第38話 予選開幕

 シードはいい。

 何がいいかと言えば、まず他のシードと当たらない。そして試合数が少なく、対戦するシードを分析する時間がある。

 もっとも大介のように、記録を狙っている打者にとっては、試合数が少ないというのはハンデだろう。

 それでもやはり、高校の打撃記録のほとんどは抜いていくだろうが。

 練習試合を含めた夏前の段階で、既にホームラン数は80近くになっている。

 これでまだ二年生である。


 そしてその、予選開始までの、ごくわずかに残った時間で、直史は新たな境地を切り開いていた。

 シュピン! とスピンのかかった球が低めに決まる。

 キャッチングしたジンはしばらくそのまま、やがて呆れたような声を上げた。

「スルー、フェザーに続いて、これはなんて名前にするんだ?」

「そりゃあ性質的に、スルーチェンジでいいんじゃないか?」

 ごく普通に直史はそう言った。


 魔球。それは確かにひどく打ちにくい変化球だ。

 しかし万能の武器でないことは、既に去年の夏に分かっていた。

 そして国立監督が示したように、バント以外でも打てはするのだ。


 隣で武史の球を受けていた倉田も呆れていた。

 かつて敬愛する先輩であるジンは、直史のことをこう言った。

 球速以外の全てを持っている投手だと。

 倉田に言わせれば少し違う。

 彼自身にしか持っていないものまで、いくつか持っている投手である。


「で、この球の弱点とか欠点、すぐに分かるか?」

「……使うべき場面が限られていることかな?」

「おおよそ正解だな。スルーを使う俺以外の投手が投げても、ただのチェンジアップの一つでしかない」

 いや、チェンジアップの種類が一つ増えるだけでも、立派なものだと倉田は思った。

「すると、多投も出来ないってことか」

「そういうことだな」




 スルーを打たれた三里との練習試合以来、直史は考えていた。

 確かにピッチングはコンビネーションだ。その中でスルーはやはり、まだ効果的な決め球として使える。

 だが野球センス抜群とでは言わない星が、スルーを打った。

 そして来ると分かっているなら、大介はもう、確実にスルーを打てる。


 来ると分かっている感覚を惑わせる。

 そのために直史が開発したのが、逆スルーとても言うべきスルーチェンジである。

 球の特徴としてはただ一つ。

 スルーと全く同じ球筋を通り、全く同じ初速でありながら、急激に減速して手前で落ちる。


 振らなければボールになる可能性はスルーよりも高い。

 だが同じピッチトンネルを通る以上、見極めは不可能。

 せめてフォークのように無回転に近いなら、まだしも判別は出来ただろうが、これにはそんな弱点はない。

「でも結局、普通に緩急取るなら、チェンジアップの方がいいわけか」

「そういうことだな」


 国立の指示で、無理やりタイミングをリセットする以外に、もう一つスルーを打つ手段がある。

 もっともそれだと、大介でさえスルーをヒットにするのが精一杯なのだ。

 その一つとは、ぎりぎりまで球を懐に呼び込み、極限のスイングスピードでそれを叩くことである。

 ようするに加速しているように見えるスルーなのだから、それ以上のスイングスピードで叩けばいいのだ。

 大介の動体視力と反射神経なら、かろうじてそれが可能だ。


 だがこの球があれば、おそらく大介でも打てない。

 錯覚ではなく、緩急差を活かす球。これも理屈の上では打てないはずだ。

 しかしこれを頼りすぎるのもよくない。去年の夏、ジンとの意思交換にまで考えが及んでいれば、甲子園に行っていたのは自分たちのはずだった。

 油断しない。驕らない。しかし必要以上に力もかけない。

 最後が一番難しいが、それでもやっていく。

 自分が納得出来るように、自分に嘘をつかず、全力を尽くす。

 その先に何があるのかは分からないが、そんなものはどうでもいい。

