第二十二話「黒百合」

「野田君の言葉を、信じるよ。本当の事を話してくれて、有難ありがとう」

 俺は顔を上げた。ふしおもちはみずかがみのように静かだった。何故なぜあんな告白を受けて礼が言えるのだろう。

「野田君はだ、わたしい人だと思ってるんだね?」伏見が確認する。

「ああ。俺には、伏見が輝いて見える」

 伏見はうっすら表情を曇らせた後、深呼吸を一つしてボソボソと語り出した。

「野田君が腐心していほどに、わたしに価値なんて無いの。貴方あなたわたしを救ってくれた人だから、ままわたしが、貴方あなたの未来をこれ以上邪魔してはいけない」

 伏見は似つかわしくない言葉で自身を形容した。

「わがまま? 伏見がいつわがままだったんだ」

「我がままだよ。わたしは、善い人なんかじゃないの。少なくとも卒業式の日は違った。実はね、相談してくれた時から、貴方あなたの目標を応援するんだって決めてたの。それなのにわたしはあの日、『野田君が善い人になれるかなんてどうだってい。ただ貴方あなたを失いたくない』って思った。だからわたしは『分からない』って言ったの。あの時ね、わたしが真実を口にしなければ、野田君はそばに居てくれるって思ったんだよ? そんなの我がままだよ。わたしはあの日、見捨てられるべきだったの。だから野田君は、わたしの事なんかで悩んじゃいけないんだよ?」

 でていた虚構きょこうに傷が入る。探し物が今、伏見の口からあふれ出ているのに、俺は無性に耳をふさぎたくなった。

「本当の、本当の事を話すよ。そうすれば野田君はもうわたしまどわされなくて済む。そして貴方あなたの方から、わたしを見限ってほしい。わたしは充分光をもらったから、もうひとりでも生きていける。だ一緒に居たいなんて贅沢ぜいたくは言わない」

 五臓がつぶされてゆく心地ここちがする。

「伏見、やめよう」

「駄目だよ、ここで終わりにしなきゃ。貴方あなたの人生にわたしは要らないから。それにね、やっと心の準備が出来たの。だからめないで……」

 伏見がうつむく。

「これは、一生誰にも話せないと思ってた。きっと、墓までもっていくんだ、ずっと、ひとりで抱えていくんだって、そう思ってた。多分わたしは、誰も信じられなくなってたんだと思う。でも、野田君は誠実だから。わたしに嘘をかないから。わたしも、貴方あなたを信じたいと思ったから。それにこんな偶然、きっともう無いだろうから。わたしも、最後に本当の事を話したい」

「伏見……」

 意味もなく、彼女の名が口からこぼれる。

 伏見は「めんね。り、中々上手じょうずに言えないなぁ」とはかなくはにかんだ。スカートを握りめながらたどたどしく続ける。

「その人はね……くろ百合ゆりは、わたしの……わたしのお姉ちゃんなの」

 俺は真っ暗な宇宙へほうり出された。

 くろ百合ゆり。それが、伏見の闇――。


 わたしくろ百合ゆりは三つ歳の離れたうり二つの姉妹だ。単身の容姿だけでどちらなのか識別するのは容易な事ではない。二人ふたりの髪色がだ同じだったぶん、私達はいくとなく縁戚えんせきに名を呼びたがえられていた。先天せんてん的なものなのか姉は幼少期から視力が弱かったから、私が裸眼だった間は眼鏡めがねの有無によって二人は区別されていた。現在の平明な相違点として、姉の背丈は私ほど珍竹林ちんちくりんではないこと、肉付きだって遥かにえんであること、そして性格が補色のように似ていないことが挙げられる。

 私の家庭は四人家族。不仲ではないが、時に家庭は戦場と化すことがある。ただその大概たいがいは両親と姉の軋轢あつれきで、彼女を止めるすべをもたない私はそれをただきょうしゅ傍観することしか出来なかった。じょうらんちゅうるのは決まって私の姉だ。る意味、いまだにそうである。

