第40話 幸運な人
大原和生は中学時代まで、おおよそスポーツに関しては、挫折というものを知らずに生きてきた。
父の仕事の都合で、日本とアメリカ、そしてカナダを転居することが多い子供時代。
彼はその体の大きさから、むしろアメフトやアイスホッケーの選手として、子供の頃から期待されていた。
それがどうして、野球を選んだのか。
父親とキャッチボールが出来たから? それはある。
しかし一番大きな理由は、ピッチャーが出来たからだ。
アメフトでもアイスホッケーでも、ベースボールのピッチャーほど重要なポジションはない。
彼はピッチャーをやるためにベースボールを選び、そして高校は日本で生活を送ると決め、地元のそこそこ名門の学校に入った。
なにぶん実績がなかったので、全国レベルの名門からのスカウトの目には止まらなかったのだ。
そしてそこで、一年の夏からエースになった。
一年生で145kmというのは、日本のレベルでもアメリカのレベルでも、そうそうはいないレベルである。
しかし彼が日本の高校への入学準備を始めたカナダでは、それほどベースボールはメジャーなスポーツとは言えない。
広大な土地の中で、彼が同レベルの選手と競う機会はなかったと言っていい。
挫折、あるいは壁。
そういったものを経験していなかった大原は、不運であった。
無意識の自信ゆえに、大介からホームランを打たれた。それもちょっと想像も出来ないほどの。
その後も引きずってしまい、なかなか復調しなかった。
それがどうにか前向きになれたのは、皮肉と言うべきか自分の自信を木っ端微塵に砕いてくれた相手の影響による。
白石大介。おそらく日本の高校野球史上、最強と言ってもいいスラッガー。
自分が負けたのは、自分が雑魚だったのではなく、相手がラスボスだったせいだ。
それを悟った大原は、地味な努力に精を出しはじめた。
学ぼうとすれば日本の、ベースボールとは異質の野球は、大変に奥深いものであった。
10番を背負って戦った春の大会。それから三ヵ月後の夏の大会を前に、彼はエースナンバーに選ばれた。
自惚れではない、本物のエース。
そして再び立ちふさがるのは、白富東の白石大介。
大原は、勝負すると決めていた。
そしてそれは、チームの方針とも一致していた。
白石大介を封じる。
春のセンバツだけを見ても、それに成功したチームが勝っている。
白石大介からただ逃げるだけで、甲子園を勝ち取れるとは思えない。
栄泉の考えは、ある程度は正しかった。
しかし根本の部分ではやはり間違っていた。
白富東は、大介だけのチームではない。
一回の表、地球の裏からやって来た、公立がどうにかして獲得した外国人。
中村アレックスの才能は、メジャーでの活躍を見越して養成されている。
先頭打者への入り方。
当然ながら、まずはストライクを取っておきたい。大原はコントロールは良くなったとは言っても、四球の数はいまだに多い。
やや甘く入った内角のストレート。
アレクのバットはそれを、ライトフェンス直撃の二塁打に持っていった。
本日二番に入っているのは、キャプテンの手塚。
一番のアレクと並んで、俊足外野手である。
もっともアレクの長打力を活かすなら、彼が一番に入っていた方がいい。アレクはいい球がきたら初球から打ってしまうので、一番としてはやや役割を果たしていないのだ。
手塚が二番を打つのは、もし内野ゴロになってしまっても、ゲッツーを防ぎたいという狙いがある。今回はアレクが二塁にいるので、あまり意味はないが。
とりあえずの役割は、大原に球数を投げさせること。
一番重要なのは、コントロールがちゃんとランナーのいる状態でつくかどうかの確認だ。
アレクの足ならモーションが大きければ、三塁でも盗める。
手塚への初球。
外角に外れたストレート。明らかに盗塁の警戒。
アレクからはサインはない。つまり走らないということ。
わずかに塁から離れて、大原のモーションを観察する。
下手糞なクイック。少し間違えばボークを取られそうな。
手塚への第二球、低目への遅い球が、ベースの手前で沈んだ。
このしょぼいのがチェンジアップか。
確かにモーションの違いはあまりないが、明らかに腕の振りが弱い。チェンジアップの意味を理解していない。
つまりこの球は、決め球としては機能しない。ならば目的は、緩急差。
次は速いストレートが来る。
分かっていても、果たして打てるか。
分かっているなら打てる。それだけの練習を手塚はしてきた。
直史のえげつない緩急差に比べれば、大原のこれは稚拙である。
来る。ストレート。
(甘い!)
