第33話 次の対決では

 スコアとしては6-5という、それなりの接戦。

 だが実際に両チームが得たものは、そんな数字以上のものであった。


 整列し、グランド整備を終えた両校の選手は、着替えを終えて部室に集まる。

 やはり狭い。来年も今年並に新入部員が入るなら、この大きさでは足りない。

 休憩時に食事をするなり、ミーティングをするなり、やはり大きい建物にしておこうと思うセイバーであった。


 だが、それは夏が終わってからの話だ。

 今一番、白富東の、いや三里の選手も含めて、さらにはコーチ陣までも含めて、関心はただ一つ。

 スルーはなぜ打たれたのか。

 打たれた直史の機嫌が、打った星のそれよりも、よほど良さそうなのが不思議である。


「それじゃあ追加のプロテイン入り野菜ジュースです。三里の皆さんもどうぞ」

 マネージャーから飲み物が渡り、手塚が乾杯して、そのコップを干す。

 そして開口一番問い合わせたのはジンであった。

「どうやったらスルーを打てるんですか!?」

 単純に、慣れたら打てる。それは大介が証明している。ものすごくたくさんの空振りと凡打の後に。

 しかし一試合中に打たれたというのは、初めてだ。全国の強豪校でさえ、あれは打てなかったのだ。

 セイバーがアメリカから連れて来た打撃コーチでさえ、スルーの効果的な攻略法は思いつかなかった。


 視線の集中に晒された国立は、少し照れたような顔で説明を始めた。

「せっかくだからホワイトボードで説明しようか」

 国立の描いたのは、まずスルーの軌道であった。

「この球の打てない理由としては二つ、一つは減速が少なくむしろ加速しているように錯覚すること、そしてもう一つが、それにかかわらず沈む変化であること」

 そう、それは分かっている。

「だけど沈む変化というのは、あまり大切な部分じゃない。だから問題は、タイミングなんだ」


 コンコンとホワイトボードを叩いた国立は、次に真っ直ぐの線を描く。

「単に減速が少なくて伸びがあるという球なら、いいストレートがその条件になるね。もっともあれはスピンが効いて落ちない球になるけど。たとえばメジャーで活躍した上原のストレートは、晩年は150kmは全く出ていなかったが、それでも打たれなかったのは球種の配球と、ストレートの質が理由だとも言われている」

 ぐるぐるとストレートのつもりの球に、バックスピンの回転を描く。

「軌道が落ちないストレートか、球速の落ちないストレート。この二つはストレートのつもりで振ると空振りする。実際にはこのストレートを投げる人は、ストレートという変化球を投げる人だと考えた方がいい」


 ストレートという名の変化球。

 それは……確かにストレートでも個人差があることを考えると、面白い心構えなのかもしれない。

「そういった個人差を考えないで、とにかくピッチングマシンで速い球にばかり慣れていると、そのタイミングでしか打てなくなるからね」

 ああ、と白富東の選手は納得する。


 大介は、エクスカリバーをめったに使わない。

 導入された時、最初はむしろ一番使っていた。だが最近はスピードに目を慣らすためにバッターボックスに立つことはあるが、バットを振りもしない。

 たとえ遅くても、ピッチャーの球を打ちたがる。それも無理な時は、トスバッティングが多い。

 そして素振りをする時は、基本的に目を瞑っている。

 大介の素振り中は、コーンを置いて周囲を立ち入り禁止にしているのだ。


 そんな練習法を、ある程度コーチのアドバイスを聞きはしたが、大介は自分で考えた。

 守備や走塁も一流ではあるが、彼の打撃にかける情熱は、まさに鬼気迫るものがある。




 スルーを打つことの難しさを、ストレートに例えて国立は説明した。

 だがそれは、スルーの性質について説明しただけで、どうして打てたのかの理由にはならない。

「スルーという変化球の持つ最大の強みは、脳の錯覚にある」

 落ちる球、変化する球は、ストレートよりも遅い。

 当たり前だ。それに実際、全力のストレートと全力のスルーでは、初速にはそれなりの違いがある。

「その脳の錯覚を強制的にリセットする方法の一つが、バックステップだったんだ。体を後ろに移動することで、強制的にタイミングをリセットする。するとスルーが、普通の縦スラとかと同じように感じる、というわけだね」