 直史はもう、自分としか戦っていない。




「で、あともう一つあるんだが」

「……え~……」

 新魔球は一つずつというのは、フィクションにおけるお約束というか不文律であろう。

「これはまあ、かなり特殊なんで、スルーチェンジ以上に使える部分は限られるんだけどな」

 そう言いながら直史はマウンドをならす。

 この球は、他の球と違って明らかにフォームが変わる。

 基本的にアンダースローからしか投げないフェザーカーブと同じで、本当なら奇襲にしか使えない。

 だが球自体に、威力がある。直史の他の変化球とは違う性質だ。

 そしてこれはむしろ、武史が身につけてこそ役に立つのではないかとも思う。


 セットのポジションから、軽く足を上げる。

 直史のフォームは小さい。だが無駄を排しただけで、その威力は全身を連動して発揮される。

 テイクバックで右肩が下がり、そしてそれ以上に右膝が下がった。

(なんだ?)

 ジンは戸惑う。

 ここまで右膝を下げてしまうのは、かなりの負担がかかる。

 そして体重移動などもスムーズにはいかず、あまり威力のある球は投げられないと思うのだ。


 だがここから直史はその柔軟性を活かして、左足を踏み込む。

 その踏み込んだ左足の膝も、ぐんと沈み込んだ。


 低い位置から、スリークォーターで投げる球。

 それは直史としては珍しい、バックスピンを綺麗にかけた球。

 リリースポイントが見えない。

 右腕が、なかなか前に出てこない。これは、この時点でチェンジアップだ。

 指先が見える。その指先は普段よりもずっと前で、激しいスピンをかけていた。


 ジンのミットの上を通り、キャッチャーマスクに激突する。

 完全にボールがホップして見えた。


 起き上がったジンは混乱した。

「ライズか?」

 そんなはずはない。スリークォーターではどれだけスピンをかけても、球が浮くはずはない。

 よく球がホップするというのは、マンガやアニメではよく使われる表現で、現実でも素晴らしいバックスピンのかかったストレートを、球が浮くと表現することはある。

 だが現実では無理だ。硬球が重過ぎるのと、スピードの絶対値が足りない。

 それでも、浮くように見えたのは確かだ。

「ボールが浮くわけないだろ」

 そう、そんなことはどれだけバックスピンをかけても出来ない。

「俺の球は、想像以上に落ちないんだ。だからライズじゃなくて、フラットってとこかな」


 あっさりと。

 こんなにもあっさりと、新しい球種を使うようになってしまう。

「まあ甲子園の決勝とかで、あと一球のストライクがほしい時に投げる球ってとこだ」

 その、たった一球のために、どれだけの練習をしているのか。

 このたった一球の価値こそ、セイバーが求める突破力なのだろうに。

「甲子園が決まったら、少しだけ投げるからな」

 この、浮き上がって見える球を、捕らないといけない。

 それはとても困難で、つまり挑戦し甲斐のあることであった。




 大介には迷いがある。

 ボール球でも打てるなら打つのか、それとも見逃すのか。

 くさいところはもちろん打っていく。だが自分があまりにぎりぎりを打っていくと、審判のストライクゾーンが広がってしまうのではないか。

 あえて凡退する。流れを向こうに渡さないような。

 そんな器用な凡退の仕方を、大介は考えている。


 どうでもいいところで打ちすぎた。それが大介の反省である。

 練習試合ではともかく春の公式戦では、明らかに大介の打数は減ってしまった。

 出塁率は異常なものとなり、長打率も高い。しかし肝心なところで敬遠されては意味がない。


 三番に入っているのは正解だった。

 少なくとも四番と五番には、強打者を置いておける。それだけ大介も敬遠されにくい。

 三番打者最強論は、白富東においては正しい選択だ。

(もうセンバツの時みたいな、姑息な手は通じねえ)

