第十八話「光」

 並んで帰ったあの日から、芝原しばはらが声をかけてくるようになった。朝礼前に、休み時間に、放課後に、芝原は周囲の目など構わず笑顔で話しかけてくる。初めこそ鬱陶うっとうしく思っていた俺だったが、彼の無邪気に触れるたび、次第に心を許すようになった。そして芝原を知れば知るほど、ただの障害者という認識はすさまじい速度で変わっていったのだ。

 どれだけ成績が悪かろうと、彼の授業態度は非常に真面目だった。教師や教科でその態度を変えることもない。周りがつまずかないところでなんじゅうしてしまっても、あせらずなげかず地道に取り組んでいる。間に合わなかった宿題だって最後まで投げなかった。他の生徒がいくら手を抜こうが、いつも懸命に掃除をした。人を悪く言うことはなく、誰と話す時も堂々としている。何をするにも全力を出す。下手へたでも不格好でも、彼の行動はいつもなおで誠実だった。

 何度か下校を共にする中で、俺達は迷子を交番へ連れて行ったり、お年寄りの荷物を肩代わりしたり、公園で小学生達と遊んだりした。加えて芝原は清掃活動や地域行事、被災地支援など様々なボランティアに参加しているらしい。困っている者には手をべねばならぬ。俺は芝原にそんな信念を感じる。実際、彼の人助けへの姿勢は異常の域に達していた。

 例えば芝原が一学期に負った大怪我けがは、車にかれそうな男の子を助けようとしたことが原因だったそうだ。それを芝原は「どうにか助けられたのはよ、よよ、よかったけど、マジでアレはマジで死んだと思ったんだよなぁ。母ちゃんにもおこられるしよ〜」と笑い話のように語っていた。障害が関与しているのかも知れないが、彼にはこのように考えるより先に動いていることがあるらしい。俺は綿密な脳内シミュレーションをしてからやっと行動に移すたちの人間だ。だから彼の考えや感覚は新鮮なものばかりだった。

 ちなみに、前述の小学生達の中には芝原が助けた男の子もいた。この子は芝原の病室へ何度も見舞いに来ていたと言う。芝原は救った命を弟のように可愛かわいがった。そして俺達は小学生の集団に混ざってボール遊びをしたのだ。二人ふたりとも下手へただった。制服だって汚れた。ちびっ子達にも笑われた。だけど、どこかなつかしかった。子供もスポーツも得意ではないけれど、何故なぜかとても楽しかった。

 芝原と関わってから、俺の周りには困っている人が増えたように思える。でも、それは新たに現れたのではない。これまでもいたのに見つけることができなかったのだ。芝原は困っている人を見つける天才であった。彼の目には俺と全く違った景色が映っているのだろう。

「芝原はふく関係の仕事にでもくのか」

 俺達はこの日も下校を共にしていた。

「ふくし? それってどんなだ?」

 芝原は白線の上を綱渡りのように歩きながら答える。

「え、いや俺も詳しくはないが、老人ホームで介護をするとか、そんなんじゃないのか」

「あー、合ってるかもなオレに。だれかの役に立つ。立つっていいよなぁ」

 芝原はニコニコしている。

「芝原は、なんで人の役に立ちたいんだ?」

 立ち止まった芝原は真顔をこちらに向けた。俺達はしばし見つめ合う。

 芝原はまた足元に目線を戻して「うーん、そーだな。なんだろ。……ほら、たくさんの人にさ、障害とかでさ、オレはメイワクをかけてる、だろ? だから、その分ぐらいは――いやそれよりもっと、立たなきゃいけねぇんだオレは、アレに、人の役に」と告げた。

「ずっとそんなことを考えてたのか」

 能天気そうな芝原がそのような考えを腹にいだいていたとは。人の気持ちとは中々にはかれないものだな。そうしみじみしていたら、芝原は「いや、今これは考えた。アレだな、タテマエってヤツだな、ははは」と悪びれもせずに笑った。拍子抜けではあるが、彼の建前はあながち嘘には聞こえなかった。

「本当はどう思ってるんだ」

「そうだな〜。分かんねぇ」

 芝原はあまり考えずにそう答えた後、真剣な表情で「聞こえる。聞こえるんだ。こまってる人の声が。そしたら『ああ助けなきゃ』って思うんだ。『助けたい』って思うんだ。そしたらもう動いてる。たぶん、オレがやんなきゃなんだ。聞こえるヤツがやんなきゃいけねぇんだよ」と言った。そしてまた破顔して「まっ、役に立たないことも、バカだからあるけどな〜、オレは!」と付け加える。

 芝原は俺が初めて出会ったい人だ。だけれど彼が邪険な扱いを受けているのは何故なぜだろう。障害をもっているからだろうか。彼の障害は見た目では分からないが、確かに話し方や行動から受ける印象は独特である。俺は慣れてしまったが、そこを不気味に思う者もいるのかも知れない。俺は人を正当に評価できない同級生をなげかわしく思った。それと同時に、うわさに踊らされていた自分にいきどおりにも似た感情を覚えたのだ。


 また何度目かの日直。俺は職員室で担任に日誌を提出した。

「あ、そうだ野田。ちょっとだけいいかい?」

 帰ろうとしていた俺は呼び止められてしまう。担任は「最近よく芝原と一緒にいるね」と続けた。

「それがどうかしましたか?」

「いや、どうもしないよ。芝原を独りにしないでくれてありがとう」

 担任は優しい笑顔で感謝を述べた。優等生が配慮はいりょして孤立しがちな生徒に接しているとでも思ったのだろうか。

「先生、逆ですよ」

 俺はうつむき気味にボソリと言った。

「芝原が友達になってくれたんです。俺が芝原から色んなことを学んでるんです。アイツは多分そんなつもりないって言うだろうけど、俺が芝原に助けられてるんです。だから逆なんですよ」

