第41話 君の人生の主人公

 三点差。

 マウンドに立つ田中の肩は、心理的な意味で軽い。

 今日が最後だ。

 このマウンドに立つのは、今日が最後だ。

 出来ればまっさらなマウンドに立ちたかったが、引き換えに味方が三点を取ってくれた。

 少しでも楽に、最後のマウンドで投げられる。


 そう思っていた田中のところに、ベンチから新庄がやってくる。まだ一球も投げてないのに。

「何? まさか交代?」

 おちゃらけて尋ねる田中に、新庄は真剣な顔をする。

「この試合、想像よりずっときつくなるかもだって、ジンとかナオが言ってる。特にこの一回の裏が重要だってさ」

 なるほど、それは確かに言う必要があるだろう。

 しかしベンチは、自分が全力を出さなくても点を取られないと、栄泉を甘く見ているのだろうか。

 全力を出してなお、点を取られる。それが自分だと田中は知っている。

「まあ、この夏が最後だからな」

 田中は呟く。自分と三田村にとっては、この試合が最後だ。この夏の最後だ。

 ひょっとしたら三田村は、まだブルペンでの活躍はあるかもしれないが。


 このマウンドは、自分だけのものだ。

 右腕が千切れるぐらいに激しく、しかしあくまでも冷静に慎重に、球数を重ねていくことに変わりはない。

「ベンチに伝えてくれよ。最後の夏を迎えた三年の執念を、甘く見るなってさ」

 田中の笑みに、新庄も笑みを返す。

 弱かった時代の白富東。正確な意味でそれを知るのは、もう今の三年だけだ。顧問の高峰は、おそらく分かっていないだろう。

「頼むぜ、エース」

「おうよ」


 田中への伝言を終えた新庄が、ベンチに戻ってきた。

「大丈夫ですよ」

 今ベンチにいる三年は自分だけである。

「田中はちゃんと、三年の夏の意味が分かっています」




 丁寧に、慎重に、繊細に。

 田中の投球というのはそういうものだ。

 ずっとピッチャーをしてきたが、自分の球に自信を持てたことなど、ほんの小さい頃の一時期だけだろう。

 その頃はピッチャーというポジションの意味さえ、はっきりとは分かっていなかった。


 これが最後だ。


 勝つために、全力を尽くすピッチングは、これが最後だ。

 勝敗がそのまま終わりを迎えるというシビアなピッチングは、これが最後だ。

 ピッチャーという役割の辛さ。孤独感。責任感。

 それを感じて投げるのは、これが最後だ。


 これが最後だ。


 三田村も分かっている。だからこそそのリードは慎重で、田中の力をはっきりと確認しながら行っている。

 思えば長い付き合いにも感じるが、実際は二年と四ヶ月。

 いや、やはり長いのだろうか。

 誕生日をまだ迎えていない17歳の田中の、二年と四ヶ月。

 だが実際に本当の意味でバッテリーだと感じたのは、そのうちの一年と四ヶ月だろう。


 白富東の増えた人数の中で、自分がエースとして投げる必要性。そんなことを考えたこともある。

 他の部活の三年生の中には、一年が慣れた頃には引継ぎを終えて、早めに受験対策を行う者もいる。

 自分も三田村も、白富東の投手の中では、大介やシーナを入れてさえ、誰が一番劣っているか分かっている。

 それでも投げ続けたのは――単純に、野球が好きだったからだろう。


 温情起用とも、あるいは消耗を防ぐための起用とも言える、田中と三田村のスタメン。

 しかしそれらの期待に応え、試合を壊すことなく、後続たちに伝えてきた。

 これが最後だから、最高の投球を。

 田中はひたすら丁寧に、球を投げ続ける。


 一番ショートゴロ。

 二番セカンドフライ。

 三番ピッチャーゴロ。

 ベンチの期待通りに、田中は一回の裏を無失点で終えた。




 球数を使いながらも、三者凡退に抑えた田中。

 最後の夏、その中でもおそらく、今後の対戦相手を考えると、これが最後の登板になるのだろう。

 そう考えていたジンは、田中の投球に素直に感嘆した。

 さすがは三年生。さすがはエース。

 右手を上げたジンに、田中はハイタッチで応える。


 思えば三田村を除けば、最も田中の球を受けてきたのがジンである。

 その田中はラストバッターとして、すぐさま打席に向かう。

 どっかとジンの隣に座ったのは三田村だ。

