第28話 直史の一番調子の悪い日

 いまいち集中出来ないな、と直史は肩をぐるぐる回したり、首を左右に振る。

 しかしそんな動作は、傍から見ると余裕にしか思えない。

 回は既に七回の裏。

 先頭打者は酒井。この日三度目の打席。

 つまりここまで、直史はパーフェクトピッチングをしているのである。


 試合はあれから動かない。

 榊原が連打を食らって二死ながら満塁となった時、本多が再びマウンドへ。

 そこから白富東の打者を連続三振に取るなど、完全に復調している。

 榊原は自分が二番手投手ということを弁えて、大介を敬遠した。

 後続を絶つ。これが一番確実な、大介の攻略法である。


 帝都一としては、まず一人塁に出なければいけない。

 それが難しいのだと、松平も分かってはいるのだ。

「球種が多すぎて、絞りきれねえか」

 お互いに顔を見合わせる選手たち。たしかに球種も多いのだが、緩急の差でせっかく狙い通りの球が来ても、ゴロになったりフライになったりしている。

「とりあえず、酒井の打席を見ておけ」

 帝都一で一番出塁率の高い打者に、松平は突破口を探らせている。




 一方の直史は、偶然にも新たに気付いた投球法を試し続けている。

 石川が松平に報告した、ストレートでもスピン量を変える複数のストレート。

 あれは単に、ストレートの棒球を落ちないように工夫しただけである。チェンジアップの一種だ。

 回転数の少ない高速のストレートは、実はスプリットの投げそこないである。

(適当に投げてても抑えられるもんだなあ)

 目の前の酒井にも、ゾーン近くのボールをカットさせてツーストライク。

 さすがに合ってきた打者に対し、ジンが要求するのは今日初めての球。


 沈みながら伸びる魔球、ジャイロスルー。

 選球眼に優れた酒井だが、振り遅れて三振。

 集中力がなくても、指先のコントロールには問題がない。

 ブルペンで投げるつもりで、ひたすら機械的に投げる。

 何も考えない。ただジンのリードの通りに。


 今日の直史は、比較的奪三振が少ない。

 それでも七回終わりの時点で、八つの三振を奪っていた。


 ベンチに戻ってきたが、その中の空気が重い。

 ふう、と息をした直史は、シーナに問いかける。

「球数どんだけ?」

「あ~、68球。って、全打者三球三振並に効率いいじゃん」

「このレベルの相手でも、パーフェクトって狙えるもんなんだなあ」

 呑気に言っているが、その分ジンの負担は大きい。

 五回以降に点数が取れていないのは、アレクと大介の間の彼が、上手く機能していないからだ。

「狙うのか、パーフェクト」

「別に狙わないけど、ランナーを出さない方が勝ちやすいのは決まってるよな」


 パーフェクトが途切れると、途端に集中力もなくなる投手はいる。

 だが直史の場合は当てはまらない。

 そもそも参考記録ではパーフェクトを数回達成しているし、ノーヒットノーランなどは甲子園で達成済みだ。


 八回の表、打席に武史が入っている間に、直史は手塚やジンなどの首脳陣に提案する。

「残り二回、タケ使わねっすか?」

 その言葉に一瞬、囲んだ面子は沈黙した。

「お前、ひょっとして負けてもいいとか思ってないか?」

 ジンの問いに直史はあっさりと頷いた。

「ああ。ここで成功しても失敗しても、タケにはいい経験になるからな」

「タケの経験のためだけに、この試合を捨てるのか? 決勝だぞ?」

「神宮にも甲子園にも繋がらない大会、勝ってもたいして意味ないだろ」


 それは、確かに前から言っていることだ。

 特に武史に関しては、責任感を持たせるために、どんどんと試合で使っていこうとも話している。

 しかしこの大会、決勝のこの場面で、まさか弟に任せるというのか。

 弟妹への愛情が過ぎると言うべきか、むしろ苛烈な育成と言うべきか。

 ガンガン試合で重要な部分を任せて、野球部への帰属意識を高めるという方針はあった。だがこの場面で?

 少しでもプレッシャーに負けたら、ストライクが入らないようになる気がする。


「面白いですね」

 だがセイバーはそう言った。

 好調と不調のはっきりする武史が、この大舞台でどんな投球が出来るのか、興味は尽きない。

「けれど裏からは無理でしょうね。九回です」

 セイバーは完全にその気だ。

 え、マジで?

