第9話 彼女は音楽でできている

 この国には自分を知っている人間が少ない。

 肉体の四分の三を流れる血は日本人のものだが、価値観にそれを感じたことはあまりない。

 自分はどこにいても異邦人なのだと感じなくもない。

 それでもあらゆる人種が混在するアメリカと、どこか優しい音の響く日本は、少し違う気がする。


 けれど、どこに住んでいてもいい。

 そこに音があればいい。ついでにピアノがあればもっといい。

 ずっとそう思っていたし、これからもそうだと思っていた。

 あの、夏が来るまでは――。




 セイバーは溜め息をつきつつ、イリヤの手を引く。

「イリヤ、あなたの日本語の使い方は、ちょっと誤解を与えるから――」

「あーっ!」

 そこでまた声を上げたのがギャル子さんで、人垣が割れる。

「そうだよ! イリヤってまさかあの――」

 その首を早乙女がきゅっと絞めた。

「あれ、北村先輩の」

「妹さんじゃん」

「なんで化粧ケバくなってんの?」


 タップする北村文歌の耳元で早乙女が警告を与える。

「彼女のことは内密に」

 わずかに緩められた隙に、ふがふがと文歌は頷いた。


「イリヤ……?」

 シーナもどこかで聞いたような気はしたのだが、どうも記憶からすっと思い浮かばない。

 まあどこかにいそうな名前ではあるのだが。

 イリヤは少し周囲を見た後、制服のポケットからケースを取り出した。

「これを」

 直史に渡されたそれは、今どき信じられないが、カセットテープであった。

「何それ?」

「カセットテープ見たことないのか?」

 武史とは一歳違いでしかないが、これぐらいは知っていると思った直史である。

「いや、知ってはいるけど今どきどうしてかってのと、うちでそれ聞けるものある?」

「うちにはないけど母屋にはあるな」

 母屋というのは、祖父母の住む家のことだ。徒歩約30秒の距離にある。つまり隣だ。


 ああ、と武史は思い出した。そういえばあそこにはレコード台もあったはずだ。時折祖父母が聞いているのを見た。

 二階は屋根裏のような倉庫になっていて、ご先祖様の使っていた物品がある。

「これを聞けばいいの?」

「ええ。あなたのために作ったので」

「俺の?」

 直史のために曲だか歌だかを作って差し入れてきたというのか。

 それは随分と気合の入ったファンである。


「イリヤ! 早乙女! とりあえずイリヤを音楽室なりに!」

「分かりました」

「あれ、二人はお仕事モードなの?」

「当たり前でしょう」

 引きずられていくイリヤであるが、とりあえず状況は終わったらしい。




 ふう、とセイバーが息をつく。

「改めまして皆さん、私が監督である山手・マリア・春香です。セイバーメトリクス分析を行うので、部員からはセイバーさんと呼ばれていますね」

 ゆる~い自己紹介が始まる。おおよそ兄から聞いていた文歌はともかく、やはり初めて目にする新入生には、かなり異色の存在に映る。

 今日はフォロー役のバリキャリ早乙女がいないので一層だ。


 そんなセイバーがまた昨年の実績から紹介していくわけだが、いつの間にか武史の隣に来ていた双子が脇をつつく。

「タケ、あの女の子追うよ」

「え、俺普通に監督の話聞きたいんだけど」

「後でお兄ちゃんから聞けばいいでしょうが」

「監督さーん、あたしたちは今日は帰りますんでー」


 傍若無人なのは双子の正常営業であるが、それに武史を連れて行くのは珍しい。

 この双子に逆らおうとか、反論しようとする者はいない。

 唯一行動を妨げるとすれば直史だが、双子は今武史も連れて行こうとしている。

 理由がある。ならば止めない。


