第十五話「知らない世界」

『あの……もう、閉室時間、です』

 ……。

『物理の何が知りたいんだ?』

 ……。

『楽しいなぁって、議論って面白いなぁって』

 ……。

『気になる人なら、いないこともない』

 ……。

『恋と呼んでみることにした』

 ……違う。

『青春をおうするとはこういうことなのか』

 ……違う。

ふしはそんなんじゃない』

『俺達は、そんな汚い関係なんかじゃない!』

 違う。

『もっと潔白で、美しくて、ありがたいもので』

 違う。

『これは恋じゃない』

『そんな青春じみた単語で呼んではいけない』

 ……そうか。

『これはただの崇拝すうはいだ』


 土曜日は晴れていた。七月に入って初めての晴天である。昨夜ゆうべの雨が大気に溶けて、俺は余りの蒸し暑さに目を覚ました。水蒸気量がほう寸前だ。寝汗がひどい。この不快をぬぐおうと、部屋干しされたタオルを手に取ったがまだ湿っていた。今は午前中。洗濯物をベランダに移せばすぐにかわくのだろう。頭では分かっているが、実行に至らずそのままにしてしまった。部屋の外ではニイニイぜみ熊蝉くまぜみが命の限り叫んでいる。彼らの声は俺をつまらない人間だと責め立てているように聞こえた。

 朝食とも昼食ともつかない食事を済ませても、頭の中はまだ渾沌こんとんとしている。俺のり所がくずれてしまった。俺はこのままではい人になれないと知った。伏見という善い人に恋していることが善い人へのみちしるべになるかも知れないと考えた。しかしそれは恋ではなくて崇拝だったと納得してしまった。必要条件の理論を修正するひまも、善い人になる打開案を見つけ出すひまもなかった。俺は傲慢ごうまんだった。俺が観測できるのは、視覚を通して認識できるけい而下じかの伏見だけである。伏見の精神はその態度や言動から推察することしかできない。だから伏見を善い人だと決めつけてはいけないのだ。それなのに俺は伏見が善い人であることを公理だと信じ込み、その証明どころか真偽すら探ろうとしなかった。俺が善い人になりそこねたように、伏見にも悪の面があるかも知れない。そんな簡単な事に気付くのに何故なぜこれほどの遠回りをしたのだろう。

 きっと浮かれていたのだ。これほど俺と議論できる人はいないと知ってしまってから。伏見に恋をする自分は、青春をおうする者達に負けていないと思ってしまってから。伏見に関する多くのことに疑問をいだかなかった。伏見が善い人でない可能性から無意識に目をらしていたのかも知れない。本当の伏見を知ろうとせず、自分の都合の良い人格に伏見を脳内変換して、俺はその虚像きょぞうに信仰を寄せていたのだ。それはまぎれもない、伏見への冒涜ぼうとくである。

 科学はそれ自身までも疑ってこそ科学だと言える。科学のじゅんを解決することが科学を発展させる近道でもあるからだ。反対に宗教は信じることから始まる。ただ教えを守れば幸せになれると信じる。理由もなく正しいと信じるのだ。ずっとそれをおろかだと思っていた。しかし俺もその愚かな一人ひとりだったのだ。俺は科学者を目指している身である。俺が宗教的な崇拝心を持っているのは、理想の科学者像にそむいているのと同じだ。結局のところ俺の理想を実現するには、状況を整理し、論理立てて解決策を思案するしかない。

 これまで「善い人には精神的欠陥けっかんが存在する」という仮説に反する伏見を調べることで、必要条件の理論を修正しようとしてきた。しかしその前に、本当に伏見がその反例なのか、伏見は本当に善い人なのかということを問題にすべきである。その大前提を破棄はきすることで、見えるものが変わってくるかも知れない。つまり疑いの目で伏見を観察することで、その精神を探ってみようと考えた。よって、休日である今日きょうはこのことに関してこれ以上の進展はないはずである。

 もう一つの問題は、何故なぜ俺は伏見を汚れてはいけない聖人だと崇拝していたのかである。このれつじょうに気付くきっかけになったのは級友にいかった事件だ。あの時は俺の考えの方が清く正しいと信じていたが、あれが崇拝心の賜物たまものだったと思うと身の毛がよだつ。認めたくはないが級友の方が生物として、思春期を生きる者としてずっと正常で健全なのだ。

 俺はアセクシャルではなかった。いっそのことそうならば何の問題もないのだが、一般と比べて弱いにしろ俺にも性欲はそなわっている。実際、伏見を除いて女性を性的に見ることは可能である。それなら伏見に非があるのだろうか。いや恐らくそれは違う。伏見はもくの垂れたぼくな顔立ちではあるが、容姿に問題をかかえているわけではない。確かに胸はかなりひかえめな部類だが、主張の激しいものに欲情しやすいのかと問われれば、俺はそうでもないと答える。加えて俺は人間の本質は精神であり肉に価値はないと判断する人種だ。だから伏見だけにそういった感情を起こせないのは崇拝以外に説明がつかないことになる。だから伏見の所為せいではない。原因は必ず俺の中にある。

 ならば逆に、俺が伏見を性的な対象としても意識できるようになれば、この崇拝心は消えゆくということなのだろうか。直感では、それは非常にけがらわしいことのように思えるが、同い年の異性を聖人だと崇拝している現状も充分気味が悪いのだから、あらりょうであろうと試してみる価値はありそうだ。

 俺はノートパソコンを起動した。ポータルサイトを開き、アドレスバーに「眼鏡めがね エロ動画」と打ち込む。慣れないことをしているが、五月に誕生日を迎えているから十八禁コンテンツに触れるのは多分問題ない。後はコンピュータウイルスに感染しないことを祈るだけだ。