 俺がこんな話を人にするとは。きっと芝原の事をもっと知ってもらいたかったのだ。

 担任は少し驚いていたが最後には「そうか……。それは、素敵な関係だね」と言ってまた微笑ほほえんだ。

 職員室を出るとくだんの男が壁にもたれている。

「野田、いっしょに帰ろうぜ〜」

 屈託くったくのない笑顔だ。

「そうだな。帰ろう」

 俺達は並んでろうを歩き出した。荷物を取りに一旦教室へ戻る。とびらを開こうと手を伸ばした時、教室から女子生徒の声がれてきた。

「マジで野田とかいうクソガリ勉なんなの? アイツ陰キャのクセに見下してくんのマジ腹立つんだけど」

「あー分かるぅ。てか野田って最近芝原とつるんでない?」

「嫌われ者同士がくっついてるの笑えるわ。アレ絶対デキてるでしょ」

「何それキモぉ。ホント二人ふたりとも死ねばいいのに。そしたらウチらの順位も一個上がるよ」

「ハハ、いいねそれ!」

 せいじゃくの教室に嘲笑ちょうしょう木霊こだまする。それを断ち切ったのは芝原。

「ふざけんな!」

 扉が勢いよく開かれた。彼の横顔はひどこうちょうしている。その色が彼の怒りを示していた。突然のことに俺は置いていかれてしまう。それぐらい彼の沸騰ふっとうは一瞬だった。

 教室には女子生徒が二人ふたり。学年でもがらが悪い方の人物だ。

「勝手に聞いてんじゃねぇぞきめぇな」

 机に腰掛けている方が吐き捨てるように言う。開かれた場所で人の悪口を垂れ流しておいて、勝手に聞くなとはどういう了見なのか。

 このような場面で俺が感じるのはあきらめだ。それは人間の良心へのあきらめである。自身をりっする心を失えば、人は無限に非倫理へとちることができる。そして一度ひとたびちてしまえば、い上がるのは実に難しい。ちたままでいた方が圧倒的に楽だからだ。そのらくたみに良心を期待などしない。彼女らは反面教師であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 しかし隣の男にとっては違った。

「あやまれよ。野田にごめんさないって言え!」

 芝原は叫んだ。中学三年生にもなると同級生の怒号を聞くのもめずらしい。彼はたましいを燃やし、細い目で悪をにらんで、暴力にうったえるわけでも汚い言葉を返す訳でもなく、ただ胸を張って謝罪を要求した。扉の前でおう立ちしている彼は山のように大きく見える。俺はその姿を美しいと思った。

「うるせぇ、害児のクセに」

「もぅ行こ、無視無視こんなヤツ」

 着席していた方がなだめるように言った。教室に舌打ちを響かせた後、女子達は俺達の横を通り抜け「あんま調子乗んなよ、低脳」という捨て台詞ぜりふを芝原に浴びせて立ち去った。

 芝原は抗議を続けるつもりだったようだが、俺は彼の腕をつかんで制止する。

「芝原、やめよう、これ以上やっても何の得もない。ごめんな。俺、芝原が害児って言われたのに、おこれなかった」

 けんなど小学生の時に数回した程度でいかるとはどんな行為だったかもよく思い出せない。

「いいよ別にオレのことは。でもオレはア、アァ、ア、アイツらあやらませるって決めたんだ」

「芝原、もうい。もういよ。芝原がおこってくれただけで、俺は充分なんだ」

 俺のために腹を立ててくれる人が同じ学級にいるということが、気持ちのこもってない謝罪なんかよりずっと俺を救っている。

 はつてんくようにいかっていた芝原は、徐々じょじょに落ち着きを取り戻していった。そして「そっか。野田がいいなら、やめるか」と言った後、ボサボサの頭をワシャワシャといて「よし、じゃあ気を引きしめて帰ろう!」と明るく言った。

「気を取り直して、だろ」

「そう! たぶんそれ!」

 俺達は二人ふたりで歩いて帰った。夕日とななめった影だけが俺達を追いかける。

 他人が何と言おうと、俺は芝原が一番格好かっこいと思った。そして人の価値とは精神にあるのだと確信した。容姿でも頭脳でも運動能力でも財産でもない。その人に宿やどたましいの美しさが、その人の真の価値なのだ。俺は芝原のように無垢むくに輝くたましいをもった人を他に知らない。芝原は俺の中で最も価値のある人間だった。俺は芝原の姿から人生における大事なものを教えてもらったのだと感謝した。

 この日から芝原は俺の目標になった。彼のように困っている人に手をべ、友のためにいかり、間違っていることには大きな声で抵抗できるそんな男になりたい。そんな人生が送れたらきっと幸せだろう。彼のような精神をもてたら、きっと同じ世界が全く違って見えるのだろう。だから俺は善い人を目指したのだ。

 俺が善い人を目指し始めて、最初に助けたのは芝原だった。というのも、芝原は志望校が危うかったのだ。俺は恩返しのつもりできょうべんった。勉強に関して芝原は本当に駄目駄目だったから、彼にでも分かる教え方を試行錯誤した。俺の指導能力は芝原によってきたえられたと言っても過言ではない。

 受験した高校は違うのに、それぞれの合格発表を二人ふたりで電車に乗って見に行った。芝原は自身の合格よりも、俺の合格に涙目になって喜んだ。努力を見てきたから受かって良かったと言った。俺は必ず立派な人物になると保証してくれた。

 当時、俺達は携帯を持っていなかった。だから高校生の芝原が何をしているのか分からないが、今もきっと善い人をしているに違いない。

 芝原。彼は俺の人生の師匠である。

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