「あのさ、大田」

 田中と同じような意識を、三田村も持っている。

「甲子園まで行けば、そんなにもう変わらないと思うけど、地方予選でうちに黒星をつけるとしたら、三年の執念がつまったチームだと思う」

 それは去年の優勝校勇名館や、一昨年の優勝校トーチバなど。

 最後の夏に甲子園にもう一度行きたい。そう考えるチームは多いだろう。

「正直なところ名門には意地があるだろうから、そこには気をつけろよ」


 三田村がそう言っている間に、田中は三振して帰ってきた。

「粘ろうと思ったんだけど、一球が限界だったわ。球が荒れてきて、逆に打ちづらい」

 田中は息を吐く。新庄の伝言を考えれば、この回に追加点を取るのは、かなり重要なことだ。

 だが相手もさるもの。準々決勝まで上がってきたチームが、そんなに弱いわけはない。

 こちらの都合よく話は進まない。それが野球だ。


 早くもこの裏のピッチングに頭を切り替える田中。しかしその背後には、空気を読まない少年が一人。

 アレクの二打席目、荒れて真ん中に入ってきたストレートをジャストミート。

 高々と上がったフライが、レフトのポールに当たった。




 大きな、とても大きな四点目。

 三点差と四点差は、得点としては一点差でかわりないが、意味としては大きく違う。

 四点差というのは満塁ホームランを打たれても、試合が始まりに戻る点差。

 それに対して三点差の満塁ホームランは、下手をすればサヨナラになるホームランだ。

 まして白富東は先攻。ありえないほどの確率とは言っても、それは0ではない。

 その0ではない可能性を0にしたのが、この一本だった。


 ここで切れてしまってもおかしくはない。

 だが大原は、続く手塚を三振させた後、大介に対しては外角に大きく外して敬遠。

 自らの力を正しく理解し、大介とは勝負しなかった。

 仕方のない選択だ。スタンドからはブーイングも出ているが、大原は観客のために投げているわけではない。


 まだ諦めない。そのための敬遠。

 しかしここで打席に立つのは、今日既にヒットを打っている武史である。

 応援歌が切り替わる。大介の場合はダースベイダーからオープニングに切り替わるのだが、これまでの武史の要望はルパンであった。

 だが今日の曲は違った。

 指揮をするのも、ブラバン部員などではない。


 イリヤがタクトを握っている。

 そんな彼女が演奏させる曲は、二転三転名前を変えた、彼女による作曲。

 タイトルは『夏の嵐』だ。

 全員の応援が可能になる、この舞台で初めて演奏される。


 イリヤの音は、武史と相性がいい。

 ほとんどの人間を威圧するほどのイリヤの音楽は、武史にとってはマイナスの要素をもたらさない。

 純粋に音楽の持つ、士気を鼓舞する意思。それが感じられる。

 打てる。

 本能が、そう言っている。




 白石大介から逃げても、まだこんな打者がいる。

(嫌になるな)

 大原は折れそうになる自分を感じながらも、マウンドから降りようとは思わない。

 この打線を相手に、自分以外が抑えられるとは思わない。ただでさえ小さかった可能性が、0になってしまう。


 まだまだ、ずっとこれからも、こうやって戦っていくのか。

 自分のストレートが通用しない、こいつはまだ一年生だ。

(初球はスプリットから入る)

 まだ見せていない変化球。荒れたストレートだけで封じられないのは、もう充分に分かった。

 勝ちたい。ただ楽しむだけではなく、切実にそう思う。

 今年で終わる上級生を見ると、ひたすら勝ちたいと思う。


 そんな大原の第一球、スプリット。

 武史は反応したが、球筋を見るために見逃す。ストライク。

 これなら打てる。武史は確信する。

 二球目、チェンジアップで大介が走った。沈む変化球。捕球してからは、もう明らかに間に合わない。


 大介の走塁は得点圏にランナーを進めるという以外に、もう一つの意図があった。

 つまり、相手の球種の制限だ。

 チェンジアップを投げ、それが読まれた場合、間違いなく三塁も盗まれる。

 これで使える球種は、二つに絞られる。

(スプリットは見せ球にして、ストレートで三振を取ろう)

(了解)


