第6話 世界の王!

 冗談だと、さすがにジンは思った。

 色々な選手の打撃フォームは、確かに形だけは真似できる。理に適ったものも多くある。

 だがイチローなどの数人の打者は無理だ。なぜならスイングの原理が、特にイチローのそれは他の打者と、構造的に違うからだ。

 しかし、やりかねない。

 初期からイチローが使っていた振り子打法。確かに右足の力は抜いているように見える。


 ジンの出したサインは、いきなり意表を突くものであった。

 そして鬼塚も頷く。ここはいきなり、自分の決め球で行く。

 豪快なオーバーハンドから投げられたその球。たとえシニアでの経験があっても、そうはお目にかかれないはずだ。

 真ん中から外れる、大きな落差のフォーク。


 ワンバウンドになりそうなそれを、椿のバットが見事に捉えた。


 鬼塚の頭の横を抜けていくセンター前。

 そのはずの打球が、跳躍した大介のミットに収まっていた。

「っぶねえ!」

 くるりと回転して起き上がった大介が、捕球したボールを鬼塚に送球した。

「ナイボ!」

「ナ、ナイショ!」


 応えた鬼塚であるが、頭の中は混乱で一杯である。

 イチローの物まねで、自分の初見のフォークが打たれた。投球練習でも投げていなかったのに。

 そんなことは論理的に考えて無理なはずだ。それにそれだけではない。


 ピッチャーの頭の横を抜けるあの打球を、どうやったらショートが捕れるのだ。

 動体視力、反射神経、瞬発力、そして何より守備配置の読み。

 この人は打撃において超絶した技術を持っているが、守備力も異常である。


「大介君ひどい!」

「そうだそうだー」

「未来の妻のヒットをアウトにするなんて!」

「そうだそうだー」

「やかましい! 誰が妻だ!」


 双子と大介の笑いは微笑ましいが、大介の超人的身体能力を見慣れていない者は、鬼塚のフォーク、椿の打撃、そして大介の超絶ファインプレイに魅了された。

 これは金が取れる映像だ。

 まあ大介の場合、甲子園での運の悪いエラーの映像が流れたであろうから、その守備力を認識している者は少なかっただろう。

 しかし本来の大介は真の意味で、走・攻・守の三つが揃った、完璧選手なのだ。


(いや、それにしても……)

 振り切った時、椿の体重が右足に残っていたのを、ジンは確認していた。

 膝の力を抜いてミートに徹した、あえて長打は狙わないボール球の痛打。

 それは確かに、イチローの打撃の要素を持っている。

「つか、なんであんなボール球を打つんだよ。まあイチローもそうだけど」

 そんなジンの疑問に対して、椿は割りとあっさりと答えた。

「ストライクを打つんじゃなくて、ヒットに出来る球を打つんだよ」

 それは打者としてのセオリーに反する。

 だが大介も頷いている。息が合っているな、おい。




 しかし、これで一打席目は終了。

「まあ、あたしの体格じゃ、イチローで内野を抜くのは難しいのかなあ」

 そう言った椿は、右打席に入りなおす。くるりとメットの向きも替えて。

 その竹刀をきゅっと絞るようなフォームにも、ジンは見覚えがあった。

(え? でも右?)


 それを見た桜は、ライト方向に走っていく。

「すみませーん、ライト変わってもらえます?」

「え? こっちに打つの?」

「ホームランにならなければ」


 ライトに入っていた三年は手塚を見るが、彼もジンも指示はない。

 直史だけが頷いている。

「大丈夫? まあかなり慣れてはいるみたいだけど」

「はい。ご安心を」

 そう言ってグラブを借りた桜は、ばっちこーいと声をかける。


 右に流し打つのか、と鬼塚は奇妙に納得していた。

 外野に引っ張るほどの力があるとは、とても思えない。

 しかしジンの方は背筋に冷たいものを感じた。

 この持ち方は、一見するとあの人だ。だがそれならば左打席に入るはず。

 それを右に。しかもどこかふてぶてしく。

 もしこれがあの人ではなく、右のあの人のフォームなら、ライト方向に打てる。

 まずはさすがに、様子見で外角へ外す。


 ストレートの見逃し方が、途中で完全に目を切っていた。完全にスイッチヒッターだ。

 ん~と声を出した椿は、そこから口ずさみ始めた。

「ぴっちゃーびびってる ヘイヘイヘイ! ぴっちゃーびびってる ヘイヘイヘイ! びびってる! ヘイ! びびってる! ヘイ! ぴっちゃーびびってる!」

 いや、むしろびびっているのはジンなのであるが。


 鬼塚も変に逆上することなく、ジンのサインを見る。

 外角へスライダー。今度はゾーンに。

 それを椿はバットのヘッドの遠心力で、逆らわずに当てる。

(うわ)