 手塚とジンはそんな顔をしているが、シーナは不敵に笑った。どうやらここ一番で女の方が度胸があるというのは本当らしい。

「じゃあそういうことで」




 八回の裏、帝都一の攻撃は、四番ピッチャーの本多から。

 ピッチャーで四番でホームランバッターというのは、帝都一ほどの戦力を誇るチームでは、さすがに珍しい。

 しかし実力的には間違いない。これを抑えたら、かなり勝利は近付くと言っていいだろう。

 逆にここで点を取られてしまうと、直史を代えるのは難しい。

(このままパーフェクト継投するとしても、下位打線はどうせ代打攻勢だろう?)

 帝都一レベルのチームだと、代打陣には平気で五割を打つ打者が控えていたりする。それも複数。


 ジンは考える。帝都一と神奈川湘南は、おそらく総合的にみて全国高校野球チームの五指には入る戦力だ。

 そこと対等以上に戦う。必要なのは安定した力と、突出した力。

 平均的な力は、あえて必要としない。

(本多を抑えて、それを確認する!)


 直史のストレートは、MAXが135km。

 だが実際は、もう少し上限が高い。

 コントロールや、打ちにくい球を投げるためには、安易な球速は求めない方がいい。そう考えて、ウエイトトレーニングなどはあまりしてこなかった。

 セイバーの連れて来たコーチたちも、それなりに意見の対立があり、最終的にはアメリカの専門家にまで話が行って、直史の育成法について話し合った。

 もちろんプロアマ規定違反であるが、アメリカまでそれを確認しに行く者はいない。


 そんな直史の本多への第一球は、アウトローへのストレート。

 そうジンは要求したのだが、実際には少し沈んだ。

 本多はそれを打ちに行って、ファールグランドに鋭い打球が飛ぶ。

(スルー……じゃなくて、カットになってたか?)

 直史にしては珍しく、ムービングのような変化をしていた。


 二球目は縦に大きく割れるカーブ。ストレートとの球速差はおよそ50km。

 これだけ緩急が利いていれば、空振りするのも無理はない。

(来るか?)

 このバッテリーは無駄なボール球は投げないので、決めに来る可能性は高い。

 本多が読むに、おそらくはスルー。

 しかし直史は二度首を振る。ここまではなかったことだ。

(球種が合わない? ピッチャーは何を投げたいんだ?)

 もし本多なら、もちろんストレートであるが。


 バッテリーのサイン交換が終わって、勝負の三球目。

(スルー!)

 軌道の下を行くはずの球。感覚のままに本多はスイングする。

 そのバットの上を、ストレートが通過していった。

(た、ただのストレートかよ……)

 読み合いは、白富東バッテリーの勝利に終わった。




 八回までパーフェクトピッチング。

 帝都一を相手にこの投球内容は、圧倒的過ぎる。

 各校の偵察班は、それこそ前年の上杉に近い内容で、直史を脅威判定する。

 しかし、どうやって書けばいいのだ。

 上杉は分かりやすかった。極端なまでの速球を持つ本格派で、ムービング系の球を投げ、高速チェンジアップという、チェンジアップの概念に喧嘩を売るような球を投げる投手であった。


