第十六話「盾」

 梅雨つゆが明けた。実際晴れの日が続いている。朝なのにもう既に暑い。直射日光とわめせみが俺の体力を容赦ようしゃなくけずってゆく。カンカン照りの登校中、俺は今日も考え事ついでに坂を登っていた。

 あの動画。あの忌々いまいましいくろ百合ゆりの動画を、俺は何度か見ようと試みた。世界のみにくさを知ってしまえば、初めのようにおうに至ることはもうなかった。しかしどうしても息が詰まって、すぐに視聴をあきらめてしまう。結局俺はふしと性を結びつけることにえられないらしい。伏見を性的な対象にえることがこれほど困難だったとは。崇拝心がそこまでぼうちょうしていたのかと俺はただただ失望してしまった。

 伏見関連の問題は他にも存在する。「伏見はい人である」問題だ。この命題が真であると証明するのは容易たやすいことではない。まず善い人の定義から明確にせねばならないからだ。カントの理論を参考にするとしても、善意思に基づいた行動かどうかなど他人に分かるわけがない。きっと善い人である証明は限りなく不可能に近いのだ。

 逆に、善い人でない証明は非常にシンプルである。その人の言動から非倫理的なものを一つでも発見すればいのだ。非倫理的な事象は善い人像よりも輪郭りんかくがはっきりとしている。他人への迷惑行為、自分本位な考え方、非がない者への暴言など、何でも良いから非倫理的な行為をしている現場を押さえればい。しかし伏見は一人ひとりっ子なのに両親にまで気を遣うむすめだ。そんな蛮行ばんこうをする人には思えない。だけどこの予想は、崇拝心や先入観によってじ曲げられたものだから恐らく正確ではない。必要条件の理論が正しいのなら、このみにくい世界に十七年以上も関わって伏見の精神がめつしていないのはおかしいのだ。つまり全てを許してくれそうな伏見の包容力は異常である。その異常性の代償を精神に負っていないのであれば、伏見は機械か天使か妖怪ようかいだ。とにかく人間離れしている。伏見を人間に戻してあげるためには、代償としての欠陥けっかんか、悪の一面のいずれかを探し出さねばなるまい。

 これまで俺は会話の中で伏見の非倫理的な言動を探ってきた。しかし俺が確認できる伏見は、優しくて遠慮深い穏やかな少女である。声を荒らげることもなければ、恣意しい的な不満をらすこともない。ただ俺がなにも仕掛けずに伏見を観察するだけでは、彼女の善い面が俺の目に映り続けるだけであった。


 購買へおもむくと、イートインスペースに一人ひとりで座っている伏見を発見した。俺は少し驚きつつも「伏見、お疲れ」と声をかけて横に座る。話を聞くと、たまには購買で済ませるのも悪くないだろうとサンドイッチを購入したのだそうだ。伏見にも休みたくなる時ぐらいあるだろう。弁当作りを一日休む程度のこと、全く悪い事ではない。伏見は自身に厳しいことが多いから、俺は幾許いくばくかのあん感を覚えていた。

 食後、俺達はまた中庭にあるあずまのベンチへ移動する。俺は伏見から非倫理的な発言、悪口を引き出すという目標をかかげ、こちら側からかんに仕掛けてみることにした。

「伏見はなにか嫌いなものとかあるのか?」

 伏見は不思議そうに「嫌いな物?」とり返して「食べられない物なら、無いかな。小さい時は茄子なすが苦手だったけど、今は美味おいしいと思ってるから。花も可愛かわいいしね」と答える。嫌いな食べ物の話になってしまった。

「じゃあ、質問を人に限って、嫌いなタイプとかあるか」

「人……。そうだなぁ、攻撃的な物言いとか口の悪い人は、苦手かなぁ」

 俺は「非倫理的な言動に対する批判は悪言あくげんではない」という基準を採用しているから、これは真っ当な批判ということになる。さらに口の悪い者を嫌うと言うなら同類になるようなことは恐らくしないだろう。つまり、悪口を誘い出す作戦は早くも失敗だ。やはり伏見はごわいということか。個人的には批判の仕方に人間性が出やすいと思うのだか、どうも上手うまくいかなかった。まあ、伏見が本当に善い人である可能性もあるのだが。

 太陽が燦々さんさんと南中する中、俺は新たな作戦を黙考もっこうしている。一方伏見は小さな水筒をかばんから取り出した。ちびちび水分補給している伏見と缶飲料を手にするくろ百合ゆりが重なる。半袖はんそでの制服から見える伏見の手首には、どこにも傷など一つも無い。

 くろ百合ゆりのリストカットこん。比較的平和に生きてきた俺にとって、リストカットは都市伝説のようなものであった。あれをどう解釈すべきなのかずっと考えあぐねている。

「伏見、リストカットって、何でしてしまうんだろうな」

 俺は何の気なしに疑問を共有しようとした。液体を飲みくだした伏見は目をぱちくりさせた後、目線を俺から下にらしながら細い声で「えっと、それは、どういう……」と言って、不安と恐れの入り交じった表情を俺に向けた。

