第70話 この一点を捧ぐ
三年間頑張ってきた、とは言えない。
ちゃんとした理論でそれなりの練習し、理不尽な後輩苛めもない。そんなゆるいチームのはずだった。
だけどキャプテンは――北村だけは別格だった。
あの人が、ここへ来るべきだったのだ。ずっとそう思っていた。
けれど今は違う。
ここは素晴らしい場所だ。
最後の夏を、この場所で終えることが出来る。
あいつが、甲子園に行こうと言ったから。
だから、頑張ってしまった。
あの春から数えれば、わずかに一年と四ヶ月。
たったそれだけしか懸命に練習してないのに、手塚は今、甲子園の打席に立っている。
上杉正也はすごい投手だ。
しかしうちにもすごい投手と、もっとすごい投手がいる。
それに去年の夏――。
上杉勝也のストレートを見たのは、大介、直史、ジン、それに――。
(俺だ!)
弾き返した打球が、一二塁間を抜けてライトに達する。
五回の表、キャプテン手塚は、先頭打者としてランナーに出た。
応援側アルプスを見つめる。そこには、ここに立ってほしかった人がいる。
応援席の北村に向けて、手塚はガッツポーズをした。
正也の投球内容は悪くない。
二打席目の白石をファールフライで打ち取れたこともあるし、ホームラン以外は四球で二人を出しただけだ。
(けれど完全に理想的にいけば、白石と四回も勝負しなくて良かったんだけどな)
わざと四球を出したわけではないが、白富東の上位打線は、正也の球でも凡退になることは少ない。
そしてその上位を片付けて、ようやくこの回は楽を出来るかと思ったら、まさかの七番に打たれている。
(いや、計算が甘かったな)
ここまで勝ち進んできたチームなのだ。下位打線の打率はあまり良くないと言っても、希望的観測は禁物だった。
決勝まで勝ち進んできたチームのキャプテンを、侮る理由にはならなかった。
もっとも侮ってなくても、打たれたかもしれないが。
配球を読んで、指示を出しているのはあの監督だろうか。
いや、データを使うにしても、具体的な作戦は、大田が出しているのか?
準決勝の大阪光陰戦。
パーフェクトピッチングと言われているあの試合、つまり大田も一球もパスボールなどはなかったということだ。あの多彩な変化球を操る佐藤の球を。
佐藤が首を振った回数も数えたが、ほぼ大田のリードで大阪光陰を封じたのだ。
バッテリーとしての相互理解は、自分と正也よりも上かもしれない。
マウンドに向かった樋口を、正也は怪訝な顔で迎えた。
「なんだよ、確かに下位打線に打たれたけど、別に失投とかじゃないぞ」
「失投じゃないのに打たれたから問題なんだよ」
この試合、正也の奪三振は少ない。
元々その予定でリードはしていたのだが、予想以上に相手は力をつけている。
150km台の投手と、何度も対戦しているチームだ。
それを抑えようというのだから、並大抵のことではいかない。
「ここからは、三振モードの配球に変える」
「おし、望むところ」
正也にとっては、むしろそちらの方が性に合っている。
しかし準々決勝以降を一人で投げ続けて、疲労は蓄積してないのか?
酸素カプセルなど、こちらで出来る対策はしたつもりだが。
八番の戸田。打率では期待出来ない選手である。
しかし出塁率はそれなりに高い。下位打線は選球眼と、カットの技術を身につけている。それと、バントの技術も。
ここは期待値的に送りバントである。
併殺を防ぎ、得点圏でアレクの打席に回す。
ならば春日山バッテリーは、それを防ぐことを考える。
だが、こいつらは分かっているだろうか。
うちのキャプテンは俊足だ。
上杉が一度ランナーを確認し、プレートに足を乗せる。
タイミングが大事だ。ずっと一塁のコーチャーから、見続けていた。
もうすぐ体重が移動する。そう――。
「ゴォッ!」
合図が早い。樋口はそう思った。二塁で――。
「ボーク!」
正也の肩の開きが、一塁の方を向いてしまっていた。
二塁へ向かう手塚が振り向き、サムズアップする。
それに対して一塁コーチャーの新庄も、サムズアップで応えた。
小技を使ってくる。
ここでアウトカウントを取れずに、ランナーを二塁に進められたのは痛い。
送りバントされれば、一死三塁だ。二死三塁ならともかく、犠打でホームイン出来るのはまずい。
球威とコースでバント失敗を狙ったが、確実に送ってきた。
(さすがに訓練してるか)
ここでラストバッターの岩崎。
普段はスタメンから外れているが、打率はそれほど低くはない。地方予選では長打も打っている。
三振の多いロングヒッター。力任せに振ってくる。
(それなら変化球でしとめるか。ストレートは見せ球に使って)
そう思ったのに、高めに外したストレートを打たれた。
高く上がった球だ。しかし、深い。
やや体勢を崩した姿勢で、柿崎が捕球する。
「ゴオッ!」
三塁コーチャー水島の合図で、手塚はタッチアップ。
やられた。
結果論で言うなら、あくまでも高めは避けるべきだった。
手塚がノースライでホームインし、白富東は追加点を奪った。
「ここで追加点は痛いな」
「上杉には可哀想だけど、これはかなり流れが悪いぞ」
プロ野球球団神奈川グローリースターズの独身寮。
食堂のテレビで決勝を見つめるその中心に、上杉勝也がいる。
一番の中村を打ち取って、最小失点でこの回も終えた。
(正也……)
よくここまで、育ってくれた。
子供の頃は自分のすぐ後ろを、とにかく付いてくる弟だった。
(樋口……)
あいつの人生を、狂わせてしまった。
警察のキャリアを目指すと、シニアで野球は終わると言っていた天才キャッチャー。
父のコネを利用して、樋口の望みをかなえた。それと引き換えに、春日山にやってきた。
約束は、既に果たした。去年の決勝で負けたのは、樋口のせいではない。
あいつが入ってくれたおかげで、自分は本物の投手になれた。
(苦しいか、樋口)
春日山の顔は正也だ。
しかし頭は樋口だ。
(苦しさを、楽しんでくれているか?)
