第10話 魔女の森
ヤマト。
凄まじく高度な技巧を見せ付けてクラシックを、そしてジャズにアレンジして弾いた彼女が、ヤマト。
いや、悪い曲ではない。ヤマトは合唱でもよく使われる曲だし、応援でも使われる。
だがそれはコンクールとかではそうそう使われないものだ。定期演奏会などではよく歌われたりはするが。
そういった固定観念とは全く関係なく、イリヤは弾き始めた。
「まず私が歌ってみるから」
勇壮な出だしから、歌詞のメロディーラインへ。
彼女の声が広がった。
曲調はあくまでも強い意思を示しながら、その歌詞は悲壮でもある。
本来ならバスであるはずのそれを、彼女のアルトはよく表していた。
ピアノを弾く彼女と、歌う彼女。
二つの音が調和する。
ぶわ、と肌が総毛だった。
(なんだこれ!?)
武史は変な笑いが浮かぶのを感じた。
(本当に凄い人って、こんなに凄いのか!)
立っていた膝がガクガクする。
イリヤの両手はまたも凄まじい速さで動き、伴奏に加えてメロディーラインを支える音を奏でる。
合唱においては混声四部で歌われるこれを、伴奏とソプラノに加えてメロディーを支える部分を、余った指で再現している。
ピアノを使うことによって彼女は、四人分の音を表現しているのだ。
哀切でありながら力強さ。
戦うことの勇気と頭をよぎる怖れ。
それすらを克服して前進せよ。
音に感情や、覚悟が感じられる。
命を削って弾いているのではとさえ思うが、ついとかすかに顎を上げたイリヤは、楽しそうに微笑んでいた。
武史の脳内で、強制的に快楽物質が生産される。
それは五感に影響し、視覚には光の瞬きが、皮膚にはありえない圧力が、そして大海を思わせる何かが全てで感じられる。
こんなことが出来るのか。
出来てしまう人間がいるのだ。
武史は散々天才というものを見ていた気でいたが、こんなことを人間が出来るとは信じられなかった。
イリヤには絶対音感がある。
あらゆる音が正しく音階で聞こえるというのが一般的な絶対音感であるが、彼女のそれは本来のものとは意味が違う。
彼女は五感や、それで捉えた感情の動きさえ、音という形で受け入れることが出来る。
都会の喧騒も、明け方の静寂も、学校の静かなざわめきも、その映像を含めて全て、彼女の頭の中では音として再現される。
あえて言うなら、これは第六感であった。
音という手段を通じて、映像や、味や、温度を錯覚させる。
それがイリヤ。世界的なジャズピアニストを一人引退させ、また一人を精神病院送りにしてしまった、音楽で心を破壊してしまう少女。
アメリカの大手音楽レーベルが契約しながら、どうしたら彼女を商品に出来るのか分からず、結局は一年間を拘束しただけで、彼女をまた自由にさせてしまった。
回りまわって日本へ来た彼女は、あまりにもピアノばかりを弾いていて他に何もしていなかったので、保護者を任ずるミュージシャンが、太陽の下へと連れ出した。
完全に畑違いと思われていた野球観戦。ミュージシャン自身もそこまで野球に詳しいわけではなかったが、その年の地方予選の決勝が、戦前からすごい注目を浴びているのは知っていた。
そこでイリヤは、新しい音と出会った。
あの日、背番号18の投手が投げていた試合は、ひたすら自己の音楽に埋没するだけであった彼女に、新たな道を示してくれた。
イリヤは甦ったのだ。
そしてまたその音を聞くために、ここへ来た。
そしたらそこには、また自分とは違った楽器がいた。
この二人と一緒に歌えば、また新しい世界が見えるのではないか。
水平線の彼方へ向かう。イリヤはそれを望んでいる。
短い演奏が終わった時、音楽室には静寂が満ちていた。
単純に感動し、そして反応するには、イリヤの使った表現は圧倒的すぎた。
立っていた生徒は壁によりかかるか、腰を抜かして座り込んでいた。
目をぐるぐる回している者もいたし、おそらく自分もそうなのかもと思うが、変な笑いを浮かべている者もいる。
ちゃんと立っているのは双子だけであった。
それも立っていると言うよりは、固まっているという方が正しいだろう。
「貴方の方が少し高音域が高いから、ソプラノの部分を。貴方はアルトを担当して、歌詞の部分を歌って」
イリヤは双子を聞き分けていた。
見分けていたのではなく、聞き分けていた。