 理には適っている、のかもしれない。

 もっとも実際に出来るかどうかは別の話だ。


 国立は変わらない笑顔のまま、話を続ける。

「まあでもこれは、実戦では通じないけどね」

 思わずこける生徒達。いや、コーチ陣までこけている。

「何故ですか?」

 セイバーが意味が分からず問うと、国立はそれもしっかりと説明する。

「だってこれは、スルーが来ると分かっていないと使えないですし、体重移動がないので打ってもまともな打球になりません。私は最初、決め球だけはスルーが来るだろうから、それに合わせて使うように言ったんですよ」

 前に動く体重移動がなければ、確かに打球にはまともに力が伝わらない。

 それにバックステップに気を取られて、まともにスイングが出来るとは思えない。

 スルーが変化球の原則に反しているように、この打ち方もバッティングの原則に反している。

 スルーを打つためだけにこの打ち方をするなら、他の全ての球がまともに打てなくなるだろう。


 では、まともにスルーを打つ方法はないのだろうか。

「だから今日打たれたことは、あまり気にしなくていいよ。あのピッチャー返しは方向が良かったけど、普通なら内野ゴロだし」

 そう、確かに星の打球はそうだった。

「なら、国立先生なら」

 ジンは水を向けてみる。

「大学三年、ベストナインに選ばれた時の国立先生なら、打てますか?」


「え? ベストナインって」

「どの規模よ?」

「大学野球は知らないからな~」


 どうやら国立の略歴は、正確には生徒に伝わってなかったらしい。

「教えてないんですか? 大学四年の時、膝の故障さえなければ、ドラフトに選ばれていただろうこととか」

 大学野球の試合までは、あまりジンも見ない。だがベストナインレベルの名前ぐらいは、記憶に残っている。

「まあその故障が、私がプロを諦めた理由でもあるんだけど、ヒット性の当たりを打つだけなら、今でも三打席あればあどうにかなると思うよ」

 直史のスルーは、ドラフト上位間違いなしと言われた高校生ですら、まともには打っていない。

 センバツで対戦した大阪光陰の、四番打者の初柴、ヒットメーカーの小寺、打点製造機堀などといった選手も、他の球種を打つしかなかった。


 だが、おそらくジンの見立てでは、国立の打撃技術は、プロでもかなりの上位に入ると思う。

 高校時代の映像しか知らないが、そこから大学のクリーンナップをつかむなら、そのぐらいのことはしているだろう。

「だけど、ピッチングはコンビネーションだ」

 国立はボードに様々な変化球の種類を書いていく。

「変化球は主に、ムービング系とブレーキング系に分かれる。ストレートの速度を生かしたムービング系と、緩急を生かすためのブレーキング系だね。スルーは減速が少ないからムービング形だけど、緩急でよく使われる沈む球だ。それもまた打たれにくい理由の一つ」

 解説されていくと、確かに頷けるものがある。

「ムービング系だと思って対処すれば、かなり技術のある選手なら、高校レベルでも打てると思うよ。ただし単なるパワーヒッターには打てない」

 安心するジンである。


 ピッチングはコンビネーション。

 スルーは、来ると分かっていたら、ある程度対処出来る。

 しかしそれでも、ヒットにするには難しい。それなら元々、バントなら前に飛ぶと分かっているのとあまり変わらない。

「私がむしろ感心したのは、アップと柔軟にかける意識が、ものすごく高いことだね」

 国立は話題を変えた。

「大田君は知っているみたいだけど、私は大学で、膝を壊してショートを諦めざるをえなかった。まあそれでも誘ってくれる球団はいたんだけど、怪我をしたことで、自分がやりたいこともはっきりしたんだ」

 高校時代の国立はショートだった。大介と同じポジションだ。

 ショートは内野の中でも最も小刻みに動くことが多いポジションかもしれない。体の捻りを考えると、確かに膝や足首には負担がかかりそうだ。

「大学時代、無理をしてでも試合に出てる人はいた。高校時代だって、レギュラーを狙っている人は、多少の怪我も無理して出ていた」

 自分の経験談だけに、その言葉は重い。

「野球が出来なくなるだけじゃなく、その後の生活にも支障を来たすことがあるからね。だからチームの勝利と自分の故障を天秤で測るなら、故障しないことを第一に考えて欲しい。来年からは私が監督になるけど、三里の選手は故障もちは絶対に試合には出さないから」


 来年、この人が監督になるのか。

 星と西、そして今日の先発をした東橋といい、なんだかものすごく強くなっている気がする。

「特にプロを目指している人は、甲子園を捨ててでも怪我は治すべきだし、プロに入っても状態が悪ければ、監督の命令を無視して休む覚悟をしてほしい。監督なんて基本は、チームを勝たせることが仕事なんだ。選手の成長や引退後のことなんて、考えない人が多いからね」

