第十七話「芝原」

 論理を知らない頃の俺は、面前と恥を避けたがる子供だった。数少ない友達は全員ゲーム仲間であったと記憶している。学級の核をになうことなどなく、授業中に手をげることすらできない。慈悲じひなくいられる一分間のスピーチを、俺はこの世の何よりも憎んでいた。

 他方で、血を分けたはずの姉は無類の目立ちたがりだった。彼女は小学生の頃から校内の有名人であり、俺はその奇人に似ていないと揶揄やゆされていたのだ。家を出ると無口になってしまう俺は、いつも変わらない姉をうらやましく思った。恥じらいや恐れをへそと共に失った姉は、親戚の集まりや文化祭でコントを自作自演するような人だ。彼女は中学生時代、給食時間にお笑い芸人のラジオの真似まね事をして、教師を含め多くの者を噴飯ふんぱんさせたような強者つわものである。四歳差にはばまれてリスナーになることは叶わなかったが、姉の番組は苦情や応援メッセージが毎日のように寄せられる伝説の校内放送だったらしい。そんな自慢の姉の背に隠れながら俺は育ったのだ。

 中学校に進学した後、試験の度に学年首位を占めたことで、自分に学問の才があることを知った。友達はすごいと言っていた。姉を知る教師に、道はちがえど共にひいでたていであると評価された時はきんじゃくやくの思いだった。両親もうれしそうにしていた。そして姉が、自慢の弟だとめてくれた。不勉強な姉は試験期間でも俺とテレビゲームをしているような人だ。記憶力とあたまだけで平均点を少し上回れるから、一切の試験対策をしたことがない。そんな勉強嫌いな姉が、自慢の弟だとめてくれた。文系科目には苦手意識があったけれど、勉強を頑張れば自慢の姉の自慢の弟でいられる。恐らくそれが勉強を好きになった切っ掛けだ。

 しかし平穏な日々は続かなかった。中学二年生の半端な時期に、父の仕事の都合で引っ越しが取り決められたのだ。俺達家族は父の転勤にくっついて十年近くを過ごしていたわけだが、父が元の職場に復帰したことで、再びあの実家を根城にすることとなった。父の故郷ふるさとに建てられた実家は、長いこと祖父母に会うための別荘と化していた物である。俺達は別荘を本拠地に戻そうと荷物の整理に取りかかった。

 その時受験生だった姉は、高校にざんりゅうするため半年だけの一人ひとり暮らしを決める。彼女の勉強姿を見て、本当に芸人をあきらめてしまったのだなと俺は痛感した。ただのお笑いきに戻ってもぜん飄々ひょうひょうとしている姉は、当時何を思って机に向かっていたのだろう。彼女の心持ちは知れなかったが、俺は無性にさびしかったのを覚えている。

 一方俺は余儀よぎなく中学を転校した。勿論もちろん知り合いのいない学校へ。それまでの友達は小学校からの付き合いである。恥を恐れる俺は一朝一夕で友人を作る方法など習得していない。さらに半端な時期に転校するということは、グループが完成している学級にほうり込まれるということである。なおのこと俺は人の輪に入れなかった。

 父の地元が田舎いなかだからか、転校先の生徒には低俗なやからが多く見受けられた。しかし俺は、れつなネタは邪道であるという教育を受けて育っている。俺の自慢だった姉はもう芸人をあきらめてしまったけれど、彼女が青春をかけたものには価値があったのだと俺は思いたかった。あの人は俺にとって最高に面白い人なのだから、せめて俺だけでも姉の姿勢を支持せねばならないと考えた。そして俺はかたくなに彼女の教えを守り通したのだ。人気者の発する下品な言葉に周りがどれだけ笑っていようが、俺だけはぶっちょうづらつらぬいた。彼らとのわいな会話を全てこばんだ。そうする内に、俺は学級の異物としてあつかわれるようになったのだ。加えてこの学校でも成績に関して追随ついずいを許さなったことで、同級生からねたみの対象にされたり、他人を見下していると誤解を受けたりした。その結果俺は一人ひとりになった。だけど案外平気だった。別に友達などいなくても良いと、本気でそう思っていたからだ。


 現在は中学三年生の二学期初め。首席が普通の事になると、進級して訪れたこうは短大に合格した姉が実家に舞い戻ったことだけだった。俺の生活に変化はなく、誰とも言葉を交わさないし、うっすみなに嫌われている。迷惑めいわくをかけた覚えはないのに、いけかない点取り虫という烙印らくいんを押されていた。汚名の返上につとめるという案もあったが、その尽力の末に得られるのは彼らとの良好な関係だけである。俺には不要物ために時間を無駄にする行為に思えた。そこで俺ははなやかな中学生活をあきらめ、県下一の進学校でもっとこうしょうな仲間を作ろうと、いっそう勉学にはげむことにしたのだ。

 校内にチャイムが鳴り響く。授業は終了だ。六時間目の担当はこの学級の担任である。担任はふちなしの眼鏡めがねをかけた頼りなさそうな若い男。この教師は絶対に怒らないと言われている。それゆえ生徒にめられがちな人であった。

「じゃあー、今日きょうはここまでにします。えー、僕はこの後すぐに学校を出るので終礼には出られません。なにか急ぎの用事がある人は掃除の前に僕の所に来てください。終礼には川端かわばた先生が来てくださいます。えーと、後なんだっけ。あ、そうそう今日きょうの日直は、誰かな?」

