第71話 頂点へ
終わりが近付いている。
彼の高校野球が、終わろうとしている。
甲子園で手塚は野球部を引退する予定だ。優勝校は当然国体にも出るのだが、正直そっちは興味がない。
そもそも今の三年は、出場しなくてもあまり戦力は変わらない。そろそろ勉強をしなければ、大学受験に間に合わない。
もっとも手塚の成績と野球部の成績もあって、実は推薦も通りそうなのだが。
手塚の狙っているのは早稲谷大学なので、また北村と野球をやるのも悪くないかもしれない。
(でもここまでガチなのは、もう勘弁なんだよなあ)
東京六大学の早稲谷は、相当に野球部も強い。野球で推薦入学してくる者も多いのだ。
(野球同好会でも作って、草野球でもしようかね)
おそらく草野球レベルなら、手塚は無双出来るだろう。大人げのない男である。
ラストバッターに出た代打が、三振してワンナウト。
(あと二人か)
今日の岩崎はここまで、ヒット一本と四球一つという、ほぼ完璧な内容である。
少し疲労は出ているが、ここからまた予備タンクのガソリンを噴かせるのだ。
しかし、センターからはバッターボックスは遠い。
守備範囲も、一番広い。
この広いセンターを、二年の時から、正確には一年の秋からずっと守ってきたのだ。
足が速いから。
それだけで外野をやって、それもけっこう楽しくて。
(ここまで来ちゃったんだよなあ)
甲子園。
高校野球の頂点とも言える場所。
その更に頂点である、優勝。
ベンチに入れるのは、18人。
(水島と新庄、上手くやってくれたよなあ)
大差の桜島で、少しだけ出場できた。
(あそこで倉田も使ってやれば良かったんだよな。でも本当に代打の切り札だったから、逆に使えなくて)
三週間余り。これ以上に濃密な時間は、今後の人生においてもう二度とないだろう。
(しっかし頑張りすぎたよなあ。普通推薦でそのまま行くかな? あいつらまとめるの、大変だったし)
色々なエロで掌握した部員たちだが、直史の性癖が一番意外であった。
そんなバカみたいに楽しい時間が、もう終わる。
終わらせない。
絶対にこのままでは終わらせないという執念を持って、柿崎は打席に入った。
春日山のスタメンの中では、唯一の左打者。だが岩崎を相手に、全く活躍できていない。
まともには打てない。
切り込み隊長の一番として、絶対に塁に出なければいけないのに。
岩崎はぽんぽんと投げ込んでくる。柿崎はミートを狙うが、ファールにするのが精一杯だ。
追い込まれている。
多少球威は弱くなったとも思うが、それでもまだ限界には達していない。
正也はもう限界だ。
おそらく打つ方も、さほどは期待出来ない。
ならば誰が決めるか……。
樋口。
あの、最初から最近まで、ずっと気に入らなかった後輩。
尊敬する上杉勝也が何度も訪問して、やっと口説き落としたキャッチャー。
だが実力は本物だし、現実的なことしか言わないし、言い訳もしなかった。
春日山を決勝まで連れて来たのは、正也と樋口のバッテリーだ。認めざるをえない。
正也はともかく、樋口にまでは回さなければ、先輩としての、いや男としての面子が立たない。
岩崎の球は速く、しかもただ速いだけの球ではないが、球筋そのものは素直だ。
試合では、一回もしたことはないが、練習では何度も行ってきた。
追い込まれてから、サードへのセーフティバント。
柿崎は走る。まがりなりにも一番を打っているのは、足の速さを見込まれてのものだ。
ヘッドスライディング。ぎりぎりだが、間違いなくセーフ。
塁には出た。
最低限の役目は果たした。
「続けぇ!」
春日山はまだ諦めない。
「なんで佐藤は投げないんだ?」
ベンチの中で樋口は呟く。
「単に岩崎が良すぎるからだろう?」
本庄はそう言う。確かに岩崎はほとんどパーフェクトなピッチングをしているが、ガス欠も近いだろう。球威のある球は、少し浮いている。
「それよりも、トラはもう限界だ。お前と俺とで決めるぞ」
柿崎が出塁して、二番の上條が打席に入った。
ネクストバッターサークルの正也は、攻撃側だというのにまだ息が整っていない。
白石に力を使いすぎた。四番と五番に打たれたが、さらに六番に打たれても不思議ではなかった。
