第十九話「卒業式」

 夏季かききゅうに入ってからは勉強けの毎日だった。い人やふしに関するあらゆる問題をえ置いて、俺は勉強だけに打ち込んだ。伏見を忘れたから受験に集中できたのか、彼女を忘れるために受験に焦点をしぼったのか、本質はどちらなのか分からない。演習をして、模試を受けて、テストを解き直して、問題集を解いて、暗記して、計算して……。毎日ペンを握った。毎日受験生をした。

 模試は良くてB判定だった。きょうだいは射程圏内である。己の力を信じた。二次試験で俺は不審なほどに平静でいられた。かえってセンター試験の方が緊張していたかも知れない。手応えは充分。合格はかたいだろうと思う。

 受験が終わると、残るは卒業式と合格発表だけである。高校生の内に伏見を探れるのはあと数日。俺は学びを巣立つ前に、彼女の胸を引き裂き、宿やどたましいの色を確認するつもりでいた。しかしこれまで人をおとしいれる努力をしてこなかったためかみょうあんが一向にひらめかない。

 ひっきょう、卒業式前日までに用意できたのは、伏見との会合にわざと遅刻するというような作戦だけであった。自分の嫌いな待ち時間を伏見にぶつけるという作戦である。俺のやろうとしていることは簡単に言えば嫌がらせだ。しかし基底状態の伏見はただの善い人なので、俺が働きかけて彼女の精神を不安定にしなければなるまい。伏見のなじり方に悪の部分が見つかれば、きっと俺の崇拝心も消え失せるはずだ。

 会って話がしたいから式が終わったら自身の教室で待っていてほしいというむねを伏見に連絡する。伏見はこころよくこれをしょうだくした。

 おのが崇拝心をふっしょくするという大義名分と、彼女をもっと知りたいという探究心と、わずかな怖いもの見たさで、俺は伏見への裏切りを選んでしまった。


 卒業式の朝、靴箱くつばこのぞくと見慣れない物が入っている。四つ折りの紙に野田様という角張った三文字。人生で靴箱に手紙が入っていたのは初めての事である。物語だと愛の告白や果たし合いへと展開されるのがつねだが、そのようなイベントには全くえんがない。誰かの悪戯いたずらではなかろうかといぶかしみながら開くと「本日の日程終了後、是非ぜひ物理準備室へお越しください」と書かれてあった。差出人はしわ白衣の先生である。最後の登校日にまで攻撃をもくんでいたとは。こんな見え透いた罠に俺が引っかかるとでも思ったのだろうか。俺は手紙をたたみ直して教室の屑籠くずかごに投げ入れた。

 朝礼の後、卒業生は黄色いフラワーリボンを胸部に付けてろうに整列する。俺達は拍手で膨れ上がった体育館の中へ一列で突入し、ちく席を埋めていった。空気の振動が収まると、開式の言葉が述べられたり国歌が斉唱されたりする。そして卒業証書が授与され始めた。

 当然とうぜん、伏見の姿も確認できた。目にするのは久方ひさかたりだが、あい変わらずの桃色フレームである。壇上へ向かう足取りや固い表情から緊張しているのが分かった。やるせないほど素朴な少女だ。彼女に注目している者がこの中に何人いるだろう。俺には階段を降りる所作さえみやびに見えてしまう。これほど心かれたのは初めてだったのに、そのりょくに気付けたのは幸運だったのに、どうして普通の恋愛にならなかったのだろう。

 しばらくしてから、俺も卒業証書を受け取る。壇上は結界が張られているかのように感じられた。着席してからはひどく退屈な時間だった。校長や来賓らいひんの話を聞いたが一切記憶にない。式は予定通り午前中に閉じられた。

 一度教室に戻って別れの挨拶あいさつを済ませたら本日はもう解散である。同級生達は残って団欒だんらんをしたり、他の組を訪ねたりした。楽しくも切ない雰囲気が辺り一帯を満たす。