樋口は約束を果たした。
しかし今、自分は約束以上のものを期待してしまっている。
(正也、樋口、頑張れ)
無言のまま、上杉勝也は春日山の試合を見守る。
飛ばしすぎではないのか。
この試合に投げられないと分かっている直史は、岩崎を心配している。
(三振が多いのはともかく、球数も増えてるぞ)
四回に三番の上杉に打たれるまで、パーフェクトピッチングであった岩崎。
この五回の裏も三人で終わって、完全に春日山の打線を封じている。
この試合は、どこかで武史とアレクを使うかもしれない。
しかし下手にワンポイントリリーフなどをすると、岩崎の集中力が切れてしまうかもしれない。
春日山はスタメンのほとんどが右打者で、一番の柿崎だけが左だ。
アレクのサウスポーとしてのメリットは、かなり失われる。
二点差は、セイフティリードではない。
慎重で臆病な直史としては、セイフティリードは五点だ。
もっともそれはあくまで直史の基準だ。
「調子良さそうだな」
「まあな。お前の出番はねえぞ」
「楽に優勝させてくれ」
岩崎は思う。直史はいったい、何を考えて己を鍛えているのかと。
岩崎の前には、ずっと追いかける誰かの背中があった。
それはどうしても越えられないものだった。しかし直史は違う。
直史は、ずっと一定のペースで、一人で走っている。
それを追いかける気にはなれなかった。直史は、ピッチャーとしては異質なのだ。
だから自分一人で走っていた。けれども常に、誰かが傍にいた。
すれ違う人たち。
(ここで、優勝する)
ずっと前を走ってきた者たちを追い越して。
最後のマウンドで、勝つ。
『あーっと、白石、空振り三振!』
『珍しいですね。三振どころか、空振りさえも珍しいはずですが』
『そうですね。少なくとも前の試合では、空振り三振はなかったと思いますが』
見逃しでも空振りでも、同じKである。
『春日山の上杉、お兄さんの陰に隠れてはいましたが、彼も超一流のピッチャーです』
『春日山は夏の大会、三年連続決勝進出ですからね。三度目の正直となるか、それとも二度あることは三度あるということになるか』
『新潟県、悲願の初優勝へ、二点の点差が重い壁となって立ちふさがります』
ベンチに戻ってきた大介は首を傾げていた。
「今の三振、最後が一番速いストレートだったか?」
「今日めいちのストレートだったとは思うよ」
「くっそ」
珍しく悔しそうなのは、想定の範囲を超えた球が来たからだろう。
だがあと一打席、大介には打順が回る。
六回の裏も、春日山に快音はなし。
七回の表、上杉はここにきてストレート主体のピッチングに変えて、三者連続三振を取ってきた。
「ありゃ? ゴロにもならなかったのか?」
「変化球主体から、球威で押すリードに変わったんでしょ。あれが本来の上杉正也でしょ」
ベンチに戻る上杉の背中を見て、シーナは興奮する。
ああいうピッチャーと、自分も対戦したかった。
七回の裏、二番から始まってクリーンナップだ。ここで一点でも取れないと、かなり春日山としては厳しくなる。
しかし岩崎は弱気にならない。
先ほどにヒットを打たれた上杉は厳しく攻めすぎて四球を与えたが、四番の樋口も三振に取る。
五番の新庄もセカンドゴロでスリーアウト。
これで、残りの二回を三人ずつで切れば、もうクリーンナップには回らない。
優勝が、全国制覇が見えてきた。
痛かった。
一塁に正也がいたのに、打てなかった。
ホームランとまでは言わず、長打を打てていたら。長打とも言わず、せめてヒットが打てていたら。
本庄の打席で一点が入ったかもしれないし、九回にもう一度打順が回ってくる確率は高かったはずだ。
岩崎秀臣。甘く見ていた。
もちろん佐藤の方が無茶苦茶な性能なのだが、こいつも戦ってきた相手を、競い合ってきた相手を考えれば、充分に化物の仲間のはずなのだ。
去年の春に、練習試合で対戦した。あの時はここまで厄介なピッチャーとは思わなかった。
誰だって成長している。去年の佐藤は、地方予選で敗戦していた。
春のセンバツと比べても、やはり成長している。
プロテクターを着けるのを手伝う正也が言った。
「二人出ないとな」
二人?