 キャッチャーのリードに従い、大原が投げるのは、ボールに沈むスプリット。

 変化球打ちの得意な武史は、これを待っていた。

 ボールに沈む球であっても、ワンバンでもしない限りは打てる。

 ワンバンでも打ってしまうイチロー様はともかくとして。


 沈む球を腕ではなく、膝を使ってバットに合わせる。

 掬い上げるような打球は、左中間を割った。

 大介がホームインし、武史もスタンディングダブル。

 白富東の打線は、大原が本気になった程度では、押さえ込めるものではない。




 二回の表に追加点を奪い、満塁ホームランでも追いつけない点差となった。

 それでもまだ、大原の集中力は切れていない。

 後続を絶って二回の裏の攻撃へ。


 ここで一点を取りたい。

 追加点を取られたイニングで、すぐに一点を取る。流れを向こうにやらないための鉄則だ。

 大原はぎりぎりのところで、集中力を切らしていない。

 球速や変化球などのメカニックな部分より、このメンタルの成長が、彼の最も強くなった部分であろう。


 先頭打者の四番に、左中間にジャストミートされた田中。

 無死で二塁。かなりの確率で点が入る場面。

 次の五番の情報も、頭の中には入っている。

 五番はパワーヒッターで、バントの場面がほとんどなかった。

 ゲッツーの可能性も低く、5-0のスコアで、送ってくる可能性は低い。万一送ってきたら、素直にワンナウトもらう。


 低めに集める。

 田中のカーブを、五番はセンター返し。

 頭の上を通過する打球を、悔しそうに見過ごす田中。

 やはり強い。

 単純に低めに集めるだけでも、変化球を駆使しても、絶対的なバッティングの技術の前には勝てない。

 そう思った田中は、鳥のように跳ぶ人間を見た。


 打球はややショート寄りではあった。しかし田中の頭の上の打球。

 跳躍した大介が、そのライナー性の打球を捕っていた。


 マジか、と思うのは敵も味方も同じ。

 素早く二塁に入った角谷に、大介はボールを送る。必死で塁に戻ろうとしたランナーはリタッチ出来ずにアウト。

 無死二塁を、二死ランナーなしにする、大介の超ファインプレイであった。

「ナイピ」

「ナイセカン! ナイショ!」

 凄いと思っていたが、またそれを痛感する。

 うちの守備陣は、完璧だ。自分はそれを信じて、投げればいい。

 力んだ六番打者を珍しく三振に取り、田中は二回の裏を凌いだ。




 試合の流れ、などというものは必要なかった。

 ひたすら不動。それが実力を如実に示す。


 白富東はその後も積極的な走塁と、粘り強いバッティングを混ぜ合わせる。

 初回にあった驕りなど、田中が良い当たりを連続でもらった辺りで消えている。

 連続したヒットで大量点などということはなかったが、着実にチャンスをものにしていっている。

 対する栄泉は攻めきれない。

 先発の田中が良すぎた。ヒットを打たれても、バックがそれをカバーする。

 特にセンターの手塚。

 ホームランを打って気分がいいということも影響しているが、これで田中と三田村が最後だと分かっている。

 後逸する危険を犯してまで、フライに食らいつく。失点しても大量点差がある。だからこそ相手に対して攻撃的な守備を行う。

 一点もやらない。

 田中に勝利をつけてやる。


 回は既に七回。

 鬼塚がセンター奥に持っていったフライで、大介がタッチアップ。

 ついにコールド条件である、七点差となった。


 そして、田中がマウンドに上がる。

 ここまでとっくに球数は100を超えていて、打たれたヒットは九本、出した四球は一。

 しかしながら失点は0だ。

 人生で最高のピッチング。それが、まさか最後の最後に来るとは。

 当初三回までだった予定が、ここまで投げている。それは下手にピッチャーを代えることで、守備のリズムが崩れることをベンチが恐れたからだ。

 だが回は七回。ここで無失点に抑えれば、コールド成立で勝負が決まる。


 勝ちたい。

 最後のマウンドに、自分が立っていたい。


 五回からは既に岩崎が肩を作り始めているが、交代の機会はない。

 ジンはそろそろではとセイバーに話を向けるのだが、手塚とシーナは全力で止めていた。

 少し不思議に思ったジンではあるが、確かに田中の調子は良く、球威も衰えていないため、あえて代える理由はない。

(シーナのやつ、気付いてるのかな)

 田中はあの、男前だが女性の繊細さを持つマネージャーを信頼している。ならばありがたい。

 球速も、コントロールも、変化球も、緩急も、全て田中は二年生以下のピッチャーに及ばない。

 だが体力と下半身だけは、しっかりと作ってきた。

 ここまで投げても崩れないのは、その強靭な土台があるからだ。


(終わりたくないな)

 最後のつもりのマウンドで、田中は立つ。

 ずっと投げていたい。そんなことを思ったのは、いつぶりだろうか。

 この試合にしても最初は、ひたすら自分の責任回を終わらせることを考えていたのに。

「ピッチャー!! 打たせていけよー!」

 センターから手塚が叫ぶ。珍しいことだ。

「バック! 打たせるからなー!」

 三田村までそんなことを言う。ならば自分も乗るしかない。

「打たせていくんで、あとはよろしくー!」

 そして運命の七回裏が始まる。




 わずかに高めに浮いた球を、打者がミートする。

 センター前に落ちそうな球を、手塚がスライディングキャッチ。

 次の打者は上手く打ったものの方向が悪く、セカンドライナー。

 わざとではないのだが、三年の守備位置に打球が飛んでいる。


 これが最後。

 相手も思い出を作るためか、三年の代打が出る。

 ここまで無失点の田中。この流れだとキャッチャーフライだろうか。


 そんなことを考えながらも、田中は集中して低めに集める。

 バッターは球についていけていない。だからと言って甘くストレートなどは投げない。


 最後の球はスライダー。

 この日、三つ目の三振を取って、試合は終了した。

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