 去っていく上杉は、かっこよすぎた。


 遠い目をする直史を見て、瑞希は思う。

 ああ、佐藤君も男の子なんだな、と。


 直史なら、行ける。

 そして自分も、それを応援する。

 ノートには彼の栄光が綴られていくことだろう。




 この翌年、白富東は春夏連続で甲子園に出場することとなる。

 そしてその二度とも、春日山の因縁の相手、大阪光陰と対決することになるのであった。

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