二人は自分たちの手によって、ただでさえ似ているお互いを、同一の存在にしようとしている。
それはかなり成功していた、目立つ黒子などのない二人は、よほどの観察眼がないと見分けられない。
もっともイリヤにとってみれば、見た目はともかくその中身は、それほど区別することは難しくなかった。
同じような体験をしても、その体験が全て同じなはずもない。
二人でキャッチボールをしている時はそれほどでもなかったが、あの投球と打席。
あれだけの動きをしていれば、ごくわずかな身体の違いに気が付かないわけがない。
そして体が違えば、出る音も必ず違う。
もっとも、その微小な差異に気が付くのはイリヤであったからだが。
「さあ」
魔女は誘う。
「歌いましょう」
その後にあった出来事のことは、怪我人が出て救急車を呼ぶ騒ぎにまでなったことが、巷間に流布された。
失神した人間が三人、その内の一人が倒れた時に額を切り、頭部から出血。
防音ガラスの向こうから見ていた瑞希には、明らかに危険な倒れ方に見えた。
放心してしばらく動けなくなった者も多数。保健室に運ばれた。
ほとんど音を聞いていなかった瑞希でも、その事実だけで尋常でないことが起こったのだけは確かに分かった。
幸いと言うべきか、病院に運ばれた者は検査だけで済み、一日の入院だけで復帰できた。
しかしこの出来事の波紋はそれなりに大きかった。
まずイリヤは、校内でのピアノ演奏を自粛するように言われた。
禁止ではない。怪我人が出たことは、客観的に見れば彼女だけの責任とは言えない。
だがイリヤは「がーん」と口に出しはしつつも、普通にそれを受け入れた。
そして佐藤家にとっては信じられない出来事が起こった。
ツインズと呼ばれる問題児にして台風の目が、おとなしくなったのである。
イリヤの存在はそれほどフォーカスされることはなかった。
新入生代表の少女が野球部のグランドで問題を起こし、さらに音楽室でも問題の原因になりそうなことを起こした。
そちらの方が情報としてはセンセーショナルであったからだ。
もっとも双子が何か処分を受けるということはなかった。グランドの件では鬼塚が何かを言うことはなかったし、客観的に見てあれは正当防衛だった。実際に鬼塚は怪我はしていない。
後始末に奔走した瑞希は、この日の出来事を野球部の記録としては残さなかった。
ただそれとは別に自分が気付いたことをメモしておく彼女は、この日の出来事を詳細に記録しておくことを忘れなかった。
最後の歌を耳を塞いで聞いていなかった早乙女も、割と早めに復活して、事態の収拾に当たった。
イリヤの演奏と双子の歌は、別に精神を洗脳するとか、そういった無茶苦茶なものではない。
ただ、衝撃は大きい。それだけは確かで、あの場にいた者の多くは、しばらく定期的に校内のカウンセラーにかかることとなった。
事件を聞いたセイバーは頭を抱え、とりあえず金で解決出来そうなところには手を回した。
それにしても逸話の数々を聞いていたとはいえ、まさか本当にイリヤにそんなことが出来るとは。
そしてそんな事件の後ではあるが、武史は悩んでいた。
自室において正座し、床に置かれた背番号のついたユニフォームを眺めている。
18番。
去年の夏の大会で、兄の直史が付けていた番号だ。
ちなみにあの日、イリヤが直史に渡した曲のタイトルは18というらしかった。
テープからわざわざPCにデータ化し、CDに焼いた物を武史も渡された。
九分という長い曲。歌はない。
直史によるとその曲は、あの夏の決勝戦を忠実に再現したものだそうだ。
こつこつというノックの音がして、直史が部屋に入ってきた。
その手にはなぜか古臭い手持ちのラジカセがある。
「調子はどうだ?」
「正直、微妙」
隠そうともしなかった。この気分のまま試合に出るのは、ちゃんとしたパフォーマンスを発揮するためには避けたい。
だが白富東の首脳部の意見は一致している。
今の一年を、育てながら勝つ。
実際のところ武史などは、技術うんぬんはともかく、試合経験が圧倒的に足りないのだ。
実戦で役に立つかどうかという点では、鬼塚の方が上であるとさえ言える。
武史自身も、それに同意している。
実際のところ直史や大介などは、春の大会はどうでもいい。
