第二十話「裏切り者」

 何度も二人ふたりでここを通った。初めて議論したのもここだった。様々な事を想起させる図書室前の階段に、俺は座り続けている。案の定、図書室に近づく者などいなかった。ふしからの連絡で罪悪感に負けることを危惧きぐした俺は、あらかじめ携帯の電源を切っておいた。

 ただ座るだけの時間は、砂時計がふん詰まりを起こしたかのように流れが異様に遅かった。そして終始落ち着かなかった。いくとなく「自分は何をしているのだろうか」と考えた。この行動に意味はあるのか。これが本当にい人の手掛かりになるのか。伏見は今何を思うのだろう。昼下がりの教室で俺を待っている華奢きゃしゃな少女を想像するとひどくいたたまれなくなる。伏見だけにつらい思いをさせるわけにはいかない。俺はただただえ続けた。

 結果、物理準備室を離れてひゃっぷんたない内に俺は臨界点りんかいてんに達してしまった。これで何の理由も告げずに二時間以上待たせたことになる。

 俺は伏見の教室へ走った。ろう上靴うわぐつの音だけが響く。何のために時間をつぶしたのか分からないほど俺は全力を出した。

 彼女はもう怒って帰っただろうか。俺は教室に誰もいないことを望んだ。そうすれば、やっと崇拝心がぬぐえるのだ。思い切った行動に出た見返りはあるはずだ。いや、なければならぬ。伏見を裏切ったのだから、何も得られなかったでは済まされないのだ。

 息もえ教室の扉を開いた時、突然現れた俺に、伏見は少し驚いた表情を向けた。彼女は文庫本を手にして、一番後ろの窓際の席にちょこんと座っている。息を切らす俺を見て目を細めた伏見は「お疲れ様」といつもの挨拶あいさつで俺をねぎらった。

 伏見の様子は別段平生へいぜいと変わらない。彼女の言葉は皮肉には聞こえなかった。それゆえ、良心のしゃくさいなまれる。

「遅いから心配したよ。なにか、急用でもあったのかな。他に用事が出来たなら、そっちを優先してもいんだよ?」

 伏見の口調は本当に心配している時のそれだった。何故なぜ俺を待っていた。何故なぜ不機嫌ですらない。

 呼吸を整えた俺は伏見に近づきながら「いや、もう大丈夫だ。それより申し訳ない。随分ずいぶんと待たせてしまったな。待つのは伏見も嫌だろう」と謝った。せめて小言の一つでも俺にぶつけてくれ。でなければ俺はいたずらに伏見を苦しめたことになる。

「ううん、別にそんな事ないよ。いつもね、一冊は本を携帯するようにしてるの。読書は楽しいから、待ち時間なんてあっと言う間だよ」

 得意な伏見は両手で持って文庫本をこちらに向けた。彼女の様子からして本当に苦ではなかったらしい。つまりあれは、自身の首をめているだけの時間だったということか。

 待ち時間のすき読書術。伏見を裏切って得たものがこれだけとは。きゅうの策は失敗に終わった。

 やはり伏見は善い人なのだろうか。しかしそれを確かめる手段がない。とどのつまり、伏見が悪の面を見せてくれない限り、俺はこのまま伏見を疑い続けなければならないことになる。もう手は無いのだろうか。

 いくら考えようと、伏見を裏切ったことも伏見が待っていたことも変わらない。俺は伏見の隣に座った。二人ふたりきり、教室のすみで向かい合う。

「野田君。卒業お芽出度めでとう」

「伏見も。卒業おめでとう」

 寒いほどの静けさの中、俺達はしゅくを交わした。これほどせいじゃくが似合う少女が他にいるのだろうか。泣きぼくろまでがどこかしおらしい。

 俺は「と言っても、合格発表がまだだから、そこまでめでたく感じないな」と付け加えた。

「少しさびしいって位だね。……試験の方は、どうだった?」

「全然緊張しなかった。多分、合格できると思う」

わたしも、大丈夫だと思う。勉強々々の大変な毎日だったけど、野田君もきっと頑張ってるから、わたしも精一杯やろうって。そう思ったら、頑張れたよ。だから合格できたら、それは野田君のお陰なの」

 伏見の謙虚けんきょあい変わらずである。

「それは違うぞ伏見。だって俺は、なにもしてない。それは伏見が自分の力で手に入れた合格だ」

 伏見は少し破顔して「ふふ、有難ありがとう。でもわたしは、勝手にそう思うことにするね。その方が嬉しいの」と言って穏やかに微笑ほほえんでいる。情けない俺には伏見が輝いて見えた。

