第二十三話「闇」

 事情聴取を終え警察署を去ろうとした時、三十路みそじ前後の二人ふたり組がしゅうえんみたようなおもちでわたし達に声を掛けてきた。男達は私を目にして恐怖をきんないようだった。なにも知らないふし家の三人は、彼くろ百合ゆりの関係をさっせずにいたが、場所を変え、話を聞く内に事の全貌ぜんぼう漸々ぜんぜんめいりょうになってゆく。

 二人はまつの数日間、黒百合と同棲どうせいしていた者達だった。昨日さくじつ、彼は酒をんで日付をまたぐつもりでいたらしい。しかし黒百合が不調を訴えたためにベッドまで肩を貸してやったのだそうだ。彼女を横にした後は男達だけで夜をかしていた。そのはん過ぎ、改めて具合をたずねたところ、なま返事をり返していた黒百合はほどなくおうし失神に至ったのだと言う。その時百十九番を押したのも彼である。ひっきょう、一命は失われてしまった。男達はそこまで話して深く低頭する。しんしょうしていた。必死だった。そして男達は全てを語ったのだ。

 彼は家出中の女性などに対して寝泊まりを許し、幾許いくばくかの現金を渡す代わりに、彼女ごとに性のけ口として使い、その様子を独自のサイトに公開するという非道な趣味をもっていたのだ。そしてこれは全て法の目をくぐり、丁寧ていねいに合意をとった上での事である。巫山戯ふざけた話だが、私が調べた限りでは罰則のある法律には一切触れていなかった。実際、検視でも事件性はないと判断された。

 検案の結果、急性アルコール中毒が遠因ではあるが、直接の死因はしゃ物にる窒息だと診断された。行為におよぶ前などに黒百合はエナジードリンクや酒の缶をいくつも空にしていたらしい。その飲酒を彼が強制した、またはようじょ者を遺棄いきした確証でもつかまなければ大した罪には問えないと思われる。私はそれでもたたかうのだろうと予期したが、父はサイトの閉鎖を条件に不問にすると告げた。母は父の処置に納得しなかった。私は両親のいざこざを平生へいぜいように黙って傍観している。

 後日、確かにサイトは跡形もなくなっていた。男達はこれにりて界隈かいわいから足を洗うのだろうか。逆に死者が出ても存外どうにかなるものだと別の根城を構えるのかも知れない。彼爾後じごに関わらず、すでに複製されてしまった動画はサイトがくずになろうと誰かがネットにアップロードする。それを父は知らなかったに違いない。黒百合のたい永々えいえい海原うなばら漂流ひょうりゅうし続けるのだ。

 黒百合の死相をの当たりにした時、私達はこれほどにも似ていただろうかといぶかしんだ。ひつぎの横に安置された亡骸なきがら半身はんしんのぞかせ真っ白な布に包まれている。その蒼白そうはくな顔を見つめていると、自分の未来を見せられているような不可思議な感覚に襲われた。そして服姿の両親とそう屋の男性と共に黒百合を納棺のうかん。死後硬直の緩解かんかいは始まっていたもののいま四肢ししこわばったままだ。腹部で組まれた手が心持ち浮いて、もたげられた布がテントのようになってしまっている。私は腕を直してあげようと思って、はくめくった。そのせつ、彼女の手首に刻まれた無数の自傷こんが私の目に飛び込んだ。受験期より数倍に増えていた。私は大慌てで布をかぶせて彼女の歴史を隠蔽いんぺいした。黒百合が何を考えていたのか、想像するのも恐ろしかった。自分に出来ることはなにも無かったじゃないか。黒百合の死は本人の心の問題だ。彼女のもつ名前のない障害の所為せいなのだと自己に言い聞かせた。

 余りに卒然そつぜん経緯いきさつが不名誉だったため、悩んだすえに両親は直葬を選択。三人でひそかに葬送そうそうした。友人はおろか親戚すら呼ばなかった。私は高校の冬制服を着て、斎場へ続く長い坂を車に揺られながら登った。道中みちなかの車内、父も母も私も一言さえ言葉をらさなかった。

 黒百合が火葬炉に閉じ込められ千度にも達する炎で焼かれている間、ひかえ室では母がしきりにむせび泣いていた。父は口をつぐんで硬い表情をくずさなかった。私も泣かなかった。遺族は一室でりになって座っている。部屋には母のえつの声だけが響いた。私はあれほどにごころの悪い場所を知らない。たまれなくなった私は外へ出て、いた駐車場を抜け、秋空のもとさくの前にっ立って一人ひとり景色をながめた。

 火葬場は低い山の中腹にった。両脇を山々にはさまれ、正面の奥に海が縹渺ひょうびょうと広がる。その手前で道路がじゅうおうに重なり、許多あまたの車が徂徠そらいする。私達の町が随分ずいぶん遠方にるように感じた。快晴とはいかないが、長閑のどかで悪くない眺めだ。秋山はまばらに紅葉し、機嫌の悪い風に葉を揺さぶられている。その秋風にあおられて谷を越える小鳥は飛びづらそうにしていた。うっす湿しめった風だった。

 振り返ると、斎場から昇るかすかな煙は、はるか上空を浮かぶ雲と一つになろうとしていた。ここは山の上である。ふと火葬場が高ければ浄土や天国に近いのだろうかと考えた。はたまた親不孝者はごく行きか。それとも、あの世など初めからないのか。もしないのなら、その方が良いのかも知れない。どうせ彼女は霊界でもこくひょうを受けてしまうのだろうから。三悪趣さんあくしゅのいずれかにとされるくらいなら、きっと無になれた方が幸せだろう。私は空へと駆け上がるうすけむりを、あわれむこともなく、悲しむこともなく、ただただ視界に入れていた。