 監督になろうという人が、監督批判をする。

 しかしその理屈は納得出来る。

「私の言いたいことは以上です」


 そして細かい部分のミーティングが始まった。




 白富東だけのミーティングは、三里のメンバーを見送った後に行われた。

「スルーって打たれるんだな……」

 誰かがそう言った。それだけの幻想が、魔球にはあった。


 最初に砕かれた幻想は、大介は必ずホームランを打ってくれるというものだった。

 当たり前である。メジャーの世界記録を見ても、一本も打ってない試合の方が多い。

 二試合に一本打てば、普通にホームラン王になれる。まして高校生が甲子園でどれだけの打席をもらい、それがホームランになってきたか。

 大介はひょっとしたら、野球の歴史に名を残す打者かもしれない。実際に甲子園記録は更新した。

 しかしそれでも、完璧に全てをホームランにするような打者ではないのだ。

「言っておくけどな。勝負が決まってる試合とかだと、俺はわざと野手の正面にライナー打ってたりするからな」

 あまりホームランばかり打ちすぎると、バッテリーは勝負してくれなくなる。だから大介は、あえて狙って野手の正面に打つことがある。

 それは傲慢ではなく、少なくとも県大会レベルでは単なる事実だ。


 そして今日、スルーという魔球の幻想も砕かれた。

 人間が投げる球なのだから、人間が打てるはずだ。

 言われてみれば当たり前で、それでもまともに打たれる可能性がものすごく低いから、スルーは有効な変化球なのだ。

「これからはむしろ、スルーは決め球じゃなくて、カウント稼ぎにも使っていった方がいいんじゃないですかね」

 倉田の言葉に、直史とジンは無言になる。

「あの……何か間違ったこと言ったんですかね?」

「スルーは多投出来る球じゃないんだよ。一日に20球も投げれば、失投して単なる縦スラとかカットもどきになる場合があるんだ」


 基本的に直史の球を捕るのはジンだ。

 もちろん倉田にもスルーを捕ってもらうため、何球も投げているが、落差や減速率の低い全力スルーはあまり投げていない。

「そういや倉田、お前最後の打者に、もろ構えでスルーって分かるようにしてただろ」

 ジンの説教が飛ぶが、倉田は苦笑した。

「いや、分かっていても打たれないと思ってまして……」

 事実、これまでは打たれたことはなかった。だから倉田の自己弁護にも頷けるところはある。


 そして国立はスルーの打ち方だけではなく、スルーの新しい可能性も示してくれた。

 自分のチームの力だけではなく、相手のチームの力まで高める。

 まさに高校野球の指導者としては、理想的な監督になるだろう。

「来年の三里、めっちゃ怖いんだけど……」

「つーか夏もやばくね? 春の大会からの期間と、夏の大会までの期間考えると」

「選手としては、先発の東橋な。どうよ?」

「速い球を投げなくても、打線は抑えられるってことだな。まあ星の方が厄介だったけど」


 意見が色々と出るが、バン!とホワイトボードを叩く音。

 三年の水島、完全にスコアラーに徹している、野球研究の大好き少年が、怒っていた。

「危機感足りねーよ」

 注目が集まったのを見て、水島は言葉を続ける。

「星から取った点数、最初の一点を考えなけりゃ一点だけだぞ? そんでこっちは色々試して、結局五点取られてるんだ」

 単純に数字だけを見ればそうなる。もっともこちらが戦力を温存していたのも確かだが。

「練習試合で舐めてたからってのはあるけど、公式戦でも戦力温存してたら、5-1で負けてたかもしれねえんだぞ」

 言われて、ジンでさえぞっとした。

 公式戦でも、地方予選の最初の方は、確かに戦力を温存して戦いたい。

 そう思っていたのは確かだ。しかし夏は、一度負ければそこで終わりだ。


 水島は深く息を吐いた。

「まあそれでも、戦力の起用は大事なんだろうけどさ。全国制覇を目指すなら、どこかで力を抜かないとダメなんだろうし」

 ペース配分は重要だ。それ自体は水島も分かっている。

「だから俺は、県内のチームは全て回る。あと一年も使って、公式戦は全部見る。だからそのデータを使って、休むべき時に休んで欲しい」

 それが水島に出来る、野球部への貢献だ。




「話は終わりましたね。結局、やることはあまり変わりません」

 セイバーは椅子に座ったまま、それでも強い視線で一同を見つめた。

「ただ、徹底的にやるだけです。いいですね?」

 返事もまた強く、セイバーは微笑みながら頷いた。

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