 去っていく三人を見て、セイバーは直史に問いかけた。

「あれが噂の、この学校で私より頭がいい妹さんたち?」

 セイバーは割りと鷹揚で寛容だが、自分の頭の良さというか、頭のいい他人という存在には興味を示す。

 入学試験で全教科満点を取ったという双子のことは、自然と耳に入っていた。


「すみません、遅れました」

 三人と入れ違いで入ってきたのは瑞希だ。彼女は文芸部の打ち合わせなどがあったので、これでも急いで来たのだ。


 双子が、わざわざ武史まで連れていった。

「セイバーさん、あの子が行ったのは音楽室ですか?」

「そのはずだけど」

 確認した直史は、瑞希に向かう。

「ごめん瑞希さん、音楽室に行ってくれない? 弟たちが心配なんだ」

「え……」


 基本的に直史は、瑞希にこういった頼みはしない。

 彼女がやりたいことは、白富東の野球部の活動を書くことだ。直史の便利屋ではない。

 だがそれが分かっているはずの直史だからこそ、頼まれたら断れない。

「音楽室に行けばいいの?」

「うん、危険はないはずだけど……」

 瑞希もまた、直史が長男として弟妹たちのことを、なにかとなく気にかけているのは知っている。

 というか、下の三人は完全にブラコンだ。可愛いのでいいのだ。


「分かりました。行ってきます。あ、でもじゃあこれを」

 そう言って瑞希はICレコーダーを置いていく。

「監督さんの言葉とか、録音お願いします」

「うん、分かった」

 とてとてと可愛い擬音と共に、瑞希もグランドを去っていく。


 直史の心配を、セイバーも良く分かっている。

 直前までいなかったので双子のことはともかく、イリヤの方は心配なのだ。早乙女は彼女に耐性がついているが、それでも限界がある。

 瑞希は芯が強い、そして正義感だけではないタイプの人間だ。

 イリヤとは相性がいいかもしれない。

「それでは練習を始めましょう。一年生にうちの変なところを存分に知ってもらいましょうね」

 どういう声のかけ方だと思わないでもないが、白富東メンバーは笑いながら頷いた。




 白富東高校の部活は個性に富んだものが多いが、学校のリソースは当然ながら無限ではない。

 セイバーが自分の金で好き勝手やっている野球部が特別なだけで、他の部は時間、スペース、予算と、それなりに制限された中で活動している。

 だが恩恵を受けている部もある。その中には吹奏楽部と合唱部がある。

 野球の応援のために絶対に必要な吹奏楽部には、楽器の購入やレンタルで、そのままに資金援助をした。

 夏の甲子園を観戦して感じたことだが、応援は絶対に必要だ。大介などには特に有効だ。

 合唱部は応援のために集められた生徒が、自主的に集まって成立した部だ。こちらは練習スペースが少ないため、体育館や屋上など、不遇な場所にいることが多い。

 あとは部全体ではないが、チアに参加してくれるダンス部のメンバーには、衣装代と交通費を全額負担している。


 もっともこの日は幸運にも――あるいは不幸にも――合唱部は音楽室を使うことが許されていた。

 とは言ってもイリヤがそこに向かうまでには、もう一つのステップがあった。


 つかつかと足音も高く、遠くに放課後の喧騒が聞こえる校内を歩く早乙女。イリヤはうっすらと、微笑とも言えないほどのあやふやな表情でそれに並んでいた。

「イリヤ、確かに色々と人の手を借りたから、私たちは貴方を守る気はある。けれどマリーに心配をかけるのは許さないわよ」

 静かな声の中にも、厳しさを隠さない。だがその理由を知っていれば、むしろ可愛げすら感じる。

「そんなに恋人のことが心配?」

 その言葉に、早乙女は思わず足を止める。