 しかし俺には決戦が待っている。無理矢理にでも伏見に一泡吹かせねばならない。彼女に待ち明かしを食らわせるため、今から俺は身を隠さなければならぬのだ。

 さてそろそろかと立ち上がった時、後方より近づく者がある。真っ直ぐな黒髪に服みたいな格好。全身黒尽くめの女。俺の姉である。

「放送席放送席ー、本日式で最も勝利に貢献こうけんされ無事ご卒業されました野田選手にお越しいただいておりまーす。野田選手、本日はおめでとうございます」

「姉ちゃんはどうして狂った祝い方しかできないんだ」

 なんだこの場違いな人間は。まずい。この大変な時に一番面倒臭い奴にからまれてしまった。

 水色のマイク型がんを手に姉はヒーローインタビューを続ける。周囲は驚きつつもてい漫才をながめていた。

「野田選手、第4セットのタイムリーヒットでオフサイドだったのが決まり手のように見えましたが、ご本人はどのように思われますか?」

「何だその色んなスポーツの合成キメラみたいなヤツ。俺達は卒業式に何やらされてたんだよ。……と言うか父さん達は?」

 姉は小道具をポケットに仕舞いながら「ごりょうにんは帰ったぜぇ」と告げた。

なんで」

「そりゃあ母さんが式中にボッロボロ泣くから、それはもうボロ雑巾ぞうきんのように泣くから――」

「いや、雑巾は泣かない。強い子だから」

 みんながクスクス笑っている。

「あはは、いやホント泣きすぎて過呼吸みたいになっちゃってさぁ」

「え、それ大丈夫なのか?」

「知らなぁい。ていうかその泣き加減がツボだったから腹抱えて動画ってたら父さんにめっちゃ怒られたんだよねぇ」

貴女あなた人の卒業式に何しに来たの?」

 どうせちょうされた話だろうが、温厚な父が人前でしかるのは大事おおごとである。

「その動画見たい? 見たいでしょ。いいよいいよ後で送ってあげるから」

「くふっ、要らないよ」

 全くりない姉に俺は軽く吹き出してしまう。

「それでね、二人ふたりが車で帰っちゃったから、アタシ帰り電車なんだけど。出費が激痛だよ、痛いよ〜」

 姉は指先を両ほほに当てて泣き真似まねをした。

「母の涙を笑った罰だよ、罰」

「でもさぁ、息子むすこの卒業式で泣いてるのって、なんか可愛かわいくない?」今度はヘラヘラしている。

「それを笑う娘がどこにいる」

「そう、そんな娘はいない。だからアタシは存在を許されない存在。夢。まぼろし

「へー、そうだったんですか」

 俺達の会話で観衆はニヤニヤしていた。姉は可愛かわいいけど変な人だと言われている。少し恥ずかしいが悪い気はしない。この人達にはもう会うことも無いのだから。

 姉は「てかもう学校に用はないんでしょ? めし行くぞ飯、ついて来な!」と叫んで教室の出口へとかっし始めた。俺と外食にでも行くつもりだったのだろう。俺は彼女の後頭部に「いや、悪いんだけど、この後予定があるから行けない。なんかごめん」と答えた。

 伏見を待たせている間に姉と食事に行くことは可能だった。しかし罪悪感から純粋に楽しめないと思う。それはどちらにも失礼な行為だ。まあ、故意こいに伏見の気分を害することが第一の無礼だと非難されると何の反論もできないのだが。

 姉は振り返って不満をらす。

「ご飯も一緒に行ってくれないなんて、おごるのに……小さい時は『ごくまでついて来る』って言ってたのに!」

「俺言ってないだろそんな事。思い出を捏造ねつぞうするな」

「予定って何よぉ。女でしょ。どうせ女なんでしょ!」

「面倒臭いな。もういだろ、充分笑い取っただろ、もう帰れよ」

 俺は姉を教室から押し出す。背中を押されている姉は俺をあおぎ見ながら「今日きょうのお姉ちゃん面白かった?」と確認した。俺は投げやりに「面白かった面白かった、もう帰ってくれ」と答える。

 廊下まで追い出された姉は「そっか。じゃあ最後にコレだけ」と前置きしてから今日きょう一番の笑顔でこう言った。

「アンタの好きな子教えてよ」

「早く帰れ」


 隠れる場所は決めていた。最上階の図書室へ続く階段。閉まっている図書室を訪ねる者などいないだろうと考えたのだ。

 三階の渡り廊下を抜ける途中、近くに物理準備室があることに気付く。物理を愛する人間でありながら、あそこには全く良い思い出がない。そう言えば呼び出しを食らっていたな。しわの白衣が俺を待ち構えていると思うと実にかいだ。

 そこで、背信はいしん行為をする罰として先生に立ち向かうことを自身に課すべきなのではないかと思い立った。俺はノックをして物理準備室に入る。

「失礼します」

 そこにいたのは目的の先生だけだった。スーツ姿の先生は「野田、来てくれたか」と低い声で言った。俺は黙ってオフィスチェアに腰掛ける先生に近寄る。

「野田も今日きょうで卒業だからな。最後に、言っておかなきゃならんことがあるんだ」

 先生は真剣な顔付きで俺を見上げている。何を言うつもりなのだろう。また説教でもするつもりなのか。俺は何を言われても動じないつもりでいた。しかし結果だけを言えば俺は狼狽うろたえることになる。

「野田、まなかった」

 大柄な男が椅子いすに座ったまま俺に頭を下げたのだ。俺は状況が飲み込めなかった。先生は低頭したまま言葉を続ける。

「ずっと謝ろうと思ってたんだ。だけどお前は俺を嫌ってるみたいだったから。謝罪を野田は望んでいるのか。俺の自己満足の為に、受験生の時間を奪うのかと尻込みしていたら、今日きょうまで言い出せなかった。俺はしっ心から、お前に意地の悪い事を言ってしまったんだ。大いに反省している。謝るのが遅くなってしまって、本当に申し訳ない」

 俺は正直困った。謝罪を受けるなど思いもしなかったからだ。しぼり出した言葉は「しっって、どういうことですか」というものだった。俺は単に反抗的な態度が気にさわったのだろうと考えていたのだ。

 先生は力のない表情を俺に向けて「俺達教員より、お前の方が優秀なんだよ。学生の頃の俺達よりな」と言った後、経緯を語り出した。

「俺は学者になりたかった。でも、あきらめたんだ。ついていけなくなってな。だから野田を見て、こういう奴が学者になるんだなって思ったんだ。それと同時に悔しくなってな、それで嫌がらせをしてしまった。最初は生意気だって思ったんだ、だけど今思えば、それはただのしっだった。情けない限りだ」

 先生は立ち上がって最敬礼をした。

「俺が小さかった。許してくれなくてい。ただ謝らせてくれ、本当に済まなかった」

 倫理的であるべき人が、倫理的であるとは限らない。俺はこの人をその例のようにあつかった。俺を攻撃してくる男だという先入観にとらわれていたのかも知れない。当然、謝ったから善い人だというわけにはいかない。だけど先生もまた成長途中なのだ。大人は変わらないと俺が思い込んでいただけだ。彼は今まさに倫理的になろうとしているではないか。この姿勢を評価しないということは、俺自身をも否定することになる。俺だって善い人になりたい人なのだから。俺は先生を許さなければならない。

「俺も。ただの訂正にしては言い過ぎだったと思ってたんです。謝るのが、大変遅くなりました。本当に、済みませんでした……」

 俺達は頭を下げ合う。これにて先生と俺の小さないさかいは、高校生活と共に幕を閉じた。

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