夏のシードが取れることを優先するが、去年の勇名館のようなイレギュラーな存在がないので、特に問題はないと思われる。
問題点は試合の勝敗ではなく、采配などの部分にある。
既にセイバーの口から、一年の投手は全員を使っていくと言われている。
つまり武史もだ。
一年は結局、四人がベンチ入りすることとなった。
武史、鬼塚、アレク、そして倉田だ。
三年から一人辞退者が出て、結局はベンチ入りすることになったのだ。
白富東の正捕手はジンで間違いない。
だが去年のようにジンが怪我をした場合どうするか。
三年の三田村はちゃんと鍛えられた捕手だが、それでも技術的なものは倉田が上だと思われた。
それにキャッチャーの場合、控えの控えも必要だ。代打として使えるのも大きい。
公式戦に出るということで緊張しているのかと言えば、それも少し違う。
ここ最近にあった出来事が、彼の試合への集中を妨げているのだ。
高校生になれば何か変わるのかと思っていた。
だが変わりすぎた。
野球をやると決めた。休養日があるので、その日はバスケを見に行くことになる。
あちらでも実力的にはレギュラーを取れそうだが、優先するのは野球だ。
休養日にちゃんと休養していないので、せめて一日は休むように言われた。それでも渋りそうになると、野球部の方の練習を一日休んでもいいとまで言われた。
普通ならばありえない。というのが現代の野球の常識なのだろう。
「まあ確かに、野球に必要な筋肉と、バスケットボールに必要な筋肉は違う場合もありますが」
とセイバーは言ったものだ。
「マイケル・ジョーダンもMLBで遊んでた時もありましたし、シーズンオフは他のスポーツをするというのは、実際のところ体の筋肉をバランスよく使うというのには有効です」
かくして武史はバスケ部との兼部を認められたのである。
また、それとは全く別の問題もある。
言うまでもなく、イリヤ関連の問題だ。
あの日の事件で、まともにイリヤの音を聞きながら、唯一まともそうに過ごしている人間。
それが武史である。
音楽的素養に欠けるから影響を受けていないのかと言えば、合唱部も元はゆるい集まりだ。
だが目に見えるほどの分かりやすい影響を受けなかっただけで、全く影響がなかったはずはないのだ。
直史は持ってきたラジカセを床に置いた。
本当に旧式の、電池で動くタイプのものだ。
「お前、彼女の持ってきた曲聴いたか?」
「うん。でも……予想していたより、普通だった」
即興で作った双子のキャッチボールの方が、ずっと面白かった。それが素直な感想である。
同じくピアノで演奏されていたので、間違いはない。
その返答に、直史は頷いた。
「まあ、そう錯覚するだろうな」
そう言いながら、ラジカセの大きなスイッチを押す。
武史の部屋にあるミニコンポと比べても、こもって濁った音が流れた。
(え……)
一曲聴き終えるまで待ったが、武史の印象は変わらない。
「なんか……このくそしょぼいラジカセの音の方が、ずっと良かったように聞こえるんだけど」
「そうなんだよな」
「え? なんで?」
直史は珍しいことに、腕を組んだまま悩んでいる。
言語化出来ないということだろうか。兄は理屈っぽいので、感覚的なものを好まない。
それこそピアノの演奏などは感覚的なものらしいが、直史に言わせるとあれは、譜面の通りに指を動かしているだけらしい。
本質的に直史は芸術の才能が全くないのだ。
それでも説明は出来る。
「人間の方が機械より正確だから、あえてより不正確な機械を使うことで、その人間の持っている揺らぎを表現してるとか」
「いやいや、基本的に機械の方が人間より正確だろ」
「一例を挙げると、砲丸投げに使われる砲丸は、日本の職人さんの手作りの方が、より重心などが正確に作れるらしい。あと身近なところだと、機械が投げるスルーよりも、俺の投げるスルーの方が正確だろ?」
「あ~、機械ではフリースローを成功させるのに、人間よりも長い時間がかかるのと一緒?」
「いやそれは……どうかな? フリースローの機械が、時間はかかっても人間より正確なら、少しこの例とは違うけど」
直史の投げる変化球スルーは、魔球と呼ばれている。
結果的に攻略できたという例はあっても、意識的にちゃんと攻略したというチームはない。