 そしてまた、いつものように議論が始まった。

「受験勉強してると、人は何故なぜこれほど努力して大学に行くんだろうって思わなかったか?」

 俺達の会話はがわのようになめらかだ。

「多くの人にとっては、良い職業にく為なんだろうね」

「それは、学歴が能力の指標になっているからだよな。でも高学歴イコール優秀とは限らないだろ?」

「学歴社会になってしまうのは、他に有効な指標が見つかってないのが大きいんじゃないかな」

 今日きょうも議論は脱線してゆく。

「新たな基準を設けるなら、俺は性格の良さを示すものが欲しいな。俺はさ、いくらすごい能力を持っていたとしても、性格が悪かったら素晴らしい人ではないと思うんだ」

 それに伏見が善い人なのか分かる上、善い人界隈かいわいでの自分の立ち位置も客観視できる。

「善い人の指標か。それはまた定義が難しそうだね」

「でもそれがあれば、みんなが善行を心掛けるようになって、もっと住みやすい社会になると思うんだ」

「確かに可視化されるだけでも意識は随分ずいぶん変わると思う。だけど性格の良さと優秀さに相関があるかは分からないよ」

「それはそうなんだが、性格が悪い人は不正をしやすい訳だし、善い人を採用するメリットは0じゃないと思う」

成程なるほど。でも結局、学歴との二重フィルターになりそうだね」

「じゃあ国から善い人補助金が出るってのはどうだ?」

 伏見はくすっと笑った後「その発想はちょっと可愛かわいいけど、善い人になる動機がお金になるのは、良くないんじゃないかな」と問題点を指摘する。

「確かにそうだな。うーん。何か善い人が社会的に優遇される構造を造りたいものだが」

 俺は腕を組み、伏見は拳を口元に当てて、俺達はまた考える人となった。こうして語り合うのはしばらりだ。やはり伏見と議論するのは楽しいな。伏見も、楽しみにしていたのかも知れない。伏見はこの時を一人ひとりでずっと待っていたのだ。この幸せな時間が、伏見への仕打ちがいかに残酷ざんこくだったかをりしている。どうしてこんなに素敵な人を裏切ってしまった。どうして性的欲求も交際欲求も抱けない。どうしてこの崇拝心は消えてくれない。俺は、どうしたら良いのだろう。

「伏見、変な事を聞くが、伏見は何か精神的な障害みたいなものをもってたりはしないか」

 伏見は上目づかいで「えっと……わたしりおかしな子に見える?」と確認した。

「いや、そういう訳ではないんだが、今から話そうとしていることに関係してるんだ」

「そうなの? うーん、わたしは障害の有無を調べなかったから、分からないけど……」

「そうか」

 伏見の精神に大きな欠陥けっかんらしきものが無いことは、彼女を観察していた時に薄々感じていた。だから、可能性は恐らく以下の二つ。必要条件の理論に反する善人か、完璧かんぺきな演技をしている悪人か。どちらにせよ徒者ただものではない。

 もし善い人なら、裏切り者の俺が伏見の側にいるのは許されないことだ。許されないのならば、もうこれっきりにしよう。もう会わないなら、どう思われたっていじゃないか。中途半端にせず、いっそ最後までちゃんと裏切ろう。

 俺は腹をくくり「それじゃあ、次が最後の議題になる」と告げた。伏見は無垢むくな目を向けて「今日きょうは、もうめちゃうの?」とたずねながら首をかしげる。

「いや今日きょうと言うか、この話に結論が出たら、俺は伏見の前から消えようと思ってるんだ」

 伏見は伏し目がちに睫毛まつげをパタパタさせた。

「それは、もう、会ってくれないってこと?」

「きっとそうなるな」

 伏見は弱々しく「だけど、合格したらまたう約束だったよ?」と言った。桜並木が、風に舞う花びらが、コーヒーの香りが、鮮やかによみがえる。失念していた。その頃の記憶が余りにはなやかだったから、俺はずっと思い出さないようにしていたのだ。それなのに、伏見はあの約束を大切に覚えていてくれたのか。どうしようもなく胸が苦しくなった。

「悪い。その約束は果たせそうにない……」

「何で?」

 伏見はまゆを八の字にして俺を見つめている。

「これに答えが出れば、俺が伏見に関わる理由も、関わってい理由もないからだ」

「でも――」

「最後だ。もう最後にしなきゃいけない」

 俺は伏見の言葉をさえぎった。伏見は口をつぐんで固まってしまう。

 本日最後の議論は「伏見、君は一体何者なんだ」という問いから始まった。

「善い人は、普通の精神をもっていない。これは、心の美しい障害者の友人から導出した理論だ。これが正しいなら、俺達は善い人になれないということになる。だって嫌な事の方が圧倒的に多い世の中で善い人でいられるなんて普通じゃない。だから欠陥のない伏見が善い人なのはおかしいんだよ。君はみにくい面をたくみに隠しているはずなんだ」

 伏見の目線は少しずつ下がっていっている。

今日きょうの大遅刻、本当はわざとだった。くだらない作戦だけど、君を怒らせようと思った。心を乱せば、本性を現すんじゃないかって考えた。俺は伏見を裏切ったんだ。許される事じゃない。今後もう君に関わらない。この約束は守る。だから今日だけは開き直らせてほしい」

 本当なら、もっと楽しい話をしたかった。俺の発見を、もっと前向きに語りたかった。それなのに俺は今、伏見にそうな表情をさせてしまっている。

「伏見の真実を教えてくれないか。それがきっと、俺が善い人になる手掛かりになると思うんだ。俺はそれを聞いて、君の元から去りたい。君は一体どこまで善い人なんだ」

 俺は恐らく人生で最も自分勝手な希望を口にした。善い人という目標、必要条件の理論、真実の探究、崇拝心のふっしょく、それら全てを投げてて、伏見を選んであげることができなかった。

 伏見はうつむいたまま「めんなさい。……わたしには分からない。わたしが善い人なのかどうかも、それを今決めなきゃいけない理由も、わたしには分からないよ」と小さな声を発した。

 顔を上げた伏見は涙声で訴える。ゆっくりとつむがれる言葉には、普段よりも懸命さが混じっていた。

「野田君は、どうしてそんなにあせってるの? 急がなくていって話、忘れちゃった? ……これまで通りじゃ、駄目なの? 二人ふたりで議論して、わたしと一緒に少しずつ探していくじゃいけないの? こんなお別れ、嫌だよぉ。わたしは許すよ? だって、野田君は、わたしの恩人だもん……」

 また視線を落とした伏見は目に涙を浮かべている。このか弱い少女を詰問きつもんする勇気が俺にはなかった。

 結局、この議論に結論は出なかった。俺達のみょうえんは、ここで断たれてしまうのを後一歩のところで逃れたのだ。

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