第二十四話「最後の砦」

かく、これで全部だよ。野田君が探していた、本当のわたし。ふふふ、わたし貴方あなたが思うようない人じゃなかったでしょ? だから、野田君がこれ以上わたしに関わる必要はないんだよ」

 微笑を浮かべるふしの口調はきわめておんである。そうか、これが俺の見る最後の伏見になるのか。

 事実、伏見は理想の人ではなかった。彼女にとっての人助けは現実逃避の手段であり、思いやりの行動ではなかったのだ。カントなら迷わず伏見を偽善者と呼ぶだろう。俺と同じ偽善者。結局、伏見は必要条件の理論の反証ではなかったわけだ。だからきっと、これに関して彼女から得られることはもう無いのだろう。

 でもそれが何だというんだ。

「俺にも姉ちゃんがいる」

 俺はにわかに語り出した。

「そう、だったね」

「俺の姉ちゃんはいつもふざけてて、俺にまでボケ倒してくるような面倒な人なんだけど、話してると明るい気持ちにしてくれる面白い人なんだ」

 低い声を吐き続ける俺を伏見は呆然ぼうぜんと見つめている。

「それに、家族のグループチャットがあるんだけど、時々会話の通知がうるさいぐらい家族仲がい」

 まずい、これでは家族自慢みたいになってきた。

「つまり何が言いたいかというと、家族が消えたらどうなってしまうんだろうって考えてみたんだ。俺はきっと、ひとりでは生きていけない。俺はまだ『君が失ってしまったもの』に守られている。それが当たり前だったから、伏見が家庭問題を抱えてるとは思いもしなかった……」

 俺は伏見に向き直って「なにか、俺にできることはないか? 何でもい。何でもいから伏見の役に立ちたいんだ」と告げる。

 伏見ははかなく笑って答えた。

「気持ちは嬉しいよ。だけど、野田君に甘えたらいけない。わたしは大丈夫だよ」

 危うい。伏見は漆黒しっこくの海に飲まれ、もがくことも助けを求めることもなく底へと沈んでゆく。ここであきらめてはいけない。

つつしみ深いのは、美徳だと思う。だけど伏見の場合は遠慮が過ぎてる。君が静かに我慢してしまうから、周りはその苦しみに気付けない。もっと君の気持ちを話してくれよ。平気だなんて、嘘だろ?」

「嘘じゃないよ、あの家を耐え抜いたんだもん、一人ひとりで生きていくくらい――」

「伏見は強いよ。でも強いからといって、耐えなければならない訳ではないだろ。君はもう充分過ぎるほど我慢したじゃないか。つらいなら、そう言ってほしいんだ」

 強い人はびんなのだ。痛みに鈍感な人は自分がどこまで傷付いているのか分からない。そしていつしか満身創まんしんそうになって再起不能におちいってしまう。立ち直れるとしても物凄ものすごく時間がかかる。

 一度つぶれかけた人だ。伏見はきっとまた壊れる。自身を思いやれない人は何度でも壊れてしまう。

「で、でも、わたしがこれ以上貴方あなたの足を引っ張ったら駄目だよ」伏見が訴える。

いよそんなのどうだって! 俺が伏見の傍にいたいんだ。このまま君をひとりにさせるのはどうしても嫌なんだよ!」

 この言動が俺の成長につながる保証はないというのに、俺は一体なにに突き動かされているのだろう。当時の俺にはそれが分からなかった。しかし後になって気が付いたのだ。恐らくこれが、芝原しばはらの感覚なのだと。これが真の人助けなのだと。理想にこだわっていた自分が余りに小さかった。必要条件の論理も、善い人になるという夢も関係ない。俺が今すべきことは伏見の力になるということ。理屈めいた動機など要らなかったのだ。伏見をひとりにしたくない。伏見に心から笑ってもらいたい。人を助ける理由など、それだけで充分じゃないか。