 だが、直史は――。

 ありとあらゆる変化球と共に、魔球までをも操る万能型。

 そのくせ140kmにも満たないストレートで、三振も取れる。

 四球を出すことはめったになく、そもそもボール球を投げることが少なく、一試合を100球以内で平気で完封する。

 上杉を軍神と表現した新聞があり、それこそ彼の代名詞のようになったが、直史の場合はさしずめキメラか鵺といった感じだろう。


 そんな直史は、もう九回の裏を投げるつもりはなかった。

「タケ、アレク、肩作れ。まずタケが九回の頭からいって、点取られたらアレクにチェンジな」

 直史の指示に驚く武史であるが、白富東の首脳陣も頷いている。

「えっと、じゃあモト、お願いしていいかな?」

「じゃあ僕は三田村さんお願いします」


 慌しくなるブルペン。それを見て応援席もざわめきだす。

 まさか、ここまで来て交代なのか。

 八回までパーフェクト。関東大会の決勝でのパーフェクトなど、下手な甲子園でのパーフェクトより難しい。

 しかし中には、ちゃんとそれを感じ取る人間もいる。

「え~、タケ~?」

「お兄ちゃん~」

 嘆く双子と違って、イリヤは動いた。


 アルプススタンド前で肩を作る武史は、ある意味大忙しだ。

 せめて前もって言ってくれたらと思うが、自分の好調と不調も、投げてみるまでは分からないのだ。

「武史!」

 そこへ応援席から声をかけたのがイリヤだった。

「投げるの?」

「そうみたい」

 アルプススタンドとの会話は、あまり推奨されることではない。まだ一方的に言うだけならいいのだが。

 イリヤの傍に、彼女の意思を表すピアノはない。だけどこんなこともあろうかと、スカートのポケットからハーモニカを取り出す。


 ブラバンの盛大な応援の中、イリヤのメロディーは武史の耳に、妙にはっきりと聞こえた。

 それほど長い曲ではない。特に技術的に秀でたとも思えない。

 だが不思議と武史を落ち着かせる曲だ。

「頑張って」

「おう」


 何がイリヤの琴線に触れたのかは分からないが、彼女は今、武史のためにハーモニカを吹いた。

 それはおそらく彼女にとって特別なことなのだと、武史には分かった。


 セットポジションから、倉田のミットに向けて、ストレートを投げる。

 白い軌跡を描いて、ボールはミットに収まった。




 帝都一のベンチは混乱していた。

 八回までパーフェクトに抑えていた先発が、まだまだ球数はたいしたことないのに、二番手以降が準備をしている。

「佐藤の球数は!?」

「84球です」

「するとまさか故障か?」

「けれど直前まで普通に投げてましたけど」


 敵チームの監督としては、歓迎すべき事態である。

 だが一人の野球人として見た場合、佐藤の投手力は惜しすぎる。

「1-0だぞ。エースを代えるのか」

「監督、もし多少の違和感程度でも、今なら治療して夏に間に合いますよ」

「あ、大事をとってか」

 石川に指摘された松平は、パン!と自分の頬を叩いた。

「よし! 相手の弱点を叩き潰すのは野球の常道! おめえら! 代打攻勢準備しとけよ!」

「うす!」


 リリーフの肩を作るために時間稼ぎをしていた表の攻撃だが、本多の前にはほとんど効果がなかった。

 それでも武史が自分の調子を確認するのには充分であった。

 今日の調子?

 かなりいい。


 マウンドに立つ武史であるが、帝都一は当然のように代打攻勢を行ってきた。

 一応ベンチでセイバーの説明は受けた武史だが、兄の言い分はふるっていた。

「とりあえずリードは全部ジンに任せて、お前は全力で腕だけ振って来い」

 そう言った兄は、武史と交代してサードに入っている。


 これまでパーフェクトなピッチングをしてきた兄が、それでも今日はまだいまいちだと言う。

 求める水準が高すぎるのだと思うが、求め続けなければ人はすぐに堕落すると武史も知っている。


 練習が与えてくれるのは、実力ではない。安心感だ。

 練習をしないことによって、パフォーマンスが衰える。それはアスリートにとっては恐怖であろう。

 もちろん休養の重要性も知ってはいるが、バレリーナは基礎を一日も欠かすことはない。

 より高い水準でプレイするのは負荷をかけ続ける必要があるが、基礎的な部分の確認は、確かに毎日行う必要がある。


 たとえば直史は、軽いジョギングと数回のダッシュ、10球程度の投げ込みに、かなりの柔軟運動。これは試合の日でも欠かさない。クールダウンの効果もあるからだ。

 武史はそこまで徹底していない。そこがおそらく、調子が悪くてもコントロールの出来る兄と自分の、決定的な差であるのだ。




 マウンドの投球練習でも、狙ったところにストライクが決まる。

 一球ごとに込める力を増やしていっても、全く問題がない。


 そんな武史のボールを受けながら、ジンは不思議に思っていた。

 球速自体は、岩崎の方が速い……気がする。

 実際にマシンの測定では、岩崎のMAXが148km、武史は145kmなのだ。

 だが体感では、武史の方が速いと感じてしまう。

(伸び? キレ? 確かにストレートの軌道は、ガンちゃんよりも直線に近いけど)

 武史のストレートは正統派のはずだが、どこか平均を超えている。


 これで、帝都一の最強代打陣を抑えられるなら。

 夏の甲子園は、戦える。

 ラストの一球がど真ん中に決まり、ついに最終回、帝都一の最後の攻撃が始まる。

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