振りぬく。高めの球。
ぐんぐんと打球は伸びていく。手塚はダッシュ。
どうだ? と打球を追ったところ、ライトスタンドのぎりぎりに入った。
「……マジか?」
前を見ればアレクがゆっくりとベースを一周している。
ホームラン。練習試合まで合わせても、手塚は一度も打ったことがなかった。
彼は塁に出るのが仕事で、誰かの打撃で帰してもらうのが常だった。
球速。コース。スイング。ミート。
色々な要素が絡まって、打球をスタンドに運んだ。
人生で初の、そして最後かもしれないホームラン。
手塚が無事にホームを踏み、白富東は二点を先取したのだった。
想定外である。
今年の白富東の打線が、去年よりも強化されているのは分かっていた。春にも敗北しているし、あれからわずかの期間であるが、一年が高校のスピードやパワーに慣れるにはぐらいの時間ではある。
しかしまさか、出塁はしても打力は安牌の手塚から、ホームランが出るとは。
去年からずっと集めてきたデータでも、手塚にホームランはない。
マウンドに近寄った捕手は、首を傾げる大原を見る。
「出会いがしらっすよね?」
「そうとしか考えられん。けどこれで、ランナーなしで白石と対決だ。本当はツーアウトで対戦したかったが」
手塚のホームランはまぐれだ。その認識は正しい。
なにせ手塚は練習でも、ホームランを打つ練習などは一度もしていなかったのだ。
序盤、もしも白石にホームランを打たれたとして、ここで三点差。
これで相手のピッチャーが直史だったなら、それは絶望的な点差となる。
しかし今日の先発は、思い出先発とでも言うのか、三年の田中である。
おそらく勝ち進んだ時のためにダブルエースを温存するためなのだろうが、このピッチャーからなら三点は取れる。
「白石を封じて、流れを持ってくるんだ」
「うす」
ボカボカボカと手塚が手荒いベンチの歓迎を受けているが、それとは別に大介は笑っていた。
ここで勝負してくるか?
大介を歩かせたとしても、まだノーアウト。そして続く打者は武史と鬼塚である。
あのキャッチャーからなら、おそらく大介は三塁まで盗める。そうでなくとも、塁にいて面倒なのが大介である。
バッテリーは勝負を選択する。大介だとて、10割打っているわけではないのだ。
しかしこの二人は知らない。
大介の凡退する理由は、ボール球を無理に叩くのと、あえて野手の正面にライナーを打つことを試しているからだ。
スイングスピード任せのスラッガー。大介はそんな単純な打者ではない。
大介への一球目、外に外れるチェンジアップ。
(へぼい……。これ打ってもいいんだけどな……)
直感的に、大介は分かっている。
このチェンジアップを打っても、大原にはさほどのダメージにならない。
四番の役割とは――大介は三番だが、決定的な役割を果たすこと。
ピッチャーの役割が敵に延々と0を強いるなら、相手の0に待ったをかけるのが大介の役目だ。
まあ、手塚のホームランという訳の分からないもののおかげで、大介の選択が増えたのも確かだ。
夏の大会、ここまでの試合で既に、大介は五本のホームランを打っている。
この調子で甲子園を制するなら、おそらく公式戦50本に達するだろう。
化物以外の何者でもない。これで、まだ二年。
大介と勝負するかどうか、ベンチはまた迷っていた。
二点差と三点差。そして相手ピッチャーは田中。
三回戦と四回戦を投げ、失点は一。数字を見ればたいしたものだと思うが、実際には毎回ヒット性の当たりを打たれ、それを守備が失点に繋がることを防いでいた。
三年生の平凡なピッチャーを、どこまで引っ張るのかは分からない。もしも点数を取ったところで、直史か岩崎が出てくれば。それでなくてとも一年のピッチャーが出てくれば。
特に佐藤。この大会、まだ一度も投げていない。
ベンチが判断を決める前に、試合は動く。
迷っている暇はない。だが決められない。
