第72話 最終話 ナイスゲーム

 越えろ。

「越えろ!」


 届け。

「届け!」


 入れ。

「入れ!」


 アレクの長い腕が、甲子園のフェンスの更に上まで伸びる。

 グラブを伸ばす。

 入った。

 終わった。




『入ったーーーーーっ!!!』


『入った! 入った! 入りました! ライトフェンスの上まで手を伸ばした中村届かず! 奇跡の! 奇跡の逆転サヨナラホームラン!』


『春日山高校! 三度目の正直! 新潟県勢初の全国制覇! 春日山! 初の全国制覇です! 四番の一振り! 四番の一振りで! 試合をひっくり返しました!』


『立ち尽くす白富東ナイン! 九分九厘勝っていた! 最後のストライク! 抜群のコースへ! しかしそれを読んでいたかのように!』


『樋口! 春日山四番の樋口! この大会初のホームランが! まさかの! まさかの決勝の逆転サヨナラホームラン!』


『優勝は春日山高校! 兄の果たせなかった夢、前キャプテンの果たせなかった夢を! ついに弟が! 後輩たちが! 果たしました!』


『樋口ホームイン! 静かなホームインです。静かな……ああ、春日山ナイン、泣いています。ベンチも泣いています。樋口がベンチへ。もみくちゃにされながら。ああ……樋口も泣いています。ああ……」




 終わった。

 センターから、マウンドの向こうのキャッチャーまでを見る。

 ジンと岩崎は、打球の入ったライトスタンドをずっと見ている。


 アレクの長い手はフェンスのかなり上まで伸びたが、それでも届かなかった。

 あれは、間違いのないホームランだった。

 ミスでもない。相手のラッキーでもない。

「けれど負けは負け、か……」

 これでまた泣くなら、今度は俺が慰めるのか?

 なかなかかける言葉が思い浮かばないが、キャプテンとしての仕事はしよう。




 そんな手塚の考えとは別に、岩崎は冷静に打たれた原因を考えていた。

(少しだけ、球が浮いたか?)

 おそらく樋口は、あのコースを狙っていた。

 ただそれでも、球威で押せると思ったのだ。

(くっそ)

 帽子をくしゃりと潰して、岩崎はゆっくりとホームへ向かう。

 整列だ。


 ジンもまた、マスクを外した。

 あれが打たれたのか。

 あれを打てるのか。

 狙っていたのだ。たとえば大介なら、あのコースでも打てるのは確かだ。

(誘導された? いや……)

 確かにキャッチャーなら、あれを狙える。

 だがもしジンだったら、カットで逃げる。しかし樋口は逃げなかった。逃さなかった。そこの差か。


 整列する選手一同。

 ああ、分かった。

 目を真っ赤にした選手たち。

 春日山にあって、白富東にはなかった、この試合で勝利できた理由。


 執念だ。


 上杉勝也の無念、二度の無念、去年の夏の引き分け再試合の無念。

 これが力となった。

 敗北することによってしか、得られない力だ。

 整列し礼をする。


 春日山3-2白富東


 向かい合った相手と握手をしていく。その中で離れていく直史の背中へ、樋口は声をかける。

「佐藤! 故障か!?」

 そんな質問をされて、馬鹿正直に答える必要もないのだが。

 直史は握っていた右手を開いた。

 赤黒くなった人差し指。

「マメが潰れただけだ。すぐ治る」

「そうか」

 それだけを確認して、樋口はベンチに戻る。


「え、お前投げられなかったの?」

「聞いてないよ~」

「お前、報連相ってことば知ってるか?」

「最初から言っとけよ~」

「セイバーさんには伝えたけどな」

 なるほど、監督判断なら仕方ない。


 ベンチに戻る選手たちに、客席から拍手が沸き起こる。

「ようやったー! ええ試合やったぞ!」

「また来いよ! 来年も待ってるからな!」

「白石~、ホームラン打てよー!

「佐藤~、岩崎~、また投げろよ~!」

「もっかいパーフェクトやってくれ~!」

「胸張って帰れや~!」


 ベンチの前に整列した選手たちに向かって、シーナと並んで立った小さな監督は、困ったような笑顔で対した。

「ナイスゲームでした」




 閉会式となり、真紅の大優勝旗が春日山に渡される。

 それを受け取るのはキャプテンの本庄ではなく、足を引きずった上杉と、それに寄り添う樋口だ。

(足……肉離れか何か? いつ痛めた?)