 野球は一人でやるものではない。打線はつながっていく。

 大介には、頼りになる仲間がいる。

 後輩たちがまさかこんなに集まるとは、思っていなかった。


 白富東のこのチームは、奇跡のような偶然が集まって出来ている。

 その中で自分は、打撃の柱として存在しなければいけない。


 野球は点の取り合いの競技だ。どれだけ直史が怪物のようなピッチングをしようと、点が取れなければ負けてしまう。

 去年の夏の上杉のように。

 たとえ一点も取られなくても、負けてしまう。

 最後の夏、上杉は公式戦で一点も取られなかった。

 それでも負けた。そんな投手に、直史や岩崎をさせるわけにはいかない。


 だから、本当に大切なところで、自分の一打で確実に一点を取る。

 全ては勝利のために。

 大介は一点を狙う。




 大会一日目、強豪がほとんどシードに入っていたこともあり、意外な結果は出ていない。

 大会二日目もこの傾向に変わりはない。そして大会三日目。

 いよいよシード校が登場する。


 前日、試合前ということもあり、ほとんど投手も打者も野手も、調整程度の練習で済ませていた。

 現在野球部員は体調管理を完全にするため、宿泊所に強制連行されている。

 だからここで練習が終わっても、どうせ付き合わせる顔は変わらない。

 もっとも練習補助員や記録者は、自宅に帰宅する。


 グランド整備を終え、部員もマネージャーもそれ以外も、全ての人間が整列する。

 明日は土曜日なので応援団やブラバンの応援もある。学校以外にもOBなどが集まって、応援はかなり迫力があるものとなりそうだ。


 手塚はセイバーやコーチ陣と並んで、そんな皆の前に立った。

「まずは、ありがとう」

 そんな言葉が、自然と口から洩れた。

「この野球部に入ったとき、俺は甲子園に行きたいとは思ってなかった。そもそも行けると思ってなかったからな」

 何も飾らず、そのままの自分でいよう。

 センターを守る手塚は、無理なプレイだけはしないように考えている。

「それがまさか甲子園の最有力候補で、それどころか全国制覇も狙えるチームだなんて……まあ地味に守備練とか、北村さんとかが、ちゃんとやってくれた土台の上に、俺たちの守備があると思う」

 北村は今、大学の野球部でレギュラー争いをしているという。

 テスト前なので全部を応援には来れないだろうが、準々決勝以降は来ると文歌から伝えられている。

 甲子園にまで行けば、学校の応援に便乗して、全部来るそうだ。


 白富東というチームは、北村のおかげで出来たと言ってもいい。

 ジンがいなくても大介と直史は入ってきたが、ただそれだけでは多彩な変化球投手と、やたらめったら打つスラッガーが舞台に立つだけだったろう。

 北村がいたからジンがいて、ジンがいたから環境が作られた。

 スポーツ科もなく、普通よりもかなり高い偏差値の進学校に、これだけのタレントが集まったのは、奇跡以外の何者でもない。


「俺たちは、普通にやろう」

 手塚の言葉には、気負いはない。

「普通にやって、普通に勝とう。普通に勝って、普通に優勝しよう」

 そうやって、大舞台に行こう。そこまでは手塚は言わなかった。

「一年はのびのびとやってくれ。別にさわやか球児を演じる必要はない。ただ自分のことだけを考えていればいい」

 それで普通にやってくれれば、ちゃんと普段通りの力を出せれば、それで勝てる。

「二年生は、まあのびのびってのは無理だろうけど、来年につながるように意識を持って欲しい。俺ら三年は、まあ……楽しんで行きましょう。シリアスな感じの楽しみでね」


 とことん気が抜ける。

 手塚はあまりキャプテンらしいキャプテンではない。

 それでも本当に必要なことを分かっているキャプテンだ。

「後悔には二種類の後悔がある。やらなかった後悔と、やってしまった後悔だ」

 以前にも似たようなことを言ったが、あえてここでちゃんと明言する。

「やらなかった後悔はもうどうしようもない。そして何も生まない。しいて言えば、次こそはやってみると思うことだけど、一度逃げてしまったら、挑戦することは難しくなる」

 だから自分はキャプテンを引き受け、ここまでチームを率いてきた。

「やっちまった後悔は、まあセイバーさんも言ってたけど、10年後には笑い話になってるよ。そしてそこから、教訓を引き出せばいい」


 キャプテンの挨拶としてはこれぐらいだろう。

 あとは何か、掛け声でもするべきか。

「ほんじゃ俺が、全国制覇するぞ、って言うから、それに応って応えてね」

 さほど背も高くない、肉付きもよくない、文科系に見えるキャプテンは、それでも声を張り上げた。

「全国制覇! するぞ!」

「応っ!」

 己を鼓舞して、選手たちは球場を目指す。





   第五章 完

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