「まあ一人は俺が出るとして、柿崎さんあたり……そしたら、お前に回る。逆転サヨナラが狙える」
こいつは、バカと言うか前向きと言うか……。
正直なところ、樋口はほぼ勝算は消えたと考えている。
今日の岩崎から、下位でランナーを出して、最低でもあと二回の攻撃で二点を取らなければいけない。
そしてそれ以上に、九回の表には白石に打席が回る。
だが、それぐらいの覚悟がなければ――。
八回の表、正也も力投。
下位打線はもちろん、一番のアレクまでも凡フライに打ち取る。
しかし裏、春日山にもヒットが出ない。
せめてランナーが出たら、上位に早く回るのに。
(それに……)
白富東は、投手を温存している。
佐藤直史が出てこない。
多少準決勝の疲れが残っていたとしても、一イニングをあの変化球で曲げまくれば……。
負ける。
負けるのか?
三度も決勝にやってきて、まだ足りないのか。
上杉勝也でダメなものは、やはり他の者でもダメなのか。
そして九回の表が始まる。
リードの仕方を変えてから、三者凡退が三連続。しかし正也は本当に、全く手を抜いていない。
こういうところだけは、この兄弟は良く似ている。
だがそれでも、限界は来る。
上杉の抜けたスライダーを、先頭打者のジンはセンター前に弾き返した。
そして迎えるのは、三番の大介。
この試合初めて、ランナーを置いた状態で白石大介に回った。
三度目の守備タイム。
「敬遠で」
「ダメだ」
正也の発言に、本庄が首を振る。
「ここまで三打席勝負して、二度は打ちとってるんです。敬遠しても恥じゃないですよ。つーかこの状況なら敬遠だって、俺は言ってましたよね?」
「うんと答えた憶えはないな」
本庄の言葉に、三年連中は頷く。
この脳筋連中め。
どう言って説得しようか。いくら決勝戦だからといって、あまり長々とタイムを取っているわけにもいかない。
「正也、負けたっていいんだ」
本庄が先に言葉を出す。
「こういう時に、逃げない男になってくれ。きっと勝也さんもそう思ってる」
まああの人はそうかもしれないが、人間には向き不向きがあるわけで。
「分かりました」
こいつも脳筋だった。忘れてたよ。
大きく息を吐いた樋口は、もう呆れるしかない。
「分かりましたよ」
この馬鹿どもに、最後まで付き合ってやろう。
キャッチャーが座る。
「え、勝負してくれんの?」
思わずといった感じで、大介は口にしていた。
樋口は無言のまま、両手を広げて外野を下げる。
上杉の表情がなくなる。
頷いた彼は、ランナーがいるにもかかわらず、ワインドアップ。
――来る。
大介の期待に応える、最高のボールが。
上杉の手から放たれる最高の――。
(カーブ?)
ジンのバットが止まった。
(え? なんでスローカーブにワインドアップ?)
そう思ったが、コールされたのはストライク。
大して変化もしない、ただ間違いなく意表を突いた一球。
しかしこれは、使うなら決め球として残しておくべきだったのでは?
それに明らかに、フォームの力感が違った。
奇襲だ。
奇襲とは攻撃だけでなく、打者に対しても行われるものだ。
だがあくまでも、相手の想定を外していなければ意味がない。
再びワインドアップから投げられるのは、さらに遅いカーブ。
泳ぎかけた大介は、ぴたりとバットを止めた。
一応、これで追い込んだ。
三球勝負だ。考える暇を与えない。
大介も望むところだ。考えていては打てない。
インロー。膝元へのストレート。
アッパースイングだ。ライトスタンドへ運べ。
だがそのストレートは、普段よりもさらにナチュラルにシュートした。
高く上がった打球。
深く守っていたセンターがさらに何歩か後退し、しっかりとキャッチ。
大介が一つの試合で、三打席も凡退するのは、かなり久しぶりのことだった。
(追加点なしか……)
今日の岩崎の調子なら、二点あればなんとか、といったところだろう。
不安定な武史に継投せず、このまま逃げ切る。
それにまだワンナウトだ。
上杉の球威は、明らかに落ちてきている。
変化球で勝負するなら、武史は打てる。
ジンは樋口の構えをずっと見ていた。
だが、冷静なのは春日山バッテリーの方であった。
素早く投げられた牽制球。意識の外にあったジンは反応が遅れた。
タッチアウト。ツーアウトランナーなし。
この後、武史と鬼塚にヒットを打たれた上杉は、六番角谷の打席でようやく、スリーアウトを取ったのだった。
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