「俺は、君の最後のとりでになりたい!」

 俺はさけんだ。

「君がまた人を信じられなくなっても、くじけそうになったとしても、俺が君のり所になる。もう絶対に君を裏切らない! 俺は、伏見の全てを受け入れる存在になりたいんだ。だから、遠慮ばかりしないでくれよ。俺の前ではつくろわなくてい。俺にも、伏見自身にも、もう嘘をつかないでくれ……。君の本当の気持ちを、俺に教えてくれないか」

 感情が言葉をつむぎ出す。彼女のからを破れと心臓が叱咤しったする。身魂しんこんひどく熱かった。俺達は涙目になって見つめ合う。

 伏見は「わたしわたしね。もう一つ、言ってない事があるの」と最後の隠し事をあらわにした。

「最近、夢を見るの。わたし達が幸せだった頃の。それで目覚めてこう思うの。現実の方が夢だったらどんなに良かったかって。あの温もりは、もう二度とわたしを包まないんだって。これからわたしは、ずっと家族にあこがれて生きていくんだって」

 伏見がうつむく。

さみしい……。すごく、さみしいよ。ひとりは、さみしいよぉ……」

 声は揺れていた。まぶたは涙で一杯だった。それでも伏見はしずくこぼさなかった。


 湯を沸かし直して、二人ふたりで紅茶を飲んだ。日も随分ずいぶんかたむいている。

 伏見がノートパソコンにやわらかい視線を送りながら「わたし、野田君があの動画を見てると知って肝を冷やしたよ」と言った。

 俺は少々バツが悪くなる。

「言い訳がましいけど、一応俺は最後まで見れてないからな」

 伏見はくすっと笑った後「そうじゃなくてね。『あぁ、お姉ちゃんからは逃げられないんだなぁ』って思ったの。これはなんにも出来なかったわたしへの呪いなんだって」と俺の解釈を訂正し、切なそうに紅茶を口にする。

「もし呪いのようなものがあるんだとしたら、それをかけたのは君自身なんだと思う」

「……そうだね、野田君の言う通りだよ。なにもしないことを選んだのは自分なのに、今更いまさら後悔ばかりしてるなんて、そんなの自業自得なのにね」伏見の返答は弱々しい。

「えっと、そんな手厳しいことが言いたい訳じゃなくて、俺にはさ、傍観や逃亡の罪悪感から自らを罰そうとしているように見えるんだ。だからその呪いは、自責のために君が作り上げたものなのかも知れない。きっと君は恨まれてなんてないって言いたかったんだ。悔やんでる人を、責めはしないよ。一番悲しかったのは、伏見なんだから」

 しかし当人は「悲しい? でも、とくを知った時も、火葬の時も、わたしは……なにも思わなかった。悲しくは、なかったよ?」と小首をかしげる。じゅんしんな眼差しが余計に心痛い。

「伏見、何言ってんだよ。大切な家族を失って、悲しくない訳がないじゃないか。だって君は、お姉さんの事が好きだったんだろ?」

「ふぇ? いや、嫌いではなかったけど、わたしは別に――」

 軽くどぎまぎした伏見はしばらく黙り込み、自身のほうあごでながらかえりみる。次第にうっすら赤面しつつも、やがてゆるりとに落ちたような表情へと変わった。

「……そっか。わたし、好きだったんだ。認めたくないほど、なおに、悲しめないほど、お姉ちゃんが大好きだったんだ……」

 伏見は目を落とした。声は再び揺れ始める。

「野田君。今、お願いしたい事が出来たの。貴方あなたにしか頼めない事。手伝ってくれる?」

「ああ。なんでも言ってくれ」

いまだにね、もう会えないっていう実感が、かないの。唐突とうとつだったし、理解するのが怖かったんだと思う。死んだのはくろ百合ゆりという別人で、お姉ちゃんはだどこかで生きてるんじゃないかって、自分をだまし続けてた。お姉ちゃんからも、自分の気持ちからも、ずっとずっと目をそむけてきた。だけど今なら……ちゃんと向き合える気がする。野田君とならわたし、お姉ちゃんとお別れが出来る気がするの。わたしの中のお姉ちゃんを、終わらせてあげたい」