 普通に歩けてはいるので大きな負傷ではないだろうが、捻挫でもしていたなら、よく最後のバッターボックスへ入れたものだ。

 あのあたりまではアドレナリンの分泌で、痛みを感じなかったのか。

 しかし武史と鬼塚に連続で打たれた理由は分かった。


 諸々の挨拶と閉会式も終わり、さあ定番の甲子園の土である。

 春日山の面々は、最後まで勝利したものとして、ようやくここからは笑顔で土をつめていた。

 一方白富東は複雑である。

「二年以下は入れるなよ。どうせまた来年来るんだから」

 ジンの言葉は、下級生にもよく通っていた。


「俺らは入れるけどな~」

「つっても別に特殊な土じゃないけどな~」

「こっちは田中の分、こっちは三田村の分、そんで北村さんに渡す分、と」

「「「それは忘れてた」」」

 手塚、なんだかんだ言って、細かいところまで気の回る男であった。




 最後のお立ち台である。

 春日山の宇佐美監督は、好々爺といった感じで、全て選手の努力の結果です、と〆ている。

 最後の一発を決めた樋口は、とにかくさっぱりしていた。

「いやもう、優勝しないとずっと勝也さんに頭が上がらないから、必死でした。大田選手は堅実なリードなので、一度はあそこにストライクを入れてくると信じてました。まさかツーストライクになってからだったのでびびりましたけど」

 ひたすらほっとした顔で、樋口は饒舌になっている。

「実力だけで勝ったとか思いません。あっちは佐藤選手が負傷してたのもあったし。ただもちろん、運で勝ったとも思いません。巡りあわせみたいなもんかな」


 そんな樋口へ、直史は遠くから声をかける。

「樋口! 上杉いないけど大丈夫なのか!?」

「ああ! あれは足じゃなくて、脇腹が痛いんだと! 多分大丈夫だろ!」

 なるほど、足を引きずっていたが、足が原因ではないということか。

 わざわざ敵の心配をしていた直史である。


 白富東の方も、悲壮な感じではない。

 セイバーは毅然とした態度で、最後までの判断を語った。

「敗因? それが分かってたら勝ってましたよ」

 しかしやはり毒は吐くのだった。


 ジンにしろ岩崎にしろ、敗因を述べるのは難しい。

 あんな場面で打ってしまう樋口が、メンタルの化物だと思うしかない。

 上杉勝也の、春日山の執念が、あの一打として結晶化したのだ。

「甲子園の決勝で逆転サヨナラホームランって、史上初だってよ」

「また史上初かよ。ナオの完全試合に、大介の場外に、樋口の逆転サヨナラホームランって、もう史上初のバーゲンセールや」

 なおこの年、さらに色々なことがあって、流行語大賞は「史上初」となる。

 とにかく言えるのは、今回の甲子園には、巨大な魔物が住んでいたということだ。




 宿に戻った白富東一同は、体を休める者もいれば、さて解き放たれたと大阪の街に出かける者もいる。

 直史は改めて指を診てもらった後は、瑞希に付き合ってベンチの様子を語っていた。

 イリヤは持ってきていた電子ピアノで、一心不乱に作曲を行っている。

「本当に『タッチ』みたいなことって起こるのね」

 敗北したにもかかわらず、彼女は上機嫌であった。


 大介は大阪の街の見学に行き、双子はそれに付いて行った。

 なお性質の悪いナンパに遭って、双子が撃退したところまでが、この話のオチである。

 双子は野球部員でないので、暴力沙汰でも不祥事にはならない。

 こういうことを恐れて、直史は双子を正式な部員にはしなかったのである。兄の慧眼と言うべきだろう。


 夕食は、これこそまさに最後の晩餐。どうせ来年も来るのだ。変に湿っぽくなっても仕方ない。

「やっぱ樋口より、その前のセーフティ二連発だよなあ」

「あ~、そうだよな。一回目はともかく二回目はな」

「内野指示出すの忘れてたってか、完全に打ってくると思ったんだよな。これまで一本しかヒット打たれてなかったのに、どうして強攻だと決め付けたのか」

 今更ジンは敗因が分かってきたらしい。

「お前が監督になったら、逆に絶対使うだろ」

「使うだろうなあ。やっぱ試合では使わなくても、練習ではちゃんとバントしてたんだろうなあ」


 食事の後も、和やかな時間が流れる。

 特にこれで引退のつもりの三年は、暴食の限りを尽くしている。

 キンキンに冷えたコーラが美味い!