「イリヤ、日本では――」

「大丈夫、ここまでは誰も聞いてないから」

 そう、ここまでは。

 それにアメリカではある意味、同性愛には日本よりも厳しい偏見がある。


 イリヤが歩き出そうとしないので、早乙女もそこで立ち止まる。

「大丈夫よ、エコー。なんだかこの学校に来て、とてもいいことばかり起こるの。私の感じたことは間違いじゃなかった」

 早乙女の名前は悦子。だが彼女はあまりこの響きが好きではない。

 だからアメリカの友人には、エコーと呼ばせていた。


 ぺたぺたと近付いてくる足音。

「誰?」

「双子と、男の子」

「三人?」

 足音は一つしかない。

「足音を立てなくても、その近くの人の足音が周りに反射するでしょ? それが二人分、空気に濁って聞こえる」

 イリヤの耳は、当然普通ではない。

 彼女は絶対音感を備えているが、それだけではないのだ。


 廊下の角を曲がって現れたのは、佐藤三兄妹であった。

「あ、追いついた」

 武史は呑気にそう呟いただけであるが、双子はその左右に別れて、臨戦態勢である。


 何が起こっているのか、武史は把握していない。

 ただ、何かは起こっているのだ。双子が警戒し、直史もまた、彼女には何かを感じていた。

 そしてそれは武史もだ。双子のような超常一歩手前の存在や、それすらを乗り越える人間の強さを持つ兄に比べても、イリヤは異質すぎる空気を持っている。

 まるで人間以外の何かが、何かの弾みで人間になってしまったような。




 空気が張り詰めていた。

 こういう張り詰めた空気が、イリヤは嫌いではない。

 彼女はポケットを探る。彼女のポケットは四次元ポケットだ。彼女の必要な物が入っている。

 取り出したるはクロマチックハーモニカ。ピアノと同じく、半音ずつの音程が使える。

 それに口を付けたイリヤは、慣れた手で演奏を始めた。


 簡素なメロディーラインに、弾けるようなテンポ。

 時々それが倍速になって、その変化もまた小気味いい。

 印象としては仔犬のワルツにも似ているような曲だった。

 およそ一曲分ほど吹き終えると、彼女はほうっと息を吐いた。

「どう?」

「……」

「いい曲だね」


 双子が反応しないので、武史が応答する。聞いたことのない曲だが、明るくて楽しそうな曲だった。

「聞いたことないけど、有名な曲なの?」

「双子のキャッチボール」

「それはまた……」

 なんとぴったりとした曲があったものだろうか。

「さっき作ったんだけど、気に入ってもらえた?」

「は? 作った?」


 双子の反応はないが、武史は驚いた。

 そういえば、自作の曲だか歌だかを、直史にも渡していたではないか。

「曲とか作れる人なんだ」

 言われて見ると、なんとなくそんな感じがする。外見で判断するのは、あまり良くないことなのかもしれないが。

「貴方も」

 それまではずっと、イリヤの言葉は武史の方に向いていながらも、双子に語りかけていたような気がした。

 だがこれは、武史へのものだ。

「とてもいい音を持ってるのね」




 イリヤの声には魔力がある。

 呼びかけられただけで、武史は痺れるような感覚を味わった。

 声のいい人間というのは確かに存在するが、イリヤはそれまでも武史にその声を聞かせていた。

 ただ、これまでは対象が武史ではなかったというだけで、その変化が出た。


 そうか、と武史は気付いた。

 双子は明らかに、グランドにいた時から、彼女の声を正面から聞いている。

 これが双子の、イリヤを妙に意識している原因なら分かる。

 なんと言うか、才能の持つ引力とでも呼ぶべきものを感じる。

(才能? この子が?)


