第76話 SP4 直史と樋口 そして大介対上杉
甲子園の周りはわりと、繁華街ではないことを白富東のメンバーは知った。
それでも白富東の周辺よりはよほど拓けていて、甲子園を目的としているのであろう施設が数多ある。
夕方から夜にかけてはその辺りも回るのだが、特に球場周辺では、おっちゃんやおばちゃんに声をかけられることが多い。
主に直史と大介だ。どうやら千葉県大会の決勝は、全国レベルで有名らしい。
「あんた、全然野球選手らしくないなあ」
おばちゃんにそう直史が言われるのは、何度目であろうか。
むしろ私服にもかかわらず、直史に気付く方がすごい。
まあマネージャーか記録員に間違われる手塚よりはマシだろう。
春日山が帝都一に完勝してから二日。
いよいよその春日山高校の練習所に、一行は向かうことになった。
「上杉ってどんなやつなんだろうな」
タクシーで移動中、大介は呟く。
選手としての圧倒的な実力は、数字でも見たし生の試合でも見た。
その人格面に関しても、ほとんど全てのマスコミなどから、好意的に見られている選手だ。
ちなみにファンの数は女よりも男の方が多いとか。
5ちゃんの高校野球板では彼単独でスレが立ち、兄貴と呼ばれているのは知っている。
春に行った帝都一のグランドでの試合では、彼はベンチにいたので、話す機会もなかった。
ただ、座っているだけでとてつもない迫力があったのは確かだ。
「なんというか、高校球児っぽいって言うよりは、困難な道をあえて選ぶって人だからね」
シニア時代から名前は知ってるし、何度も試合を見たジンはそう言う。
上杉勝也。
新潟県上越市出身で、祖父が市議会議員を務める地方名士の家に生まれる。
野球を始めたのは案外遅く、小学四年生になって小学校の少年野球チームに入ってからだ。
そしてすぐさまエースになり、またすぐさま全国レベルの選手となった。
中学のシニア時代の成績は恐ろしいものであり、チームとして負けることはあっても、上杉が打たれて負けるという記録が一度もない。
U-15の候補とはなりながらも、これを固辞している。理由は分からない。
全国の強豪校からの誘いを断り、地元の公立春日山高校へと進学。
そしていきなり一年生の夏で結果を出し、甲子園に出場した。
甲子園の試合での平均奪三振は、18.7。
そして今年のセンバツまでに、二度のノーヒットノーランを達成している。また勝利した試合は全て完封勝ちである。
うち一つは味方のエラーがなければ完全試合であった。
打者としても五割を打ち、敬遠された回数も多い。
防御率は当然のごとく0.5を下回っており、二年生の頃からメジャーのスカウトが彼を目的として足を運んでいる。
10年に一人、あるいは20年に一人。
それとも近代高校野球史上最高と言ってもいい投手。それが上杉勝也だ。
人格に関しても、口数は少ないながらも、簡潔かつ明瞭に自分の言葉で語る。
揚げ足取りが上手いはずのマスコミでさえ、むしろ彼を持ち上げるしかない。
圧倒的な実力と、孤高にして鷹揚な精神。彼を慕って、今の春日山の二年生は集まったと言っていい。
一応ジンは、シニアの時代に彼が話しているところを見たことがある。
あれは、巨大な精神の塊だ。
重力のように人を魅了し、目を離すことを許さない。
敵対していたはずの人間でさえ、彼と少し話せば打ち解け、やがて信者のように崇めるようになる。
時代が時代であれば、一国一城の主となったり、宗教団体の教祖になってもおかしくはない。
一言で言うなら、カリスマなのだ。
そんな彼も、まだ甲子園での優勝経験はない。
二年の夏と三年の春、共に決勝まで進みながら、準優勝で敗退している。
なおその敗退時のスコアは両方が1-0であり、自責点は彼にはついていない。
「今年は優勝してほしいって、おそらく敵のチームメンバーでさえ思ってるんじゃないかな」
「やっぱ勝負したかったな」
圧倒的な実績を語られても、大介の闘争心に翳りはない。
この少年もまた、偉大な才能を持っている。
バッターボックスに立てば、必ず打たれる。そんな感覚を投手に与えるのだ。
だが大介の願いはかなわない。
上杉はこれが最後の大会だ。地方予選を突破できなかった白富東が、彼と対決することはない。
「上杉はプロ志望なのか?」
直史が問いかける。プロ注目の本格派投手なのに、どこの球団に行きたいとかは全く聞いていない。
「そういえば何もコメントしてないんだよな。政治家一家の長男だし、ひょっとしたらプロ行かないのかも」