 俺だ。このような小さな不運に見舞われてばかりいるような気がする。

「はい」

 俺の挙手は低かった。同級生による視線の集中ほうを全身に浴びる。表皮が段々熱をびてきた。俺は手を下げた。

「野田だね。日誌は僕のデスクに置いといて。それと悪いけど、デスクにある配布物を終礼前に教室まで持って来てくれないかい?」

 日直とはていの良い雑用係である。

「分かりました」

「ありがとう。本当に申し訳ないんだけど、今日は配り物が多いんだ。誰か他に手伝ってくれる人はいるかな?」

 黒頭こくとうの生徒で埋まった教室が静まり返った。ろうを通じて物を引きずる音が聞こえてくる。他の学級で清掃が始まった音だ。しかし俺の学級に動きはない。考えられる理由は二つ。一つ目は、タダ働きを好きこのんでする奴は少ないということ。二つ目は、嫌われ者と職員室に潜入したい奴はもっと少ないということ。同級生全員が他人に面倒事を押し付けたがっている。無言の数秒間が俺には天文学的なながさに思えた。場の雰囲気に耐えられなくなりそうだった俺は、往復することになっても一人ひとり遂行すいこうしてみせると宣言しようとした。その時である。

「やります、オレやりま〜す!」

 声は後ろの方から飛んできた。細い目に丸い鼻。はね放題のボサボサ頭。制服の白シャツを着たその男は、お手本のようなニコニコ顔で天に届くほど手を伸ばしている。

「お、じゃあ芝原しばはらに頼むよ。それじゃあ解散! じゃなかった、みんな掃除場所に向かってくれ」

 担任のかけ声でみなが一斉に椅子いすを机に載せ後ろへと運ぶ。何事も無かったかのように、清掃は始まった。

 芝原。この男と同じ学級になるのは今年度が初めてだ。しかも新学期当初、芝原は大怪我けがで入院しており、二学期に入るまであまり顔を見ていない。だから芝原はなぞ多き人物なのだが、風のうわさで学習障害やパニック障害をもっていると聞いていた。その所為せいなのか彼も学級で浮いている。彼の障害についてはよく知らないが、関わらない方が身のためだと感じていた。

 掃除を終えると、芝原が教室で俺を待っていた。少し小柄な芝原と並んで職員室へ向かう。

「そーいや、ちゃんと話すの初めましてだ」

 先程まで鼻歌交じりで廊下を進んでいた芝原が機嫌良さそうに言葉を発した。俺は素っ気なく「そうだな」と返す。

「野田はアレだろ、アレ。テストで一番なんだろ? すげぇよな〜。分かんねぇぞオレ勉強なんて」

「別にすごくはない」

 頭の悪さを理由に人を馬鹿にしたことはないが、ここの生徒は人間として程度が低いと思っている。俺は一フェムト秒でも早くここから抜け出して素晴らしい高校生活を送りたいのだ。

「すげぇけどな〜。赤点ばっかだ。教えてくれよ勉強、ははは」

 芝原はヘラヘラしながら願いを口にした。何故なぜ俺がそんな骨の折れそうなことをせねばならんのだ。俺が「今度な」と適当に答えた時、やっと職員室に到着した。芝原はとびらを勢い良く開きながら「しつれいしま〜す!」と叫び、先生方に次々と大声で挨拶あいさつをしている。


 日誌を書き上げて、指定されたデスクに置いてゆく。これで学校に用はない。下校しようと正面玄関に出ると、駐輪場が目に入った。自転車が何十台も倒れている。それを逐一ちくいち起こしている男がいるのだ。きっと自分の自転車が下敷きにでもなったのだろう。この男も不幸な奴だなと感じた。

「芝原、何やってんだ」

 芝原は細い目をこちらに向けたが、すぐに自転車に向き直った。

「野田か。何って、ドミノ立ててんだよ」

「ドミノ?」

「ドミノ? あ、ちがった自転車。自転車立ててんの」

すごい間違え方だな」

 芝原は少し笑った後、黙々と作業を続けた。俺も黙ってそれをながめていた。残暑の厳しい中、芝原は汗をかきながら自転車を起こしている。俺はふと、赤点の奴に勉強を教えるのはしんどいが、これなら手伝っても構わないだろうと思った。それは気まずい沈黙を破ってくれた礼のつもりだった。

「俺も手伝うよ」

 芝原は俺を見て、しばらく手を止めたが「野田、ありがとうな」と言って笑った。自転車は二十台以上も横になっている。全てを二人ふたりで立て尽くした後、芝原は「いいことしたな〜、野田!」と言って俺の背中を軽く叩いた。

「俺はもう帰るぞ、じゃあな」

「送ってくよ。お礼だ」

 俺の背に芝原の声がぶつかる。俺は振り返って「二人ふたり乗りでもしようって言うのか? 駄目だ。校則違反だ」と芝原をたしなめる。

「ん? どういうことだ?」芝原は微笑ほほえんだままである。

「だから自転車に二人ふたりで乗るのは校則違反だって言ってるんだ」

「いや、チャリ通じゃないぞオレは。いっしょにあ、あ、ああ、ある、歩いて帰ろうってことだよ」

 芝原は吃音きつおんしつつも平然としていた。

 自転車通学じゃない? てっきり所有物を救出するついでの行動なのだと思っていた。それに一緒に歩いて帰るのに何の意味があるのだろう。大体、今のが俺からの礼だったのだが。

 笑顔の芝原は混乱する俺の背中を押しながら「さあ帰るぞぉ! 道はどっちだ?」とたずねた。

 登下校で芝原を見かけたことがない。予想通り俺の通学路は芝原の普段使わない道であった。それなのに芝原はニコニコしながら「こっちからでも帰れるぞ〜」と言って、俺の下校にお供した。

 よく分からんがなんなつかれた。うわさたがわない変な奴だ。俺は率直にそう思った。

 これが俺と芝原の歴史の始まり。この芝原という男は、中学を転校した俺が初めて興味をいだいた男である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る