 しかし武史は音楽的な才能など全くない。ピアノをやっていた直史や、ダンスで踊りまくっている双子とは違う。

 音を持っているというのは、独特な言い回しだなとは思うが。


 イリヤの笑みは薄い。不思議と感情を感じさせない。

 雰囲気を持ってはいるのだが、存在感自体はあまりないような、不思議な印象だ。

 存在感のなさが印象に残るとでも言うような。




 踵を返したイリヤは、特に急ぐ歩調でもなく、歩みを再開した。

 双子がその後ろに付いて行く。武史は早乙女と並んでしまったが、兄と違って彼女のことは伝聞でしか知らない。

 特に言葉もなく歩いていくわけだが、このまま双子はおとなしくしているのだろうか。


 そんな不安はあったが、イリヤは特に更なる問題など起こさず、音楽室の扉を開いた。

 そこは防音の施された密室であり、当然ながら音が洩れ出てくる。

 今は合唱部がそれぞれのパートの練習をしていた。

 突然開かれた扉ではあるが、防音ゆえにノックなども響きにくく、声で満たされていたために気付く者も少ない。


 音の溢れる中を、イリヤは進む。

 ピアノの席には一休みしていたのか、女性の教師が椅子に座っていた。

 その前に、イリヤは立つ。

「弾いてもいいですか?」

 その言葉だけで、教師は立ち上がっていた。

 流れに棹差すように、慌てて早乙女が声をかける。

「特待生のイリヤです。基本的に伴奏を担当するように言われているはずですが」

「あ、ええ、聞いています」

 やはり音楽関連での特待生枠なのか。

 日本人でそこまで実力があるならニュースになっていてもおかしくないだろうが、少なくとも武史は聞いたことがない。


「普段は私が伴奏をしていますし、吹奏楽部から応援にも来てくれるので、それほど手伝ってもらうことはないと思いますが……」

 ちらちらとイリヤを見つめる。耳が良ければイリヤの声の特徴には気付くはずだ。

「何を弾くの?」

「じゃあさっき作ったばかりの曲を」

 そう言ってイリヤは魔法を使った。




 イリヤの細長い指が、鍵盤の上を流れるように動いた。

「え、これ」

 武史は驚いたが、それほど驚くべきことではない。

 頭の中にピアノで曲を作れば、ハーモニカはその主旋律をなぞるのだから。

「双子のキャッチボール」

 固い声で呟いたのは、双子の内のどちらだったか。


 武史が知っているピアノは兄の弾くピアノだ。

 基本的に兄の教育方針は祖父母が立てることが多いのだが、これは母の希望が優先した。

 嫁入り時に持ってきた、アップライトピアノ。時々気まぐれに弾いていたそれを、子供の頃の直史が、とても喜んで聞いていたらしいのだ。

 本人さえも憶えてない記憶だが、母はかなり周到に説得したらしい。その結果直史は小学校時代ずっとピアノを習っていたのだ。


 双子がよく踊るための曲を、兄にリクエストしていた。

 ただ兄の力はピアノのような音楽的才能に寄ったものではなく、せいぜいが校内の合唱の伴奏を務めるという程度のものであった。

 それでもメロディーラインを聞きながら適当に伴奏を作って弾くことは出来ていたのだが、それを知っているだけに、どれだけの技量差があるか逆に分かる。


 さっき吹いていたあの曲が、ピアノになるとこうなるのだ。

 歌謡曲をピアノにすると、おおよそ右手で歌詞のメロディーをなぞり、左手は伴奏となる。

 それは伴奏がリズムを保つものである場合が多く、やや単純になるからだ。ピアニストの指先はほとんど両利きに近いが、それでも右が小回りが利く動きをする場合が多い。

 イリヤのピアノは違う。

 右手で主旋律を弾いていたと思うと、いつの間にか駆け上がってきた左手が主旋律となり、右手が高音域で遊んでいる。

 双子のキャッチボール。これが完成形なのだ。


 幸福な音楽の時間は、唐突に終了した。

 それまで特に激しい動きなどしていなかったイリヤが、両手を空中に上げて、そこで停止した。

「終わらせ方考えてなかった!」

 先ほどハーモニカでは、ちゃんと終わってたはずである。

「あ~、恥ずかしい! 定番のを!」

 照れ笑い。そんなイリヤの表情を、早乙女は初めて見た気がする。


 どんな難曲でも、容易く弾いてしまえる子ではあった。しかしそこが粗い。

 ドイツから流れてアメリカを通り、結局は血の一番濃いこの国へ戻ってきたというのは、人の生き方の不思議さを感じさせる。




 彼女が選んだのは、ごく普通に誰もが知っている曲。

 名前を知らなくても、聞いたことはある。あるいはそういう曲こそが名曲と言えるのかもしれない。

「幻想即興曲だ」

 誰かが呟いた。それは正しい。

 しかしある程度の教養を持つ者には分かる。

 速すぎる。これで弾けるのか?


 イリヤは弾いてしまう。無造作に、ある意味雑に。

 技術的にはともかく、音楽性としては正しくない。

 ただそのスピードだけは分かりやすい凄さを示している。

 最後まで弾き終わったあと、イリヤは続けてまた弾き始める。


 今度もまた有名な曲であった。

 だがこれも、正確な楽譜を学んだ者なら違いが分かる。

「革命のエチュードだけど、これ違う。ジャズアレンジ?」

 激しい部分から革命の終了を描くテンポに変化するはずが、激しいままに断絶する。

 とにかく本来であれば緩急をつけるはずの部分でさえ、彼女の手の前では激動の響きしかない。


 弾き終えた時には、室内の全員から拍手が送られた。

 いや、全員ではなく、双子だけは緊張して直立したままだったが。


 素晴らしい演奏だった。

 武史はあまりクラシックに興味はないのだが、彼女の演奏には――聞く者を楽しませようとする意図が感じられた。

 ジャズの定義さえ良く分かっていない武史だが、いいものはいいというぐらい分かる。




 準備運動を終えたイリヤは、指と手首をくいくいと伸ばした。

 両方の指、親指と人差し指が、180°近く開く。

 右手の指先が右手の手首に届く。

 ピアニストは指が柔らかいが、それでもこれは異常なのではないだろうか。

「一緒に歌ってくれる?」

 イリヤの言葉は双子に向けられていた。


 双子は動かない。イリヤを注視している。

「日本の高校生でも歌えそうな曲……」

 少し考えたイリヤは、意外な曲の名を挙げた。

「ヤマトにしましょう」

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