 バットとボールの接点が絶妙だ。ふわりと浮かすように角度をつけて、打球は右中間へと飛んで行く。


 手塚の足でも間に合わない。しかしライトには、代わったばかりの桜がいた。

 微妙に追いつくか追いつかないか。いや、追いつきそうな場所に既にいる。

 彼女は完全に途中で打球から目を切って、その着地点へと足を開いて跳躍する。


 グラブがボールを真上に弾いた。

 桜は空中で開いた足を閉じ、その勢いで体をひねり半回転させながら着地し、落ちてきたボールを右手で握り、そのままセカンドへ返球。

 ピッチングより、バッティングより、そのセカンドへの返球の間に、一番大きな歓声が上がった。


「なんぞそれ……」

 打球の方向を見定めるためマスクを外していたジンは、むしろ放心していた。

 珍プレー好プレーで数年に一度出てきそうな、そんなありえないものであった。

 空中での動きがおかしい。常識とは違う部分に回転軸が存在している。一瞬静止していたようにさえ見えた。

「ツーアウトー!」

 そして本人は平然としている。




 むしろ観客たちの方が、素直に驚いていた。

 比べると野球部員の中でも、ほとんどが呆然としている。

 二塁手の角谷も送られたボールはキャッチしたものの、それを鬼塚に戻すのを忘れている。

 野球経験者の方が、あの超プレイの凄さが分かる。


 あれは普通に捕球していても、確かにアウトのプレイだ。しかしもしランナーが塁を離れていれば、もしくはもう少し前でのキャッチングならば。

 その後のスローイングへの時間を稼ぐために、わざと一度グラブで球を弾き、スローイングへの体勢を整えたのだ。

 これは練習や才能で出来ることではない。

 想像力と、創造力が必要なプレイだ。


 またもぐりん、と直史を見て、彼はそこに平然としている兄の姿を認めた。

「あれ……いったいどうなってんの?」

「確かメジャーで誰かがやったプレイだよな。ネットで色々探してた時に見た。あいつらも見てたのか」

「見てたからって出来るもんじゃないと思うけど……」

「まあ単純に、普通に捕ったら服が汚れるダイビングキャッチになるのが嫌だったんだろうな」


 そういう問題ではない。

「やーっとお前が大概の場合で平然としていられるのか理由が分かったよ」

 それはもう、こういうプレイをいつも見ていれば、それは肝も座るだろう。何が起こってもおかしくない。

「妹さんは、どこで野球をしてたんだ?」

「俺や弟、あとは大介と遊んでたな」

「それはまあ、すごいことで」


 そういえば大介もあまり驚いていない。

「神宮なら女子も選手として出れたよな?」

 それは大学野球のつもりで言った。

「あいつらは公式戦は出ないよ。あまりにも周りが不幸すぎる」

 不幸。

 この言葉の選択は、的確すぎるのではないだろうか。

 おそらく女子野球でならば、この二人は投打の要となって無双する。

 いや野球以外でも、この二人の運動神経は、なんでも出来るはずだ。

 才能とか身体能力とかではなくもっと、純粋に肉体を動かす能力と発想が、優れすぎているのだ。


 この二人が出場できないのは、本当に野球界にとっての損失だと思う程度に、まだジンは二人を甘く見ていた。

「鬼塚は、もういいよな?」

「まあ、ベンチ入りさせていいとは思うけど……」

 ひそひそと話す二人の前で、椿はまた左打席に入っていた。

「椿、もういいだろ」

 鬼塚が割りとまともなことは分かった。出来れば椿の挑発に耐えていてくれれば、もっとすんなり認められたのだが。

「お兄ちゃん」

 しかし振り返った妹は、少しだけ寂しそうな目をしていた。

「あたし、一度ぐらいは本物のホームラン打ってみたいな」




 中学時代、二人の危険さを具体的に聞き、部活を辞めるように勧めたのは直史だ。

 小学生までは、まだ良かった。しかしそれ以上となると、もう隠し切れない。

 双子は素直に従ったが、全力で二人がプレイしたらどうなるか、自分でも分かったのだろう。

 そんな双子が、一度ぐらいとわがままを言っている。

「悪い、ジン、あいつ潰すかも」

 直史はここで将来有望かもしれない一年より、妹の願いを選んだ。

「潰すかもって……」

「女にホームラン打たれたら、立ち直れないかもしれないしな」


 正気で言っているのか、ジンには分からなかった。

 文脈から言えば本気に決まっているのだが、あの打ち方でホームランにならないなら、他の打ち方でも難しいだろう。

 広角打法。右方向にもスムーズに打つ打法で、バットの入れ方も素晴らしかった。

 芯を食えばパワーがなくてもホームランになるというのは本当だが、そもそもその芯を食わせるためのバットコントロール分の筋力は最低必要なのだ。

 大介の打撃が再現出来れば打てるのだろうが、あれは圧倒的に瞬発力のある筋肉が必要だ。

 体重差から考えても、大介の真似では出来ない。

「打てるかどうかはともかく、後でフォローするのは助けろよ」

「その程度なら」


 キャッチャーボックスに座ったジンが声をかける。

「鬼塚! ラスト一打席!」

 そう、この試験は三打席によるものだ。

 当たり的には完全に敗北している鬼塚だが、だからこそここで投げなければいけない。

 自分が、もっと野球をしたいのだと伝えるためにも。


 そしてその熱意は、椿にも伝わった。

 左打席の彼女は、それまでと少し変わった、ごく普通のやや内側に小さくなる構えをした。

「いっぱつかましたれ イェイイェイイェイ いっぱつかましたれ イェイイェイイェイ かましたれ イェイ! かましたれ イェイ! いっぱつかましたれ」

 呟くように、歌う少女。それはとても無邪気で楽しそうだった。




 時に幼児の無邪気さは、残酷な殺戮をもたらす。

 蟻の巣を破壊するように、興味のままに楽しんでしまう。

 ジンはただ、無言でサインを出すのみ。

(インローっすか)