上條が、連続セーフティで塁に出た。
ここで生きるための手段としては、確かに相手の意表を突いたものだったろう。
脳筋の柿崎も上條も、ここで生き残るために最高に頭を使っている。
連続セーフティまでは、さすがに予想外だったろう。そもそも二人とも、公式戦で送り以外のバントをしたことはない。
切り札、あるいは初見殺しを残しておいたのは、こちらも同じだ。残しておいたと言うよりは、残っていたと言うべきなのだろうが。
打席に入る正也には、送りバントのサインが出る。ツーアウトでも送っておいた方が、今の正也の状態を考えると、ゲッツーにならないだけマシだ。
ネクストバッターサークルへ向かう樋口の背に、本庄は声をかける。
「樋口、お前と俺で決めると言ったけどな」
振り返る樋口に向けて、本庄は男くさい笑みを浮かべた。
「お前だけで決めてしまってもいいんだからな」
思わず苦笑を浮かべる樋口であった。
あと一人。
双方の応援が、佳境に入る。
可能性はわずかに残っているが、白富東の圧倒的な優位に変わりはない。
声援もほとんど絶叫となり、声を潰した人間も、拳を握り締めて見守る。
白富東の応援席、踊りすぎてへろへろになっていた双子も、そうやって見守っていた。
瑞希もイリヤも、ペンを握り締めて記録を放棄している。
九回裏、ツーアウトでランナー二三塁。迎えるバッターは四番。
一応、ホームランが出れば逆転サヨナラだ。
タイムリーでも、打球次第では同点まではある。
あとは他に、キャッチャーの後逸や、味方のエラーの可能性もある。
樋口が打席に入った瞬間、双子の顔から感情が消えた。
「終わったね」
「うん」
その呟きをイリヤが拾う。
「まだ終わってないでしょ?」
「ううん、終わった」
「見えたから」
双子には見えた。
いつ、どういう状況で、どんなものが見えるのか。
はっきりとはしない条件だが、双子が揃っている時、そういうものが見えたりする。
そういうものが見えるから、双子は今、イリヤといるのだ。
イリヤもそれは承知している。
「どう終わるの?」
「結果しか分からないよ」
「どう勝つか、どう負けるかが分かってないのに、勝ち負けだけを話すのはネタバレだよ」
双子にだって、限界はある。
いやむしろ他の人間よりもはるかに高い能力を持ちながらも、その限界ははっきりとしている。
なぜ自分たちが特別なのか、ずっと考えてきた。
今なら分かる。イリヤのために、自分たちは生まれた。
だけど、イリヤのためだけに生きているわけでもない。
上杉が送った。
そしてバッターは樋口。準決勝も決勝点を奪ったのは樋口だった。
「敬遠、なんてないよな」
ベンチの中で、ふと直史が口を開く。
「そりゃそうでしょ。一点差ならともかく二点差だよ? 満塁で長打があったら、ホームランじゃなくてもサヨナラじゃん」
シーナの判断は正しい。
「そうですね。期待値的に考えても、ここは勝負です」
セイバーの統計もそう結論付けている。
それはそうだ。
直史も、自分の言ったことがバカだと分かる。
慎重でも臆病でもなくこれは、杞憂だ。
(ガン……)
直史は右手を握り締める。
(優勝投手のマウンドは、お前に譲るよ)
セイバーは考えている。
結局彼女が期待したものは、統計でもチーム力でもない。
それはもちろん前提にあるが、最終的に個の力だ。
ここで樋口を敬遠? ないない。
むしろここで樋口まで、セーフティを仕掛けてくる可能性が高い。
あとアウト一つ。
もしここで負けるとしたら、逆転サヨナラホームランが思い浮かぶ。
そこまで樋口は勝負強い選手か?
勝負強さ。いわゆる得点圏打率とも違う、打つべき時に打つバッター。野球ではクラッチヒッターという。
元はNBAのクラッチシューター、たとえばジョーダンのような決める時に決める選手を言ったものだ。
確かに樋口は準決勝の決勝点を叩き出したが、アベレージヒッターのはずだ。
一年の夏から四番を打っており、まあ役割的に確かに決勝点を上げることは多いだろう。
樋口はクラッチヒッターか?
打つべき時に打つ選手だとしても、ホームランまでは打てるか?
