第二十一話「告白」

 受験を乗り越え、家族から合格を祝い尽くされた後は、あわただしい新生活が待っていた。心を休めるひまもなく、気付けば入学からもう一ヶ月がっている。休日を除いて大学と自宅を往復し、週二回程度スーパーに寄るという日々を俺は過ごしていた。

 大学の講義では席を自由に決めることができるのだが、俺は比較的いている前の方に座ることにしている。時折グループワークをいられることもあるが基本的には一人ひとりだ。俺は軽く解放感を覚えていた。それは恐らく、これまでと比べて同級生との精神的なへだたりがあるからだろう。距離が近いと否応いやおうなしに関係が生じてしまう。今までが無遠慮に近過ぎたのだ。このような理由を筆頭に、俺は新たな学びに好感を抱いていた。

 物理学者へを道を順調にあゆんでいる一方で、俺の心の問題には何の進展もない。卒業式の日は、かえってふし寛大かんだいさが強調されただけで、大きな成果もなく裏切りの事実だけが残ってしまった。大学生になってからも、くろ百合ゆりの動画を何度か再生してみたが、必ず途中で苦しくなってしまう。あのような動画は見つかったのに、どうして崇拝心を消す方法はネットにないのだろう。けいじょう問わず伏見の全てを愛すること。それができれば、交際欲求も芽生えて普通の恋愛感情へ成長するはずなのに……。俺は、どうしたら良いのだろう。


 五月の連休に伏見は京都にやってくる。うという約束を果たすためである。初めは修学旅行みたように観光しようと話していたが、最終的に女流哲学者の伝記映画『ハンナ・アーレント』を鑑賞する計画に変わった。京都で開催する必要性が全く感じられない集会である。だけれどその方が俺達らしいのかも知れない。

 今は最も暑い時間帯。薄青うすあお半袖はんそでシャツを着た俺は、本を片手に最寄もより駅の改札前に立っている。京都と大阪、時間距離はおよそ一時間半。伏見が裏切り者にふくしゅうする気を起こしていないなら、そろそろ着く頃である。

 ほぼ予定通りの時刻に現れた伏見は、そでの短い白Tシャツの上に肩がひもになっている白茶しらちゃのワンピースを着て、黒いサンダルをいている。そのほかは髪型も髪色も眼鏡めがねも変わらない。大学生になろうと伏見はいつも通りである。

今日きょうは暑いねぇ」

 微笑ほほえむ伏見は手で顔をあおぎながら近づいた。俺達は話をしながら駅を出る。

今年ことしの暑さは記録的らしいな」

 まだ五月に入ったばかりだと言うのに、地域によっては真夏日を記録したのだそうだ。京都盆地に位置するこの辺りも負けじと暑い。

 一歩後ろを歩く伏見が「最近、異常気象が増えた気がするよ」と言った。

「温暖化の影響もあるんだろうな」

「怖いね」

「そうだな」

 俺達はそろって信号に足止めを食らった。背が頭一つ分低い伏見と横に並ぶ。目の前を車が往来している。

「新生活には、もう慣れたか?」

一人ひとり暮らしは初めてだから、り少し大変だったけど、でも最近は、案外いものだなって思い始めてるかも」

 そうか。俺は高校から実家を出たが、伏見は一人ひとりっ子生活を初めて抜け出したんだよな。

 信号が青になり、横断歩道を渡る。そのあとは進む度に道幅がせまくなった。

「大学はどうだ?」

「勉強は楽しいし、それなりに頑張ってるよ。だけど文学部にはコースが沢山たくさんあってね、哲学志望は思ってたより少数派みたい。仲間が居るかなって期待してたから、ちょっぴり残念だったかな」

「まあ俺だって大学に友達はいないし、サークルにも入ってないから似たような状況だ」

わたしも。どれも怪しく見えちゃって。結局サークルには入らなかったなぁ」

 人見知りの伏見と人嫌いの俺、二人ふたりとも環境に馴染なじむのはなんな事らしい。思い返せば、出会った当初の伏見は会話もままならないほど挙動不審だったのだ。俺達はよくここまで仲良くなれたなと感慨かんがい深く思う。

 何故なぜこのえんを大切にできなかったのだろう。裏切ってしまった日、伏見は痴愚ちぐな俺を許して共に道を探そうと言ってくれたが、以降あの話題に触れることはなかった。何の打開もできないまま、ただえ置かれてしまっている。

 歩き続けて、俺のアパートに到着した。三階建ての最上階である。ポケットからかぎを取り出し扉を開く。伏見は「お邪魔します」と言って俺に続いた。少し広めの1Kだ。玄関と台所を抜け、冷房の効いた部屋へと案内し、座椅子ざいすに伏見を座らせた。

「取りあえず準備するか」

 今時いまどき、映画は大手ECサイトで視聴できる。有料の会員登録が必要だが、俺が元々会員だったため伏見に来てもらう形となったのだ。

 ノートパソコンを机に置き電源を入れた。俺は慣れた手つきでパスワードを打ち込む。ウェブブラウザを起動するも、回線の調子が悪いのかインターネットにつながらない。

「あー悪いな。たまにあるんだよこういうこと。少し待ってみよう。伏見、飲み物は紅茶でいか?」

「あ、うん。有難ありがとう」

 俺はちょくに待っているより他の事を済ませる方が賢いと判断した。立ち上がり、電気ケトルに水道水を入れる。スイッチを入れてお湯をかし始めた時、伏見が「野田君、繋がったみたい」と知らせてくれた。