(そう。前の打席を考えても、やっぱりホームランにするには、遠心力が必要になる)


 野球は内角の方が長打になりやすいが、それはパワーではなくミートの領域の話なのだ。

 単純なパワーなら、スイングに遠心力が追加された、外角の方が理論的には遠くに飛ぶはずだ。

 それが内は危険というのは、それだけより、ミートによってパワーがちゃんと伝わるからだ。

 実際、前の打席では外角を外野に運ばれた。


 この長いバットを腕を折りたたんで振り、満足に力が伝えられるとは思えない。

 もちろん規格外だということは証明されているが、それでも今までの打席では、不可能を可能にしているわけではない。

 この打席に立つ少女は、人間だ。


 振りかぶった鬼塚は、体重をしっかりと乗せた、この日最速の135kmをインローに投げ込む。

(打つならやっぱり)

 タイミング。全てはそれだと椿には分かっていた。

 左打席。投手のフォームに合わせて、右足をすっと上げた。

 全てのパワーを叩きつけるため、打撃の予備動作をあらかじめ一つ減らす。


 それはおそらく日本において、イチローの振り子打法よりも、落合の神主打法よりも有名な、まさに伝説の打法。

 神に祈るほどの努力を超越した、超人のみが至れる領域。

 一本足打法。資質がなければ会得は不可能とも言われている。そして資質があったとしても、常識の鍛錬ではなし得ない。

 だが実際はそうではない。タイミングを測るために、これは必要だったのだ。

 バランスと、タイミング。

 ほとんどの動作は、この二つで成り立っている。


 インナーマッスルから発生する腰の回転と、体重移動。細い腕でも、タイミングが合って正確にミートが出来れば、打球は飛んで行く。

「王でしょうーっ!」

 内角の球を器用に折りたたんで、むしろゆっくりと見えるほどに、スイングはボールを捉えた。




 相次ぐホームラン性の打球から周辺を守るために継ぎ足された、大介フェンス。

 それをあっさりと越えて、打球は場外ホームランとなった。


 今度こそ間違いない。

 どんな優れた野手でも介入の出来ない、最高の一発だった。

「いっちるいだ! イェイ! にーるいだ! イェイ! さんるいまわってほーむらん!」

 ベースを踏んだ椿を、俯く鬼塚は見ることさえ出来なかった。


 野球辞めたい……。


 これは生き恥だ。切実にそう思った。

 そんな鬼塚だが、崩れ落ちていないだけ、まだ根性がある。

「辛いだろ。野球辞めたくなったか?」

 近付いてきた直史がそう声をかける。

「分かる。俺もずっと、あいつらに見せられてきたからな。でもそれでも悔しかったら、立ち上がって練習するしかないんだよなあ」

 甲子園でノーノーを達成したような投手が、それでも認めざるをえない。

 鬼塚は顔を上げた。


 直史はとんと鬼塚の胸を叩く。

「合格だ。背番号20な。あとそれと、笑われたところでキレたのだけはマイナスだぞ」

 鬼塚は赤面しながらも認めざるをえなかった。

 自分が、あの二人にとっては、完全な雑魚だったことを。

「たまには発散させてやらないと、制御出来ないところで爆発するからなあ」

 苦笑する直史であった。




 特大級の爆弾であったが、どうやら爆発はしなかったらしい。

 双子が派手に動くと、これよりもひどいことがあるので、武史は安心した。

 やはり兄の目があると違う。

 直史は間違いなく長男だ。


 しかし武史が安堵するのはまだ早かった。

「タケ!」

 弟を呼んで、ちょいちょいと手を振る直史。

 目立つのは嫌いではないが、こういう目立ち方は好きではない。

 ただでさえ双子が爆発したのだから……いや、あのツインズの後なら、何が起こっても普通である。


 歩みだした武史は、直史の隣に立つ。

 ずっと自分よりも背の高かった兄だが、もうほとんど変わらない。

「ジン、ちょっとこいつ見てくれ。サウスポーで使えるかどうか」

 これである。


 武史の才能は、兄や双子に比べると、ずっと常識的だ。

 もっとも直史の方はそう思っていない。

「左か。うちは左投手、まともなのは一人もいないからなあ」

 ジンの目がキラキラと輝いている。


 佐藤武史。巻き込まれ型主人公の誕生であった。

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