第36話 応援するものたち
白富東は伝統のある学校であるため、OBも多ければその親類縁者も多い。
そういった人たちの見物の数は、春の大会以降増え続けている。
そしてそれに混じって、他校の偵察も来ているのだ。
練習試合などは特に戦力の分析に有効だろうが、今年の白富東に死角を見つけられず、すごすごと帰っていく姿も多い。
確かに今年の白富東は、投手力と打撃力が、えげつなく凄いのは確かだ。OPSで2.0を超えてる打者など、投手にとっての悪夢でしかない。
またそれとは全く逆に、他校の練習や練習試合を偵察に行く者もいる。
通称研究班。そのリーダーは副キャプテンの一人である水島だ。
今日もまた彼は、他校の入手したデータを分類している。
なおメモの端に描かれた球詠系のイラストは、彼の手によるものである。
(今年のコミケは不参加か……)
かつて三年生は七月で予選敗退、新チーム始動というのが、白富東の過去の歴史であった。
去年も県予選の決勝まで残ったが、そこまでだ。七月の最終週で、全ての試合が終わった。
その後に水島はコミケに参加した。
大学生になれば、都内に住んでバイトをしつつ、コミケに参加出来る。
今度は買う側ではなく、売る側として。
そして秋葉原や池袋界隈を散策するのだ。
一年前までは漠然としたものであったが、今の水島には、何かを描きたいという衝動が満ちている。
(俺はマンガ家になる!)
それが水島の胸に秘めた、誰にも言わない決意だ。
(ぶっちゃけナオと大介の話をそのまま描けば、マンガになる!)
彼の視点は完全に正しい。
(そして主人公は俺! スコアラーの視点から見る野球マンガ! これ絶対誰もやってない!)
打算も充分にあるものであった。
彼一人の部室に、入室してきたのが二人。
田中と三田村。本当なら今年の夏、白富東の中心となるはずであったろうバッテリーだ。
「おっす。どうよ進捗は?」
「千葉と東京のデータはかなり集まったな。他の都道府県の試合も、テレビ中継される映像は全部セイバーさんが用意してくれるみたいだ」
「そっか。でもあの人いなくなったら、これどうすんだろうな」
「今の一年を鍛えて、今年の甲子園で他の学校と交流させようと思ってる。千葉大会の映像と引き換えに、向こうの映像ももらうってわけだ。まあそこまでしなくても、普通に今ならネットで手に入るけどな。それでも精度の高い情報は、素人には無理だ」
インターネットのライブ配信が可能になった現在、テレビでさえ放映されてない映像でも、ある程度は手に入れることは出来る。
しかしそれにはネット内でのコネクションが必要であり、水島は本来オタ系統のコネから、どうにか野球関連のコネへとつなげたところだ。
かつては強豪校の偵察班にしか不可能だったことが、今では公立校でも可能になっている。
もっともそれには水島のように、裏方に徹するだけの覚悟と知見を持つ人間が必要だが。
「水島、甲子園に行ったら、俺らも偵察班に入るしな」
三田村の言葉に、水島は手を止めた。
「ピッチャーは大介を除いても五人いるし、キャッチャーはナオを含めたら三人。あとタケも出来なくはないから、俺らの役割は予選までだわ」
「……セイバーさんが言ったのか?」
「いや、これから言うところ。手塚とは話して決めたけどさ」
水島には言葉もない。
田中と三田村は、野球ガチ勢だ。それもバッテリーだ。
白富東の戦力としては必要なくても、精神的には必要なものではないのか。
「その代わり、予選はガチガチに投げるぜ。ナオとガンの負担は減らせるだけ減らしたいからな」
「まあ、マジで勝つための野球は、この夏が最後だろうしな」
二人は分かっている。この先の人生に、ここまで野球に夢中になることはないと。
だからこそ、肩を潰そうが肘が壊れようが、それともタックルで負傷しようが、試合に出る。
ただ、後悔だけはしないために。
「それでさ水島、お前甲子園ではベンチに入れよ」
その言葉こそ、水島にとっては意外だった。
水島は本当に、野球は見て楽しむ派だ。普段の練習もあまりせず、それこそマネージャーの手伝いをする方が多い。