 世界は私の心持ちなど知らずに過ぎてゆく。いや、私すら自分の感情が分からない。私はどうしたいのだろう。泣きたいのだろうか。誰かになぐさめてもらいたいのだろうか。黒百合の死は私の所為せいではないと、あらかじめ決められていた運命だったのだと明言してほしいのだろうか。これから私の家庭はどうなってしまうのだろう。

 ただ、世界は動く。私達を置き去りにして。時は留まることを知らない。また、風が吹いた。短い髪を乱しながら、私は少し寒いと思った。この町には人が生きている。みな必滅するのだということを失念して生きている。彼なにも知らない。一人の人間が灰になっていることなど知るよしもない。ただ私達以外の日常は続く。私達家族だけを残して、地球は回った。

 黒百合は談話の第一声をになうことの多いじょうぜつ家である。良くも悪くもこの家庭の火付け役は彼女だった。それを喪失そうしつした三人は言葉数をごとに減らしてゆく。両親の対話はどこか余所々々よそよそしくてほんを隠しているのが分かった。心の交流はなく、一緒に居るだけという状況が続く。家庭にたましいを喰らう妖怪が巣作っているようだった。私は時折、人生を投げ出してでもこの家から遁走とんそうしたいと願った。だけど私が死ねば両親は全ての子を失ってしまう。それは絶対に駄目だ。両親をこれ以上不幸にしてはいけない。だけど私達は生き写しの姉妹だったから、両親は私を見るとどうしても姉がぎってしまう。私は空気にならねばならない。親元を離れねばならないと考えた。ただ何所どこかで生きているはずの存在になって、それ以外の私を忘れてもらわねば気の毒でならない。

 だから私の大学選定は、あの土地から離れられることが第一条件だった。私が関西に行こうとしたのは、近しい親戚も両親の知己ちきも居なかったから。当初、私にとって受験は逃亡のしたという意味合いが強かった。おのが将来の事よりも、びんな両親と心地ごこちの悪い実家からのがれたくて私は勉学にはげんだ。

 私が面倒事を引き受けるようになったのはその頃からだ。取り立てて言うほどの依頼はなかったけれど、帰宅を遅らせるために居残り作業のような仕事を進んでやった。なにかをしていたかった。その間だけでも家族を忘れることが出来たから。だから、私は本当にい人なんかじゃない。そんな小さな抵抗でなにも変わらないのは分かっていた。そくだということも。

 かく、私は逃げるために机に向かった。だけどそんな動機で鼓舞こぶされた精神はぜいじゃくだった。しょうとくの引っ込み思案で、高校にもろくに居場所が無かった私は、息の詰まる家庭に耐えしのぶ内に徐々におかしくなった。あれは二年生の三学期初めのテスト中、突如とつじょとして問題の意味がとらえられなくなったのだ。文字列を見ても内容が頭に入ってこなかった。脳が妨害ぼうがい電波に侵されたかのように思考にノイズが重なった。何度も読もうと試みた。だけど目が文字の表面をなぞるだけで、文章の構造が理解できない。ペンが全く動かない。なのに、同級生達の解答用紙が埋まってゆく音が聞こえる。次第にどうがし始めた。比喩ひゆでなく本当に息苦しくなった。怖くなって、私は解答をほうした。結果が赤点になるのは明らかだった。真因はストレスだったのだろうが、その時の私は単に物理が出来なくなったのだと勘違いして図書室へ急いだ。考え方も多少くるっていたのだと思う。


「そして野田君、貴方あなたに助けられたの」

 ふしはまっすぐ俺を見て言った。んだ目をしている。俺は伏見のつむぐ長い打ち明け話を黙って聞いていた。伏見の語りは続く。

「元々人と上手うまく話せなかったわたしが、家族とも話せなくなった時、貴方あなたと楽しい会話が出来たのは、わたしにとって大きかったんだと思う」

 伏見は少し早口で「だって普通の問題文が読めなくなったわたしが、難解な本を読めるようにまで立ち直ったんだよ?」とやわらかく語尾を上げた。その表情はもう暗くなかった。

「だからね、野田君はわたしの恩人なんだよ。隣で頑張ってる野田君を見て、わたしも頑張ろうって、なにかもっと前向きな目標に向かってみようって、そう思えたの。貴方あなたが居なかったら、きっと家と受験のストレスでつぶれていたと思う。だからわたしが大学に合格できたのは、野田君のお陰なんだよ」

 伏見は卒業式の日に発した台詞せりふり返した。

「あれは、そういう意味だったのか」

めんね。あの時は打ち明ける勇気が無かったから。ふふ、感謝だけを伝えられても意味分からないよね」

 伏見は口元をほころばせてそう言った。そのさわやかな微笑ほほえみを見ると、先ほど語られた家庭問題のちゅうにいる人には思えなかった。正直、俺は伏見の過去をまだ飲み込めないでいる。

「今、伏見の家庭はどうなってるんだ」

 俺はおくせず質問した。

「あの二人はね、もう離婚しちゃったの。受験生だったわたしに気を使ったのか、隠れて準備してたみたい。最後までなんの相談もしてくれなかった」

「それで、伏見は大丈夫なのか」

 伏見はきょとんとした後、とてもなつかしそうに「仕方ないよ。それに、あの家に居るのは私もつらかったから。一人ひとりになれて、今はスッキリしてるよ?」と告げた。

 俺はどう声をかけて良いのか分からず、伏見を見つめる。人はそう簡単に吹っ切れるものだろうか。

 俺達はひざを突き合わせて机の前に座っていた。電気ケトルで沸かした物はすでにぬるま湯になってしまったことだろう。時刻はもう、午後四時になろうとしている。

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