それはスルーの持つ特性が他の変化球とは全く違うということもあるが、何よりスルーを対象とした打撃練習が出来ないからだ。
スルーを意識的に投げられる高校球児は、日本でも直史しかいない。
そして今のところ、ピッチングマシンでも直史ほどに正確なスルーを放れる機械はないのだ。
よく直史が、機械よりも精密と言われるのは、このあたりにも理由がある。
つまり、である。
「普通の機械ではイリヤの音は表現出来ないから、あえて細かくない方が近く聞こえる、って感じなのかな?」
「そうなんだろうな。考えても見ろ、あんな惨状をもたらすような曲が流れてたら、世の中もっと凄まじいことになってると思わないか?」
それもそうだ。
聞くだけで失神するような音楽が、街に普通に流れていたらたまらない。
もっともあれは、双子までもが歌ってしまったことも関係しているだろう。
頭脳も身体能力も常人ではない双子であったが、まさかこういった方面にまでその力を発揮するとは思っていなかった。
「兄貴のピアノで、時々歌ってたのに?」
「俺程度のピアノだからな」
イリヤについては、直史はセイバーからいくつか聞かされている。
元々はクラシックのジュニア大会で優勝していたこと、そしてジャズの大御所に気に入られて、そのメンバーとして臨時に出演したこと。
そのライブで怪我人などが多数出て、そしてメンバーの一人が自殺を図ったこと。
個人としてアメリカの大手音楽レーベルと契約したのだが、彼女の音と歌を商品化することが出来ず、かといってライブなどは危険すぎて行われなかった。
今はそのあたりの事情も含めて、日本で隠棲しているのだ。それが去年の夏の試合をきっかけに、白富東の野球部に興味を示した。
特にその対象が直史であったため、セイバーも早乙女も、かなり彼には詳細を説明し、用心するように言っている。
実際にイリヤのテープを聞いて、直史には彼女の本質が感じ取れた。
自らに芸術的な素養はないと思う直史であるが、それがゆえにかえって彼女を散文的に理解出来たのかもしれない。
彼女は、普通の幸せを得られない人間だ。
そう、双子たちのように。
だが今、双子たちはかなりの時間をイリヤと共に行動しているらしい。
依存とまでは言わないが、ある意味執着している。
二人がそこまで関わろうとするのは、大介を除いては初めてだ。
そして大介の場合と違って、彼女たちはイリヤに支配されたがっているように見える。
支配というのは大袈裟かもしれないが、双子が大介に好意を持つのは、大介という人間を単純に好きだからだ。
だがイリヤに対しては――よく分からない。
直史は自分があまり、イリヤの魔性に囚われないであろうことを確信している。
ただそれでも、瑞希から直接聞いた話では、下手に近寄ろうとも思わない。
武史の鈍感性は、彼にとっても信じられないものだ。
「そんなわけで、このラジカセはしばらく置いておくから。中毒にならない程度に聞いておけ」
「いや、そんなに俺はハマってないけど」
武史は鈍感だ。
彼が魅かれているのは、イリヤの音楽ではなく、イリヤの存在感なのだ。
ただそれをわざわざ説明しようとも思わない。
「明日は試合だからな。お前もスタメンで出されるはずだから、そのつもりでいろよ」
「え、マジで?」
結局のところ、直史が言いたいのはそれだけであったのだ。
イリヤという異物。それは今のところ、セイバーや、そして自分の予定をも狂わせている。
だがその狂った先が、悪くなるとも限らない。
「まあ今のうちの戦力なら、一年を試すのも悪くないってことだ」
極端な話、点さえ取られていなければ、そこからいくらでもリリーフすればいい。
直史だけでなく、成長したのは岩崎も同じだ。
「だから寝ろよ。お前のことだから、試合前だからって眠れないってこともないだろうけど」
「まあ、プレッシャーには強いからな」
中学生時代はクラッチシューター、決めなければいけないシュートを決める選手として有名だった武史である。
プレッシャーは彼にとって、敵ではなく味方だ。
そのあたりは大介と同じ感性をしている。
そして翌日、発表されるスターティングメンバー。
四番サード 佐藤武
さすがに驚く武史であった。
第三章 完
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