 姉は喜怒哀楽に各々おのおの別人格がそなわっているような人だった。歯の見える豪快ごうかいな笑い顔も、いら立ちを物にぶつける姿も、くじけて自室にこもるのも、眠い時や酔った時の甘ったるい話し方も、全てが同じ人間とは思えないほど気性のむらが激しい。かくさいな事でぐに機嫌をそこねた。同級生とのけんなど毎度の事である。学校で問題を起こしては両親に叱責しっせきされた。それと比較されて育った私はいつも良い子だと評価された。私はそのたびまとにされやすい姉が少しびんになる。彼女も悪い面ばかりではない。怒られ慣れてるからと言って私の過誤かごかばってくれたことがあった。意地悪な学友から守ってくれたことも、体調をくずした私を掛り切りで看病していたこともある。平然とドラマを鑑賞する私の横でよく大粒の涙を流して感動していたし、上機嫌だとおどりしてしまうという微笑ほほえましいくせだってあった。じゃっかん不真面目でげんも少し荒かったけれど、裏表が無く嘘をかない。姉は過保護なぐらい私に優しかったから、私が彼女を嫌厭けんえんすることは一度たりともなかったのだ。

 姉は、花や植物につうぎょうしている人だった。彼女の部屋には世界中の花卉かきやらぼくやらがった分厚い図鑑が数冊有って、それしょを圧迫しているのだ。私が植物の事をたずねると姉は必ず嬉しそうに答えてくれる。植物図鑑を手に取り、いてない事にまで説明が広がった。姉妹で肩を並べて一つの本をのぞき込む。私はその時間が好きだった。

 そう言えば、私の苦手を克服しようと庭で茄子なすを育てたことがあった。大きなプランターに植えられた紫色の植物を、小学生の姉妹は丹精たんせい込めて交代々々でお世話した。薄紫の可愛かわいらしい花を咲かせた時は姉と抱き合って喜んだのを覚えている。収穫に至った物はわずかだったが、二人ふたりの愛情を受けてせいちょうした子供達は食卓に並んでも堂々としていた。り食感はだ苦手だったけれど、しょくをしかと感じられた気がした。そんな私を見て、家族が感歎かんたんの声を上げた。家族が、笑顔で食卓を囲んでいた。

 次は、私が中学校に進学してからの話。すでに近代文学や哲学書の虫となっていた私は、読書のし過ぎなのか日に日に板書が目視できなくなる。そしてついに眼鏡の購入を決意した。姉はその買い物にこころよく付きってくれたのだ。

「おそろいのメガネ買ってみない?」

 この提案はきっと姉の気まぐれだったのだろうと思う。だけどあの日、眼鏡屋で二人してああでもないこうでもないと様々な商品を掛けたり外したり鏡を見たり互いを見合ったりした時間は、姉と過ごした最も楽しかった時間の一つだ。この眼鏡はその時買った物。私が桃色で、姉が赤。気分屋の姉は元々眼鏡を複数持っていたから、彼女にとっては新品が増えただけなのだろうが、姉とおそろいの色違い、私は単純に嬉しかった。

 そんな姉の夢は、花屋か植物学者。少なくとも小中学生の間はそうだったはずである。だけど万物ばんぶつの中で最もてんするものが彼女の夢だった。唐突とうとつに海外の紛争地帯に行きたいと発言したこともあったと記憶している。なにいても落ち着きを知らない人だった。加えて向こう見ずで、思い込みや考え違いも多く、かく問題ばかり起こす児童だったから、何度か障害の有無を検査したことがあったらしい。結果として、姉は精神発達障害ではなかった。少々特殊な個性のはんちゅうだと診断された。その事を姉は後にこう語っている。