それは……才能の無駄遣いとは言えない。
上杉の持つ人間的魅力は、政治家となったとしても、確かに人を引きつけるだろう。
しかし政治家の上杉というのは、あまりにもイメージがかけはなれているのだが。
「プロか……」
重たい声で、大介が呟いた。
上杉の実績から見て、プロ志望するなら間違いなく、複数球団が手を上げるだろう。
対して大介はどうか。バッターとしての能力は間違いないし、プロのスカウトらしき者にも複数注目されている。ジンの父以外にもだ。
だが、実績を上げてからでないと、新人などは使われにくい。大介の場合は体の小ささという、目に見えたハンデがある。
これは、甲子園で活躍でもしなければ。
大介は全くそんなことは考えていないだろうが、直史は彼には借りがある。
高校で初めての勝利のマウンドに立っていたのは、彼が得点を取ってくれたからだ。
友情とかそういったものには薄い直史であるが、人間関係というのは、一方が得するだけでは健全なものとは言えない。
「甲子園、行くか」
どうでも良さそうな口調で、直史は言った。
「甲子園で三本も放り込めば、ドラフトの上位で指名されるだろ。それぐらいなら付き合う」
また簡単そうに、この少年は言うのだ。
そして地味な練習を飽きることなく行い、達成してしまう。
二点以上を取って、味方がエラーしないなら甲子園に連れて行く。
別に自分は行きたいと思っていない直史だが、誰かのために頑張るのは嫌いではない。
おそらく瑞希も喜ぶだろうし。
そして一行は、春日山の練習するグランドに立つのであった。
春日山高校の監督である宇佐美は、同校の職員として長く監督を務め、転勤になってからしばらくして定年を迎え、その後に春日山高校の監督を無償で行っている。
名将と言うよりは、人間育成に力を入れた人物だ。野球の練習に関しても特別に優れた知識があるわけでもない。甲子園に出場することは、上杉が入学するまで一度もなかった。
しかし彼は選手に対して、練習の強要はしない。
ただ、それでいいのかと問いかける。
奮起した部員は自ら力をつけ、強豪を脅かすことも多い。
そんな彼が、初めて「もうこれ以上練習をするな」と言ったのが上杉である。
ごく普通のスポーツ知識を持つ宇佐美から見ても、上杉の練習量は異常であった。
そして試合でも、上杉に無理をさせることはなかった。結局それが、チームの敗退につながったとしても。
上杉だけに犠牲を強いて、チームが勝つことは許さない。理想論的なことを言うが、それを徹底出来るというのは、教育者として間違いなく一流である。
だから上杉が失点しなくても、チームとしては負けることがある。
そんな彼も、今年だけは優勝を狙っている。
戦力が整ったのだ。
上杉を慕って集まった、主力となる二年生。そして代替などいないと思っていた、絶対的なエースの穴を埋める存在。
それもまた、上杉。上杉正也。
そして上杉勝也が自ら勧誘しに行った、樋口兼斗。
樋口が正捕手として上杉の球を捕るようになってから、練習試合も含めて春日山高校は一度も負けていない。
そして上杉は、予選でも自分が先発した試合は、全てノーヒットノーランで勝っている。
予選での平均三振奪取率は22.5。あまりに打球が来ないので、稀に打球が来ると味方の守備はエラーをしてしまうという有様であった。
白富東のメンバーの前で、上杉が投げている。
軽々と。さすがに一回戦のあの投球を見れば、疲れがあると思うのだが。
それでも言える。吉村よりも圧倒的に速い。大河原よりも圧倒的に速い。
なにしろ、球が見えない。
もっと遠くから見れば、さすがにそんなことはないのだろう。だが目と鼻の先で投げている上杉の球は、比喩でもなんでもなく、見えない。
なんで? と言いたくなる。
人間の投げる球。上杉のそれは、確かに速いがさすがに170kmを超えてはいないだろう。
新幹線の速度に比べたら、人間の出せる絶対的な速度などそれほどでもない。
しかし手から離れた瞬間、消えて見える。そしてミットの音だけが鳴る。
「ホップしてるように見えるな」
大介にだけは見えているようだ。
大会中なので、これは全力投球のはずはない。それでもなお、千葉県最速と言われた、大河原の最高速を上回っている。
「一打席だけでもいいから、勝負してみたいな」
また無茶なことを大介が言い出す。
東雲の大河原が引き受けたのは、彼がもう引退していたからだ。大会中の上杉とは、話が違う。