二球目。今度はチェンジアップを、内角のゾーンに。
バッテリーにとってひやひやものであったが、大介はそれを見送った。
打とうと思えば打てた。
しかしそれは打つべき球ではなかった。
チェンジアップは大原にとって、最高の武器を活かすためのものだ。
そして最高の武器は、速球である。
(まあ、ジンならあえてスプリットとか投げさせるかもしんないけどな)
そこでどう裏をかいていくのかが、キャッチャーのリードである。
しかし栄泉のキャッチャーに、そこまでの度胸はないだろう。
ここは最大の武器で勝負に来るしかない。
三球目。大原の全力投球。
ゾーンに入ってくるストレート。
大介はそれを、合わせるだけの軽いスイングで迎え撃った。
ボールの芯からわずかに下をこする打球。
普段とは違い、腰の回転でなく、純粋にスイングのミートだけで運ぶ打球。
ライトスタンドの、手塚とほとんど変わらないところに入った。
二者連続ホームラン。
白富東、初回にて三点先取。
去年はあっさりと折れた一年生。しかし今年は、折れてからも再び立ち上がる。
四番、五番とさらに立て続けに打たれても、そこから立ち直れるかが、ピッチャーの本当の資質だ。
続いて打たれた大原は開き直った。
下手にコントロールを重視して狙い打たれるよりも、球威で押す。
それはプロの世界なら単なる自爆だが、成長途中の高校レベルなら、むしろ正しい。
腕を大きく振って投げる、ぎりぎりゾーンに入るかどうかというストレート。
変化球はどうしたのかと思う後続打線を、完全に封じた。
「速くなったな」
嬉しそうに守備につく大介だが、ベンチスタートの直史は油断していない。
「開き直ったのかな。もう一点ぐらい取っておきたかったな」
「そうだね。あまりにもテンポよく得点が入りすぎて、その後の攻撃が雑になった」
同じくベンチのジンは、状況を正しく認識していた。
大原の球威は増した。しかし制球はいまいちになった。
積極的に打っていくのではなく、相手の自滅を待ったほうが、ここは良かったかもしれない。
微妙なコースでも手を出してしまった。
昔の白富東なら、もっと粘って四球を選んでいただろう。
キャプテン手塚のホームラン。それ自体は、全く悪いことではない。当然だが喜ばしいことだ。
問題は、その後にさらに打ち込まれても、相手が立ち直ったこと。そして立ち直らせてしまったこと。
以前ならバントの構えをしたり、盗塁の姿勢を見せたりと、もっと嫌らしい攻撃をしていたはずだ。
「この裏の守備が大事ね」
シーナの意見に、ベンチメンバーでも流れをつかめる者は頷く。
一点返せれば、守りを固めて少しずつでも返していこうと考えられる。
一点も返せなければ、もう無理なのかと早々に諦める可能性もある。
一回の表の攻撃で三点。
それが全くセーフリードにはならないと、分かる者は分かっている。
「岩崎君が準備をした方がいいのでは?」
セイバーが提案をする。準決勝の先発が直史のため、ここでリリーフするなら岩崎だろう。
だがその展開はまずいなと、直史達には分かる。
岩崎は向こうの大原と同じで、右の本格派だ。
慌てて準備して送り出しても、そもそも岩崎の心の準備が出来ていない。
「ここは、田中さんに任せましょ」
手塚が守備に就いている今、このベンチの中で、田中の決意を知っているのはセイバーとシーナの二人。
そして選手として田中の気持ちが分かるのは、シーナだけである。
今必要とされるのは、堅実さと慎重さ。
そして負けたら終わりということを知っている執念。
田中にはその全てがある。
「でもまあ、伝言はしましょう。新庄さん、お願いします」
三年のベンチ入りメンバーの中で、唯一今日のスタメンではない新庄。
彼もまた、負けたら終わりということを知っている人間だった。
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