 伏見は顔が隠れるほどにうつむき「あの動画を、わたしと一緒に見てほしい」と願った。

 落ち着かない俺達は机に向かってりちに正座した。肩を並べ、くろ百合ゆりの性行為を黙って見つめる。伏見は恐らく負のしがらみを解くには今変わらねばならぬと腹をくくったのだと思う。だけれどやはりつらそうだ。元より八の字の眉がさらに急勾配こうばいになっている。時折、肌色から思わず目をらしていた。肩に力が入り、ひざに置かれた手がさいに振動している。俺はその震えを止めてあげたかった。そして、彼女の小さな右手をそっと握った。伏見は体をびっくりねらせ振り向く。不安につぶされそうな顔をしていた。

「伏見、もうやめようか」

 俺はこれ以上彼女のおびえる姿を見たくなかった。しかし伏見は今にも消えそうに「ううん。わたしは、お別れしたい」と答えて、俺の左手を握り返した。交点は二人ふたりの間で宙に浮かぶ。

 俺達は手をつないで、各々おのおのの呪いと立ち向かった。ここで涙が一筋、一筋とこぼれ始める。妹の涙など気にも留めず、姉は快楽におぼれ続けた。部屋にはくろ百合ゆりあえぎ声が、肉のぶつかる音が響く。

「ごめんね。……だめな妹でごめんね、おねぇちゃん」

 語りかける伏見はいっそう手を固く握った。

「ばいばぃ。……ばいばい、わたしの、おねぇちゃん……」

 無数の涙が彼女のほうつたった。右頬みぎほほたたずむ泣きぼくろが涙に溶け込んで、彼女のワンピースに黒い染みを作っているかのようだった。鼻も少し垂れていた。伏見は涙で顔をぐしゃぐしゃにして姉の最期を見送った。いや、恐らく涙でなにも見えていなかったと思う。これが伏見の我慢してきたものなんだ。これまでの我慢が今せきを切ったようにあふれ出ているんだと感じた。俺も少しもらい泣きしてしまった。伏見はこの数十分間、最後まで俺の手を離さなかった。

 視聴後、伏見は涙をぬぐいながら「家族だったことを思い出しちゃうのは、さみしいけど、こんなにもさわやかな気持ちになれたのはとってもひさり……。野田君、有難ありがとう。わたし貴方あなたに出会えて本当に良かったよ」と笑顔で礼を言った。

 役に立てた喜びと、伏見への同情と、未来に対する不安と期待、そこに足のしびれが加わったことで、俺には彼女ほどみ切った表情ができなかったと思う。

「俺も、伏見のお陰で最後まで見れた」

 しかしどうあれ俺達は前へ進み始めたんだ。成長の限界だと感じた高校生の俺達から、次のステージへ進むための一歩。俺はそれを、十八歳が終わる前に伏見と共に踏み出した。

「そっか、どうだった?」

 伏見は充血したまなこで当然のごとく質問した。かんで見れば、交際関係にない男女がいかがわしい動画を一緒に見ること自体おかしな状況だというのに、その感想まで求めるとは。君は思っていたよりもはるかに変な人なのかも知れない。俺は少なからずまどった。まどったが、君に嘘をつかないと決めた俺は正直に答えることしかできない。

「ちょっと興奮した」

「えっ」

 伏見は少し不機嫌そうに「野田君、それどういう意味?」となじりながら、目をらす俺をのぞきこんでいる。


 咲き乱れる呪いの花に包まれて、少女はずっと立ち止まっている。少女はこのまま待っていればいつか光が射すのだと信じていた。そこに現れた少年が、共に暗闇を抜けようと少女に手を差し伸べた。黒の花々をき分け、道無き道を二人ふたりは手を取り合って歩いてゆく。本当に出口など有るのか分からない。それでもこの先に二人ふたりを照らす光があるのだと信じて、少年少女は歩き続ける。二人ふたりいつわりなきたびは、今、ここから始まった。

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形而上下 宮瀧トモ菌 @Tomkin2525

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