無理な話だと、大介にも分かっているはずだ。
だがここには、ある意味大介以上に空気を読まない人間がいた。
「すみません、宇佐美先生、お願いがあるんですが」
直史が宇佐美に声をかける。宇佐美の指導法は精神論が多いので、セイバーはわずかながら辟易していたところだった。
「ふむ、何かね?」
白い髭を長く伸ばした宇佐美は、好々爺然といった感じで目を細める。
「俺がバッピを好きなだけしますから、うちの大介と上杉さん、一打席だけでも勝負させてもらえませんかね?」
「ほう」
無茶と言うよりは、非常識である。
だがそれも、断られても元々と思えば、提案自体は出来るというものだ。
「決勝の試合は見たよ。素晴らしいものだった。どちらが勝ってもおかしくなかった」
髭をしごきながら宇佐美は言う。即座に否定はしない。
「ただ、大会中ではあるからな。上杉!」
こいこい、と手招きする宇佐美の元へ、上杉がやってきた。
でかい。
身長は188cmと公称されているが、実際はもう少し高いのではないだろうか。
体に厚みがあり、顎は青々と髭を剃った跡があり、目が爛々と輝いている。
美男ではないが、男としての魅力に富んだ容姿だ。視線だけで、人を威圧する。
「白富東のバッターなんだが、どうしてもお前と勝負したいんだと言っている。代わりにこちらが好きなだけバッピをしてくれると言ってるんだが」
「それは面白い」
上杉はにっかりと笑った。
「いや、面白くありませんよ」
即座に否定してきたのは、キャッチャーマスクをかぶった少年だった。
「万一にも打ったボールがキャプテンに当たったらどうするんですか。そもそもこちらにメリットはないでしょう」
キャッチャーとしては珍しくメガネをかけていて、体の線も細いように見える。
髪型や物腰も、あまり体育会系っぽくはない。背はそれなりに高いが、俳優でもしていた方がいい容姿をしている。
こいつが樋口兼斗だ。
天下の上杉に三度も足を運ばせ、周囲からの圧力や懇願によって、ようやく春日山に入ったという、曰くつきの一年生捕手。
シニア時代は同じ地区に春日山シニアがあったため、ジンたちとの対戦経験はない。
春の試合で帝都一との試合でマスクをかぶらなかったのも、そのあたりの事情が関係している。
だが、夏の大会は地方予選から全試合スタメンだ。
打率は地方大会では五割を超え、主に五番を打って、敬遠された上杉をホームに帰すのが主な役割であった。
盗塁阻止率はおよそ八割。投手が速球派の上杉とは言え、この阻止率は異常である。
正直なところ、ジンが考えている同学年で最高の捕手だ。
いや、あるいは一年生の段階で、高校最高の捕手と言ってもいいのかもしれない。
そんな彼は冷静に、この対戦のデメリットを挙げる。
「だがな、樋口よ。センバツやらでこの投手と当たる可能性は高いと思うぞ?」
宇佐美はそう言った。
直史の名前は、全国区レベルである。
大介もそうであるが、予選とはいえシードと当たる準々決勝で、参考記録の七回パーフェクトというのは、とても信じられないものだ。
だが実際にそれは達成され、しかも魔球を投げる投手である。
魔球などと言うと途端に胡散臭くなるが、要するに変化球だ。
変化球を自由自在に操る、甲子園レベルの投手など、下手に相手をしてはこちらのバッティングが狂う。樋口が心配しているのはそれだ。
「そうさな……」
上杉は顎に手を当てて考える。樋口は知っているが、これは楽しそうなことを考えている時の上杉のクセだ。
「うちの打線を一巡、ノーヒットに抑えたら勝負してやる、というのではどうだ?」
なかなかに難しいことを言う。
それに色々と準備が出来ていない。
「キャッチャーはうちの樋口がする」
「な!?」
指名された樋口がうろたえるが、当然であろう。
魔球とまで言われる変化球を、初見で捕るのは難しい。
「それでよければ、話を受けるが」
直史にとっても想定外だった。
ジン以外のキャッチャーで、春日山の打線をどうにか出来るとは思えない。そもそも捕れないだろうに。
「ワシのストレートを捕るんだから、どんな変化球でも捕れる。もちろん後逸などは、三振扱いで構わん」
そのあたりの条件は譲歩したように思えるが、果たして敵になるかもしれないキャッチャーに、全ての球種を明かすというのは――。
「あんまり自信はないけど、それでいきましょうか」
直史は承諾した。
妙なことになった。
春日山の若き正捕手樋口兼斗は、そうとしか言えない状況にあった。