そうは思わない。
この大会も打率は高いが、ホームランは出ていない。
去年の夏やセンバツでは打っているが、基本的にはチャンスを拡大するようなヒッティングを行う。
最悪、ホームランさえ打たれなければいい。
三番の上杉が送ってきたのは、体力の限界だからだ。
武史と鬼塚に立て続きに打たれ、六番の角谷も惜しい当たりだった。
追いつかれて、延長になっても勝てる。
岩崎もかなり疲れているが、まだ上杉に比べればマシだ。
(大田君、最善のリードを)
セイバーはクリスチャンではないが、自然と手を祈るように組んでいた。
勝てばいい。負ければ、どんないい試合でも悔しい。
悔いが残る。
だけど、全力だけは出せるように。
打席に入る樋口は、わずかに瞑目する。
祈るように。だが無神論者の樋口は、神にも仏にも祈らない。
ただ、思い起こすのだ。
(父さん……)
中学三年の夏、突然失われてしまった父の命。
あそこで、樋口の人生は変わったはずだった。
もう野球はいい。勉強していい大学に行き、いい仕事に就こう。
そう思った樋口の前に現れた上杉勝也は、結局野球によって樋口の道を切り開いた。
彼のおかげで自分は、もう自分のためだけに生きることが出来る。
守ってくれとも、力を貸してくれとも思わない。
ただ、もしそこに父がいるなら、恥じることのないように。
全てを尽くす。それだけを考える。
樋口に回った。
今日は打っていないが、正直ジンにとっては、一番嫌なバッターだ。
しかし、最悪でもホームランを打たれない封じ方は分かっている。
初球、アウトローにスライダーのボール球。
軽く見逃された。まあこれは、目をそちらに向けるためのものだ。
第二球はインハイ。配球の基本ではあるが、ここは打たれる可能性は高いコースだ。
もっともバットの根元なので、樋口のパワーではホームランはない。
実際に打った打球は、力なく三塁側のスタンドに入っていった。
三球目は初球と同じスライダー。これでまた意識を外角に持っていく。
そして四球目は、内角へのチェンジアップ。
樋口は振らず。そしてこれでツーストライクツーボールの並行カウント。
打たれても、まだ一点。悪くて同点。
だが追いつかれても崩れない精神力を、岩崎は身につけた。
正直なところ、たとえ追いつかれても、勝てるとジンは踏んでいる。
上杉の消耗はフリではない。
送りバントを決めた後も、まともにファーストへ走れなかった。
冷静に考える。最悪打たれても一点。もっと最悪に長打でも同点。
ベンチには全く動きはない。この試合は、岩崎と自分に託された。
思えば不思議な話だ。
三年目ぐらいを目途に、一度ぐらいは甲子園に行っておきたい。そんな打算からのチーム選びだったはずなのに。
それが今、甲子園どころか、絶対王者の大阪光陰まで倒し、本当の頂点まであと一歩。
慎重に行こう。
確実に。エラーと失投だけは気をつけて、あとはもう何も恐れずに。
最後に投げるのは、アウトローのストレートだ。
この一球で終わらせよう。
頷いた岩崎が、振りかぶって投げる。
伸びのあるストレート。
これを打つなどというのは無理だ。
樋口は振ってきた。
この試合の中でも、おそらく一番力の入ったフルスイング。
バットに当たった打球は、ライト方向への大きなフライとなった。
背筋に冷たいものが走る。
インコースを攻めたあと、あのコースに、あのストレート。
打てないはずだ。
打球は――微妙だ。
伸びても詰まってもいない。だが、距離的には入るのではないか?
(ぎりぎり)
追いかけるアレクは判断する。
ぎりぎり、入る。ライトの守備が、中村アレックスでなければ。
(僕なら捕れる!)
アレクは助走をつけて打球を追う。
樋口は走る。
あの球は、あそこまで飛ばすのがやっとだ。
大田は、優れた捕手だ。だから最悪の事態を考えていた。
たとえ打っても、ホームランにはならないコース。そう考えたのだろう。立場が違えば自分でもそう要求しただろう。
だがたとえ理論上、ホームランにならないコースにならないボールが来ても、それが来るのに絞っていれば、打てるのだ。
賭けには勝った。読み通りのボールは来た。
しかし試合はまだ決まっていない。
入るのか、フェンス直撃なのか、それともフェンス際で捕られるのか。
打球の行方を追いながら、樋口は走る。
アレクが壁を蹴り、左手でフェンスをよじ登る。
彼が右利きだったらできなかったことだ。
手を伸ばす。
風は吹かない。
天の気まぐれはなく、人間の力だけで、勝負が決まる。
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