「サイトを開いといてくれないか。ブックマークにあると思う」

 俺はだなを開いてお茶けを探しながら台所から頼んだ。伏見は「分かった」と言ってカチカチとクリック音を鳴らす。

 冷静に考えたら、自室に異性をまねいてるってすごい状況だな。伏見なんてがものようについてきたがもっと男を警戒すべきなんじゃないのか? 信用されているということなのだろうか。休日に集まるのはまだ二回目だぞ。でも今日きょうの約束は前回の集会で結ばれたものだから自然な流れなのか? ……そう言えば伏見は機械が苦手だった気がする。喫茶店の所在地共有に手こずっていたのだ、ブックマークを見つけられないなんてこともありるかも知れない。

「いや、やっぱり俺がやろうか」

 台所から戻った俺が目にしたのは、実に異様な光景だった。パソコンをながめている伏見の後姿と、肌色の多い画面。映っていたのはくろ百合ゆりの動画である。しかもサムネイルが行為中の画像だったからなお悪かった。

 しまった。そうだ忘れていた。俺は何度かあの動画に挑戦するうちに検索をかけるのがわずらわしくなってページをブックマークしていたのだ。「くろ百合ゆり」という名前で。伏見が間違ってこのサイトを開いたのか、花が好きだから気になったのかは分からないがこの際経緯などどうだって良い。伏見の視界にこの猥雑わいざつなものが入ってしまったことが問題だ。

 俺はあわててノートパソコンをたたんだ。しかしこれで誤魔化ごまかせるはずもない。

 伏見にとって恐らく最も近しい男子が、彼女の色違いのような女性をひそかにかんしていたのだ。それを知った伏見は固まったままである。電気ケトルの作動音が激しくなる。みず分子が勢いを増す。彼女が振り返らないから、俺がどれほど傷つけてしまったのか分からない。伏見の表情を見るのが何よりも恐ろしい。彼女の背後で俺はただおののくことしかできなかった。

 加熱の終了と共に、かすれた声がれる。

なんで……? どうして……?」

 伏見はゆっくりと顔を向け「どうして知ってるの?」と声を震わせた。絶望を体現したようなぎょうそうだった。

「ち、違うんだ伏見」

 伏見は次々と語尾を上げた。

「何が? 何が違うの? 知ってるってことでしょ? 知ってるんだよね?」

 普段の口調がおっとりしているから、いっそう猛烈もうれつに聞こえる。

「伏見。何をだ」

「じゃあどこまで? どこまで知ってるの!?」

 伏見の口から意図のかいせない言葉達が飛び出してくる。はからずも俺は伏見を動揺させることに成功した。最悪のシナリオだがこれで手掛かりを得られるかも知れない。やっと伏見の人間性が判明する。やっと伏見の本心が分かるのだ。

 そう期待したのもつか、伏見の激情は持続することを知らなかった。呼吸が整うにつれ、悲哀の色だけが濃くなる。伏見は額に手を当ててついには口を閉ざしてしまった。

 これだけ? 伏見は怒ってもこれだけなのか。なんだよそれ……。あの裏切りが成功しようとこの程度だったということだろ? みにくい面なんてどこにも無いじゃないか。

「偶然、なの?」

 眉を八の字にして伏見は俺を見上げた。

なにがだ伏見」

 伏見はしばらく俺の顔を見つめていたが、視線を落として「そっかぁ。違うんだね。取り乱しちゃって、めんね」と謝り、しずんだ調子で「じゃあ、野田君にとってアレはなんなの?」と説明を要求した。

「分かった、話す。伏見に、もう嘘はつかないよ。約束する」

 伏見は小さく「うん」とうなずいた。俺はその場で正座する。感情の分析結果の発表会が始まった。

「伏見以上に、論理的な語らいができる人を俺は知らない。君と話している時はいつも楽しかった」

 伏見がさびしそうに「わたしも楽しかったよ」と同意する。

「伏見はいつも善い人だった。いつでも完璧かんぺきだった。俺はそんな君に、恋をしていると勘違いしたんだ」

 ほとんど愛の告白である。しかし照れている場合ではない。俺はせめてもの誠意を見せねばならぬのだ。

「君を性的対象としないのが純愛なんだと思ってた。だけど違ったんだ。俺が伏見の肉体を求めないのは、崇拝していたからなんだよ」

「どういうこと?」不可解なおもち。

「俺には伏見が神聖な対象にしか思えないんだ。だから逆に、君を女性として見られればこの異常性は消えると考えた。それで探し出したのが、そのくろ百合ゆりという人の動画だ」

 伏見は「くろ百合ゆり」とり返す。

「だけど俺、最後まで見れてないんだ。君と性を繋げようとすると、どうしても苦しくなる。俺は伏見をただのい精神としてでることしかできないんだよ。でも君から肉をぎ落としてまで、確証の無いものをとうとぶなんて間違ってる」

 俺はうつむいて続けた。

「だから俺は君のみにくいの面を見つけようとやっだったんだ。そうすればきっと、崇拝心が消えるから」

「えっと、つまり、卒業式の日は……」

「あれは、伏見が理想の人じゃないなら見限っても良いと考えた上での裏切りだった。でも結局、本当の伏見は分からなかった。いや、やっぱり君はい人なんだろ? だったら俺は自分を許せない」

 俺の目がうるおいを帯び始める。

「こんなことなら君を信じ抜けば良かった。ずっと後悔で胸がいっぱいなんだ。この自分勝手なところも、裏切ってしまったことも、異常な恋愛感情も、いまだ君を疑っていたことも、全てが嫌だ。君に相応ふさわしくない自分が嫌なんだ……」

 情けなくて顔が見れなかった。伏見は黙っている。時間と冷房の風だけが俺達を横切っていた。

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