キャプテンである上杉の言ったこと、この先戦うかもしれない相手。
それは理由の一部ではあるのだろうが、気質的には他の要素が大きいはずだ。
単に、自分があの打者と勝負したいだけなのだろう。
千葉県大会の記録は、樋口も目を通していた。
訳の分からない投球内容の投手と、訳の分からない打撃内容の打者が同じチームにいる。
これでも負けるのだから、野球というのは分からないと思ったものだ。
そして今自分は、その訳の分からない投手とサインの交換をしている。
上杉があまり球種がないので、樋口にとってそれだけの変化球のサインを憶えるのは、久しぶりのことだった。
シニア時代は投手の継投で勝っていたため、それぐらいのサインは持っていたのだが。
そしてそのサインの量だけで、樋口は直史の実力のかなりの部分までを把握した。
「それにしても、スパイクなしでか」
「球速で勝負するつもりはないから、運動靴でいいんだ」
樋口の言葉に直史はそう応えたが、樋口にとってはさすがにうちの打線を甘く見ているのではないかと思う。
自分が捕手をしなかった春の練習試合で、大差で負けているのを忘れているのだろうか。
あの時は確かに継投していたので、彼一人の責任ではないが。
しかし投球練習を終え、実際にバッターを迎えてみると、樋口は直史の評価を、かなり上方修正せざるをえなかった。
サインは完全にこちらに任せられていたのだが、要求通りの球が、要求した部分へ、要求した速度で入ってくる。
まるでキャッチャーのラジコンで動くロボットのように、正確な投球だ。
春日山からこれに参戦したのは、上杉兄と樋口を除いた七人、そして上杉弟を足して八人。
それがくるくると三振したり、内野ゴロや内野フライで打ち取られる。
これは、楽しすぎる。
上杉の球を捕るのは、正直捕手としても恐怖しかない。この球が打たれるはずはないのだから、負けるとしたらそれは捕手の責任だ。
そう思ってリードをしながらも、全精力でストレートを捕る。
しかし直史は違う。これはどんな要求をしても、それこそど真ん中を要求しても、平然とそこに投げ込んでくれる。
かといってそこに怖れや、責任放棄があるわけではない。ヤケクソ気味の配球にも、迷いなく球を投げ込んでくる。
上杉とは全く違う方向性の、ものすごいピッチャーだ。
こんなピッチャーというのも、まだ全国にはいるのか。
もしもこのピッチャーと対戦した場合……点を取れるイメージが湧かない。
最後の八人目、上杉正也が三振をして、直史の約束は果たされた。
バッターボックスに大介が入る。
使うバットは、樋口が使っているという一番長いバットだ。
こんなバットを使うことからも、樋口もまた明らかな、ホームランバッターだ。
帝都一との対戦でも、塁に出た上杉をホームに帰すのは彼の役割だった。
そんなバットを、普段と同じような自然体で構える大介。
勝負は一打席だけ。投手に有利すぎる条件であるが、本来が無理筋なのだ。
ここで、たとえ一度でも上杉と対戦できるのを、幸運と思うしかない。
一球目、ど真ん中のストレート。
大介は反応したが、バットは振らない。
ミットの音に振り返ってみれば、想像よりも高い位置で捕球している。
なるほど。
大介の中で、心臓の音が小さくなっていく。
集中するのに、心臓の音が邪魔だ。
二球目、同じところへ。
バットがスムーズに出た。弾いた打球はそのまま真上、ファールゾーンに落ちる。
タイミングは合った。もしこれが上限なら、次で打てる。
一方、バッテリーは驚いていた。
上杉はまだ、自分の球を打てる高校生がいるのだと知って。
そして樋口は、この打者がまだ一年生であるのを思い出して。
来年以降、上杉が卒業した春日山が、甲子園で勝ち進めるかは微妙だ。
出場自体は、多くの戦力が残るので出来るだろう。しかし上杉という大きな柱がなくては、最後まで勝てるかは疑問だ。
だがもしその対戦相手の中に、この打者がいたら――。
上杉は笑った。
その笑みの中にあるものを見て、樋口はサインを出すのをやめた。
振りかぶった上杉が投げるのは、ストレート。
帝都一にさえ投げなかった、本当の160kmオーバー。
白光が、稲妻のように。
大介がバットを振る前に、ボールがミットの中に入っていた。
見逃し三振。
手も出ない三振というのは、大介にとっても初めてのことだった。
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