「情報分析班の班長はお前だろ。偵察で見てきたことをセイバーさんに渡しても、手塚とかジンでは判断出来ないことがあると思うんだ」
それはそうかもしれない。
だがそのために、また一人ベンチから外れる人間が出る。
「そこはさすがに、新庄は入れといてもらいたいけどな」
ガチ勢五人の中で、田中と三田村を除けば、一番実力が劣るのは新庄だ。
だがそれでも練習試合では、それなりに成績を残している。
勝ちの決まった試合なら、どこかで出してもらえる可能性は高い。
しかし、本当にそれでいいのか。
「まあ来年は、本当にベンチ争い厳しいだろうな」
「鷺北出身と大介とナオはともかく、一般の二年はな」
その意味では、七人しかいない三年生は、とても運が良かったのだ。
センバツとはいえ、甲子園のベンチに入れたのだから。
「でも結局は、俺たちが決めることじゃないけどな」
田中が肩を竦めて、三田村が苦笑いする。
これらは監督の決めることだ。
しかし水島は覚悟を決める。グランドに立たないベンチメンバーとして、最後の夏を送ることを。
自分で考え、自分で決めた。
音楽室ではブラバンの演奏が一通り終わり、指揮者をしていたイリヤが頭から煙を出していた。
「なんとか……形になった……」
「イリヤ、しっかりして!」
「あたしたちを置いて死なないで!」
小芝居をする双子に、突っ込む気力はイリヤにはない。
六月の頭に完成した応援楽曲、どうにかテスト前期間に入る前に、ブラバンで流せる程度にはなった。
クラシック出身のくせに、イリヤには木管楽器への理解が浅く、それが完成度を高めるのに障害となっていた。
だが彼女がやろうと決めれば、それはなされるのだ。
椿がぐーすかと眠るイリヤを保健室に運び、そして桜が落ちた指揮棒を拾い上げる。
「じゃあもう一回通してみようか。あたしはリズム間違えないだけだけどね」
吹奏楽部の全員の顔が絶望に染まった。
イリヤが作った白富東野球部応援曲。
名称はそのまま、野球部応援楽曲となっている。
イリヤはその勝手なままに曲を作らせると、やたらとテンポが早く、メロディラインの和音が多く、演奏者を疲労させる曲になってしまう。
どうにかその手綱を握ったのは、佐藤家の双子である。
彼女たちは何度かイリヤに従って、スタジオで音源を収録しているが、自分たちでさえこれだけ疲れるのだから、普通の人間ではイリヤの要求に応えられないことは分かっていた。
おかげで恐怖の双子の評判は、ブラバンを中心に良くなっている。
まあ悪かったのが普通に近付いているというレベルだが。
「そんじゃ気分転換に、歌ってみるね。『夢をあきらめないで』」
桜がピアノを弾きながら歌っていく。
それが終わる頃には、ブラバンメンバーは完全に復活していた。
「うおおっ! 諦めないぞ!」
「よっしゃ一回と言わず何回でも弾いてやらあ!」
ちょろい。
なお、この特訓が効いたのか、白富東吹奏楽部はこの年から長く、県のコンクールでは上位に名を連ねる常連となるのは別の話。
合唱部に加えチアをやってくれるダンス部のメンバーまで、双子は様々な部活で大車輪の活躍を見せるのであった。
テスト前でもない図書館は割りと閑散としている。
その奥で向き合って座る、少年と少女。
二人とも本を読んでいるわけではなく、特に少年は数字がびっしりと書かれたファイルを手にしていた。
「佐藤君、ここなんですけど、ベンチで何か指示はあったんですか?」
「え~と……ああこれ、向こうのチームが面白くて」
本日は休養日。直史と瑞希は、二人で図書館にいる。
古い洋風レンガ造りのこの図書館は、林に遮られて直射日光が入ることも少なく、本が焼けないように配慮されている。
貸し出し処理をする図書委員はいるが、それは入り口付近で、ここまで気配が届くこともない。
瑞希の作る野球部の記録は、厳密な数字と現場にいた人間、そしてその周囲の人間からの聞き取りで作られる。
まだまだ製本するのはだいぶ先のことだろうが、今年の夏が終わったら、まず一年分として電子書籍化はする予定だ。