 だが新たなるチームについては、既に考えなければいけないことがある。

「じゃあスタメンからは手塚さんと角谷さんが抜けるから、センターとセカンドを埋める必要があるわけか」

 ジンを中心に頭脳派は悩んでいる。

 普通の野球強豪校であれば、三年が残って国体に参加することは可能である。

 しかし白富東の場合は、進学が優先となるので、ここで三年は引退だ。

 強制ではないが、残ろうという者はいなかった。

「秋季大会の間に国体挟むって、いったいどういうことなの……」

 ジンもあまり価値を見出してなかったのだが、準優勝校が参加しないのも問題だ。

 これが強豪校なら三年メンバーだけでの出場もあるらしいのだが、白富東の場合は三年は七人しかいない。


 それよりもまず、秋季大会である。甲子園に行った白富東はブロック大会は免除だが、それまでには新しいポジションを決めなければいけない。

 使える時間は一ヶ月もない。

「センターは……守備範囲の広いアレクを持ってきたいんだけど、肩が強いからライトに置いておくのも一つ」

「ガンちゃんが普段は入るってのは?」

「ありだけど、ガンちゃんが投げる時のはやっぱり決めておかないと」

「ナオでいいんじゃね? 打率もいいし」

「まあガンちゃんとナオが交代しあうのでもいいけど、片方を確実に温存したい時もあるだろうから、やっぱり決めておかないと」


 外野はいいとして、問題は内野、つまりセカンドである。

 角谷が引退した後、実は適当な人間がいない。鷺北シニアメンバーも、シニア時代はシーナが不動のセカンドだったからだ。

「セカンド専門としては曽田が一番上手いけど……」

「打てないからなあ。鬼塚はやったことあるんだよな?」

「まあ無難にこなせますけどね」

 するとまた外野が必要になるが、内野に比べればまだ専門性は薄い。

「まあ実際に試してみないと分かんないか」

 そういう結論になる。




 さっさとポジション決めのために、練習をしたいのであるが、そうは問屋が卸さなかった。

 地元に帰還した野球部は、応援していた者たちの熱烈な祝宴に付き合わされることとなった。

 本当なら三年はすぐにでも受験勉強に移行しなければいけなかったのだが、特に手塚はキャプテンとして挨拶をしないわけにはいかない。

 自力での進学を諦めた手塚であった。


 そしてあちこちに引きずり回される間に、夏休みは終わった。

 始業式にまた改めて全校生徒の前で祝福されたが、まあこれぐらいはさほどのものでもない。

 そしてその日の放課後、ようやく選手は部室に集まって、引継ぎを行うことになった。

「つーことで、次のキャプテンはジンな。今更他の意見なんてないよな?」

 手塚の確認に、皆は無言で頷く。

「そんじゃ新キャプテン、あとは任せた」

「任されました」


 ここまでは波乱はなかった。

 ここからが波乱である。

「それと、本日をもって私も、監督の職から離れることなります」

 セイバーの言葉は衝撃であった。

「聞いてないよ~」

 この一言につきる。


「まあ監督を退くといっても、しばらくは皆さんのサポートはします。コーチ陣に関しても、引き続き来年度までは教えてもらえますので」

 それは非常に重要なことであるが、その金は引き続きセイバーが出すのだろうか。

「そしてスポンサーも変わります」

 そう言ってセイバーが掌を向けた先には、なぜかここにいる少女が座っている。

「よろしくね」

 イリヤは頷いた。

「え? スポンサー?」

「イリヤの家ってそんなに金持ちなの?」

「イリヤの家じゃなくて、イリヤが金持ちなんだよ~」


 やはりここにいる双子が説明する。

「ランナーズとか斉藤和歌とか楽曲提供してるの、イリヤ」

「え……Iriya……イリヤってお前だったのかよ!

 とりあえずこれで、彼女が在学中の間は金に心配はない。

 まあ今回の寄付のおかげで、しばらくの間は資金は潤沢のはずだ。


 そしてグランド脇の雑木林を切り倒し、新部室は建設中である。

 さすがに甲子園大会中は間に合わなかった。

 ごく小さいが、室内練習所も増設中だ。これは他の部活との共同利用となる。

「それで、次の監督ですが、あちらも調整が難しいので、来年の春からになると思います」

「あ、じゃあそれまではミネ先がまた監督?」

「いえ、高峰先生はそのまま顧問です。監督は、彼女に任せます」

 セイバーの横に並んでいたシーナが一歩前に出た。


 現役女子高生でも、監督にはなれるのだ。

「野球に関する知識、実際の技術、戦況の把握、あと何より大切なのは、メンバーからの信頼感。他に人はいませんよね?」

 事前に聞いていたジン以外は驚いたが、鷺北メンバーで反対する者はいない。

「まあ、これ以上の人選はないよな」

 大介の賛成。

「他に出来るやついないだろ」

 直史の賛成。これで決まりだ。


 新監督は、椎名美雪。あっさりと決まり、受け入れられた。

「私がノックも出来ないからグランドに出なかったこともあるんですけど、甲子園のグランドに正式に出た女の人って、まだ一人もいないんですよね」

 以前に練習補助員として出た例があるが、危険だからと高野連から通達があったりした。

「つまり監督のシーナさんを甲子園に連れて行けば、彼女が史上初の、正式に甲子園のグランドを踏んだ女性となるわけです」


 甲子園に連れて行く。それは果たした。

 だが今度は、グランドに連れて行くのだ。

「まさに『タッチ』ね」

 横で見ているイリヤは笑っていた。


 一年と少し。

 本当に素晴らしい時間だった。

 この時間こそが、まさにナイスゲームだった。

 さらに言うなら、この春から夏への季節が。

 イリヤは見守り、双子が騒がせ、瑞希が記録し、そしてシーナが引っ張る。

 野球好きな男たちの、なんだかんだ言いながらも熱血しまくった、甲子園を巡る戦い。

 これから白富東は、もっと強くなっていくだろう。

 少し寂しいが、またあの舞台が来れば、自分も行こう。あの特別な場所へ。あの熱を感じに。今度はただひたすら、勝利を信じて応援するだけ。


 ありがとう。

 口の中でセイバーは呟いた。







 ――こうして、『白い軌跡』の、奇跡のような一年目は終わった。







  第六章  一度きりの夏 完

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