「もしかして野田君もしちゃう人なの?」

「あっ悪い、そういう意味ではなくて。やってしまう人がいるのはどうしてかって言いたかったんだが」

 伏見は「あぁあそうだよね。かった。勘違いしちゃってめんね」と謝った。

「いや、今のは俺の聞き方がまずかったな。すまない」

 俺達は二人ふたりでペコペコした。伏見は平生へいぜいの落ち着いた様子に戻ったが、かすかにものげな雰囲気もただよっているように思える。

「リストカットとか、アームカットとか、自傷行為をするとね、頭がスッキリするの。確か脳内麻薬の影響だったかな」

「じゃあ何だ、本来鎮痛ちんつうのために生成される物質の効能を逆用した行動という訳か」

「そこまで科学を意識してやってる人は、居ないんじゃないかな」

 伏見は困ったように微笑ほほえんだ。確かに「身体しんたい切創せっそうを負うと、エンドルフィンなどの神経伝達物質が分泌ぶんぴつされて、多幸感が得られるのだ」と思いながら自傷してる人がいたらおぞましいな。

「それもそうか。しかし、何を考えての行動なんだろうな」

「自分でも、分からないのかも知れないよ」

「意味もなくやってるってことか?」

「うーん、きっと背景はあるんだろうけど、それをちゃんと説明できる人は少ないと思う。抑々そもそも感情や言動は、論理的じゃないことも多いからね」

 伏見と性を結びつけることに対する拒絶感は崇拝心によって説明できたが、それが論理的な感情かと問われれば俺は首をかしげてしまう。生理的に受け付けないのだと言ってもに落ちてしまう感覚だからだ。

「きっとね、色々な事がからまり合っての結果なの。だから理由を自覚することも、周りに理解してもらうのも難しい……。もし野田君の近くにそんな人が居たら、分かってとは言わないけど、あまり責めないであげて。その人が一番苦しんでるから」

 伏見の口調はしょうぜんとしていた。今回の議論はあまり楽しい雰囲気ではなかったな。テーマが悪かったか。俺を誤解した時も動揺していたし、この手の話題は苦手なのかも知れない。伏見を気落ちさせてまで、俺は何をしているのだろう。というか深く考えずに質問してしまったが、自傷行為ぐらい自力で調べられたはずだ。近頃、頼りぐせがついてしまっている気がする。何でも答えてくれる伏見に甘え過ぎではないのか。俺はこのような男だっただろうか。

 十八歳になってから、自分の嫌なところに気付いてばかりいる。それなのに悪の伏見は一向に見つけられない。善い人幻想げんそうを打ち破るどころか、かえってよりかれてしまう。崇拝心のおとろえる気配がない。彼女の闇を引き出す確実な策でもらない限り、俺は伏見にとらわれ続ける気がしてならないのだ。時々、伏見が善い人過ぎて怖いと思うことがある。伏見が善い人である理由、俺はそれが分からない。


 午後の物理演習。本日監督したのは、以前苦言にかこつけて俺を攻撃してきた先生だった。普段の物理担当が出張か急用かで一時的な代役を立てたらしい。しわの白衣を目にした時、俺はしまったと思った。しかし俺が後ろめたくなるのはおかしいとすぐに思い返す。あの一件だって俺に落ち度は無かったはずだ。俺は数ある席の中から堂々と最前列に腰掛けた。

 演習の形式は過去に出題された入試問題を半分解いて、そのあと先生の解説を聞くというものだ。無事に授業を終えたと思った矢先、やや大柄な先生に「野田、ちょっと来い」とからまれてしまった。他の生徒達はゾロゾロと物理講義室を後にしている。机を片していた俺は仕方なく教壇に向かった。本心を言うとこの男とはもう関わりたくない。しかしクラスメイトの前で露骨に無視することもできかねる。

「何ですか」

「いや、一応聞いておこうと思ってな。お前、まだ大学内容の勉強をしてるのか?」

 今更あの話をり返して小言でも言うつもりなのだろうか。約半年前の話だぞ。ねんちゃくしつにも程がある。これだから成長をほうした大人は嫌なのだ。

「もししてたら、なにか問題でもあるんですか」

 嘘はついてない。最近演習やら宿題やら期末試験やらで忙しく、加えて必要条件の理論や崇拝心という複雑な問題が立て続けに現れたことで、大学物理をやるひまなどなかった。だから本当はしていないのだが、反発心からか思わず強い口調で答えてしまう。

 先生の声は低かった。

「野田、そろそろ焦点を受験にしぼった方がいんじゃないのか。聞いた話では、お前きょうだい目指すんだってな? あまり志望校をめない方がい。関係のない勉強は、受験が終わってからでも充分だろ」

 やはり難癖なんくせを付けたいだけのようだ。

「俺が何を学ぶかは自分で決めます。言いたいことはそれだけですか。それだけなら失礼させていただきます」

 俺は「おい、待て」と呼び止める先生を捨ておき、颯爽さっそうと退室した。この男とは関わらないと決めたのだからこれでいのだ。今日きょうの戦いは特に動揺することもなかった。まあ、前回は不意打ちを食らったようなものだ。身構えていれば心を乱されるようなこともないのかも知れない。

 しかし、そろそろ受験モードに切り替えるべきということか。実際、先生の見解は一理ある。きっとライバル達はもう本腰を入れて受験勉強にいそしんでいる頃だ。もうじき夏休みがやってくる。ここでの努力が差になるのだ。俺もそろそろ受験としんたいしなければならないな。

 そして俺は、これからの勉強は自宅ですることに決めたから図書室にはもう顔を出さないと伏見に連絡した。

『そっかぁ、もうそんな時期だね。ちょっとさびしいけど、お互い受験、頑張ろうね』

 この返信を境に、俺達は受験を終えるまで一度たりとも集まることをしなかった。昼食も教室で食べることにした。事実、演習クラスが分かれていたことが上手うまく作用して、俺達は全くと言っていほどにはちわせなかった。当時の俺は受験を盾にしたのだと思う。その盾を失うまで、俺は伏見からそくに逃げ続けたのだ。

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