 検索結果から適当にサイトを選んで、無数のいかがわしい動画一覧をスクロールした。何はともあれ、縦に並んだサムネイルから極力似ている人を探す。俺は事務感覚で選別を始めた。様々な眼鏡めがねをふるい落とし、七、八ページ移動したところで、俺は部屋着姿の伏見を発見した。唐突とうとつ――。しかしホラーは待ってくれない。浮遊感が俺を襲った。ドッペルゲンガーという単語が俺の脳裏をぎる。迷信では見たら死んでしまうのではなかっただろうか。いやそれは自身のそれを目撃した時の話だ。伏見のドッペルゲンガーを見ても俺が命の危機にひんすることはない。

 きょうがくの余り、馬鹿なことを考えてしまった。大体オカルトなど俺は信じないぞ。ほら、落ち着いて静止画と向き合えば、眼鏡めがねが違う。形こそ同一に見えるものの眼鏡めがねふちは赤だ。伏見は桃色。色合いも近いが全くの別物である。

 そのほかの違いをげてゆくと、歳は恐らく二十歳はたち前後。毛先にパーマのかかった髪は、こつに届く程度の長さで、色が金。胸部には明け透けに脂肪がたくわえられている。そして決定的相違、右ほほに泣きぼくろが無い。良かった。やっぱり他人のそらだ。全く、驚かせないでほしい。

 それにしても見れば見るほどに、何だこれは。この世にはそっくりさんが三人いると聞くが、この女性は間違いなく伏見の色違いである。何故なぜ2Pカラーが用意されているのだろう。伏見と性を結びつけるという俺のもく論見ろみが世界に後押されているとしか思えない。これほど目的と一致するものが存在するとは。俺はインターネットを少し怖いと思った。

 動画のタイトルから推測するに、彼女はくろ百合ゆりという名前らしい。名前さえも少し不気味である。画面に表示されているのは、長袖ながそでの部屋着を着たくろ百合ゆりが缶の並んだたくの前に胡座あぐらをかいているという画像であった。ベッドを背にしているが、この画像自体は扇情的なものではない。

 俺は二等辺三角形をクリックする。非等速な円運動が繰り返される読み込み中、俺の鼓動は亢進こうしんいられていた。しかしこれは性的興奮ではない。期待でもない。明らかに緊張だった。そんな俺を、回り続ける円が嘲笑あざわらっている。

 ちょくな俺は、再生された動画を頭から順に視聴した。定点観測の動画は、くろ百合ゆりと男二人ふたりの談笑から始まる。アングルはサムネイルと同一。胡座あぐらを組むくろ百合ゆりがやや左に映り、たんに見切れている顔にはモザイクが重なる。それぞれが酒などの缶飲料を手にしていた。全く刺激のない場面だが、これからあやまちが起こると思うと緊張が解けることはない。

 くろ百合ゆりがエナジードリンクを飲む間、俺は「この人と伏見は一切関係のない赤の他人である」と留意した。そうしなければ勘違いを起こしそうだ。しかし一度ひとたび彼女が発言すれば、垂れた目元と声を除いて二人ふたりは全く似ていなかった。歯の見える笑い方や品のない言葉遣い、落ち着きのない動き、少々攻撃的な口調など、かもし出す雰囲気が異なっている。と言うより伏見の遠慮し過ぎる物腰の方が異常なのだろう。そういう意味ではくろ百合ゆりは至って普通の女の人という印象だった。

 そしてついに、男がくろ百合ゆりの股に手を伸ばして行為は始まった。もう一方はその様子をカメラに収めている。くろ百合ゆりはされるがままだ。彼女のあられもない姿を目にした時に俺の中でき起こった情動ははなはだ特異なものであった。あらゆる感情を断熱圧縮したような衝撃が、俺の体をけ上がったのだ。一言で言えば、それは最悪だった。

 本当に伏見がられているような気がした。伏見が見知らぬ男と姦淫かんいんしているような気がした。伏見が喜んで男を受け入れている気がした。伏見のみだらな声が俺のまくを震わせた。伏見の乱れた姿が俺の心臓をつらぬいた。そして何より、男の陰部をもてあそぶ彼女の手首に刻まれた幾筋いくすじものリストカットこんが、俺の両目に焼き付いた。それは俺のはいをもえぐるようだった。

 俺は知らない世界をかい見た。それは黒かった。真っ黒だった。一寸の光すら感じなかった。俺が物理を通してのぞいていたものなど、この世のほんの一部だったのだ。世界はもっと広大で、底の知れない巨大な沼で、俺が想像していたよりもはるかに、遥かにみにくいものだった。俺の望む美しい世界など無いのだと知った。

 そして、ただ気持ちが悪くなった。胸部の違和感が血肉を伝導して全身へ広がる。胃が逆回転を始めた。消化管を逆走する物がある。俺は合体まで耐えることもできずに急いで台所に向かい、口から出得でうる最も汚い物をシンクに弾け飛ばした。酸の臭いが顔じゅうけ回った。どうけいしょうのように鳴り響いた。呼吸もひどく乱れていた。それらが永遠に続きそうで、どこまでも追いかけて来そうで、ただただ戦慄せんりつした。禍々まがまがしい無数の手が、俺を知らない世界に引きずり込もうとしている。俺はその一歩を自ら踏み出してしまったのだ。

 梅雨つゆ明けを目前にひかえた生乾きの匂いと七月の蒸し暑さが、額やほうつたあぶらあせが、瀉物しゃぶつを流す水道水の水音みずおとが、そしていまだ部屋に響き続ける伏見のきょうせいが、それら全てが俺の理想をじゅうりんしようとしていた。自身にかけられた呪いのすさまじさに俺は震えることしかできなかったのだ。

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