「アタシは障害者って言ってほしかった。だって平気な顔して周りに合わせられる人ってズルいもの。みんなと同じになるのに、なんでアタシだけ苦しまなきゃいけないの? アタシだってねガマンすればできる。でもガマンしないとできない。名前のない障害だから、全部アタシのせい。自己責任。全ては性格の問題で、原因はアタシの甘えなんだって。アンタ、アタシの言いたい事分かんないでしょ。でもね、分かんない方が幸せなのよ」

 これは姉が高校生の時、私に言った印象的な言葉だ。最後の台詞せりふを彼女は淡々と、他人事のように淡々と発した。私は姉に言葉を掛けることが出来なかった。何もほどこしてあげられなかった。……いや、しなかったのだ。私は論拠も無く、彼女は次第に穏やかになってじんじょうな大人になるのだと信じていた。信じることで何の行動も起こさなかった。

 私の期待とは裏腹に、姉は大学受験を機に一段とおかしくなった。へんに己を否定されている気分にでもなったのか、判然はんぜんとしない将来への不安に耐えられなくなったのか。時折親の目を盗んで飲酒や自傷をするようになったのだ。私は彼女の手首から血が垂れているのを二回は目撃したことがある。

「どうしてそんなことをしたの!」

 母が怒鳴どなると姉は「知らない。意味なんてない」と投げやりにそう返答した。元々おかしな人ではあったが本当につかめなくなってしまった。私は彼女への理解をあきらめたのだと思う。そう、それも自覚できないほど自然に。

 それでも姉は地元の大学にどうにか合格した。よって姉は電車に乗って通学することとなる。同時に私もあの進学校に入学した。あれは最寄もよりの高校だったから、姉妹の実家暮らしはだ続くと思われた。紆余うよきょくせつあったが、互いの道をちゃんとあゆんでいると感じていた。

 しかし晩秋に事件は起こる。当時姉は家族とのゆうをすっぽかしたり、朝帰りしたりすることが多くなっていた。それどころか数日間平気で帰らないことさえあった。その連絡を何一つ寄越よこさないので、母は弁当のようが分からなくて困ると文句を垂れていた。ついに黙認できなくなった父が、休日の朝に狂酔して帰宅した姉を居間に正座させただした。姉の白状によるとサークルを通じて怪しいやからつるむようになっているらしい。

「いつになったらお前はしっかりするんだ」

 父は眼鏡を鋭く光らせて、自律できない姉をとがめた。

「お前の非行が近所に知られたら俺は恥ずかしいぞ」

 当然、姉の為を思って説教したのだろう。

「お前は姉なんだからもっと考えて行動しなさい」

 しかし、そう解釈できなかった姉は顔をしんに染めて、父の「待ちなさい」という言葉を捨ておき、烈火のごとく実家を飛び出した。姉はそのまま次の日も家に帰ってこなかった。そして到頭とうとう、彼女は家のしきまたぐ機会を永遠に失ったのだ。

 ここまでが私の目でとらえた姉の姿。次からは全て人伝ひとづてに聞いた話だ。

 家出少女になった姉は、友人宅に転がり込んでしばらくは大学にも顔を出していたらしい。ただ不運だったのは、その友人の中にみだらなサイトの関係者が居たことだ。その紹介で彼女もあの陋劣ろうれつ界隈かいわいの住人となる。

 私の姉は体を売った。勿論もちろん、黒百合という偽名で。姉は百合の花をこのんでいたから彼女らしいと言えばらしいが、黒百合はあまり縁起の良い花ではない。花言葉は呪い。この花ははえなどを送粉者に選んでいるからひどい悪臭をはなつのだ。そんな物を自分の名前に選んだのだから、きっと自暴自棄になっていたのだろう。

 これは全て黒百合が死んだ後に知った事である。連絡が途絶えた後、一ヶ月もたぬ内に黒百合のとくが私達家族に通達された。おうして意識を失ったという通報により病院へ救急搬送された黒百合はそのまま絶命。黒百合は十九という若さでがんを去った。ネットに残存している動画は、恐らく黒百合が死ぬ直前の一週間にられた映像である。

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