そのために多くの写真を撮っており、そこは光画部(写真部のことだぞ)にも協力を仰いでいる。
なおその写真の選別は瑞希が行っているため、こっそりと誰かさんの画像を集めまくっているのは秘密だ。
ちなみに本校出身の本物のプロのカメラマンもいて、実費のみで協力してくれる場合もある。
その代わり彼の知り合いのスポーツ記者に、特別でインタビューを許可する約束になっていたりする。
「あと、こことここも、そうだったのかなって」
「え~とね」
立ち上がった直史は、机を回って瑞希の隣の席に座った。
近い。
「さ、最近暑くなってきたけど、野球部は大丈夫なんですか?」
「あ、ああ、まあ去年の夏は敗退したから、甲子園の後じっくり練習したしね」
急に話題が変わったが、その不自然さを感じない二人ではない。
「まあでも、一年はどうかな? 意外とアレクが季節の変わり目がきつそうでさ。あいつ南半球出身だし。日本の夏は暑いし」
「ブラジルはこれから寒くなるんですよね。雪とか降るんでしたっけ?」
「なんかブラジルって、リオのカーニバルとかのせいか、ずっと暑いイメージがあるな」
そういえば、と直史はアレクからもらった写真をスマホで出す。
「アレクから見せてもらったんだけど、イグアスの滝ってのがすごくって」
「どんなのですか?」
直史のスマホの画面に、雄大な滝の連なりが現れる。
正直最初に見たとき、直史はこれがCGか何かだと思ったものだ。
そして気付く。
近い。さらに近い。
肩が触れる数ミリ前で、顔の距離だって角度が良ければそのまま――。
こちらを向いた瑞希が目を閉じた。
保健室のベッドの上に横たわる瑞希を、直史は団扇で扇ぐ。
書き物をしていた養護教師は、氷嚢を直史に渡した後は、瑞希のブラウスを持って洗面所に行った。
まさか興奮して鼻血を出すとは思わなかった。
おかげでわずかに触れた感触が、どこかにいってしまっている。
「すみません、昔から興奮すると出ちゃう体質で……」
そういえば去年も鼻血を出していた。
「でも、そんなんじゃ試合とか見てると鼻血出たりしない?」
「いえ、そういう方面ではなく、主に異性方面で……」
そう言った瑞希は、恥ずかしそうに手で顔を覆った。
なんだろう、この可愛い生き物は。
団扇を置いた直史は、そっと瑞希の手を取る。
わずかに力を込めると、真っ赤になった瑞希の顔が現れた。
少し涙ぐんだその顔に向かい合うと、またゆっくりと目を閉じる。
今度はゆっくりと、三を数えるほどの間、唇を味わった。
柔らかい以外、何もないキスだった。
ふう、と息を吐いて直史はまた椅子に座る。そして団扇でまた扇ぎだす。
「私、初めてでした」
「俺も」
嘘は言っていない。そしてまた、本当のことを直史は言った。
「好きだよ」
「私も、大好き、です」
「あ~、幸せだ~」
直史がいつになくのんびりした声を出したので、瑞希も笑ってしまった。
「もうすぐ抽選ですね」
「今週末だからな」
「来月の10日からは試合開始」
「うちはシードだけどね」
七回勝てば甲子園だ。Aシードのチームはやや注意が必要だが、様々な要素から考えて、白富東が優勝する確率は極めて高い。
もしその戦力差を覆すとしたら、準決勝で当たるはずの勇名館あたりが有力であろう。
「優勝したら甲子園」
「まあ順調なら、ベスト4は堅いかな」
正直なところ、全国制覇は狙っている。
総合的な戦力ではともかく、スタメンを見た場合、白富東の上位打者はかなりの実力だ。
そして投手力が何より強い。
「甲子園が終わったら?」
「秋季大会だけど、甲子園出場校はブロック予選免除だしな」
他にも甲子園で勝ち進めば、国体出場などもある。
秋季大会はセンバツの出場枠に入るのが目的だが、神宮大会を考えれば、ここも優勝しておきたい。
要するに全部勝ちたいのだ。
「でも甲子園が終わったら、一日ぐらいは休むし、どこか遊びに行こうか」
「海、行きたいなあ」
「……海、いいな」
高校二年生の夏、海、甲子園。
一度しかない季節がやって来る。
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