第十四話「崇拝」

 思春期の男子が数人つどえば、多くの場合始まるのは猥談わいだんだ。異性の同級生、女性教師、芸能人などの容貌ようぼうや肉体についてわいな意見を言い合ったり、互いの性的こうを発表し合ったりする。とにかくれつな単語が飛び交う。俺は彼らの性への態度を嫌った。恥ずかしいと言うより、恥ずべきものであると感じる。それは対象を汚す行為であり、自らを低俗へおとしいれる行為だ。どうしてりょくを性でしか語れないのだろう。いくら考えても理解などできない。できない方が良いのかも知れない。そういうやからにとって、性とは一種の宗教である。そこに理由や論理は存在しない。

 勿論もちろん、俺にも性欲はある。未熟だった小学生の頃は、猥談わいだんの輪に混じっていたこともあった。しかし、中学生になってから周囲との違和感を覚え始めたのだ。まあ、あの頃は学級に馴染なじめなかったことも一因なのかも知れないが。

 とにかく、今の俺はふしにそんなみにくい感情を向けたことは一度もない。性的な欲求を一切覚えない、きわめてプラトニックな感情である。俺は伏見の人柄にあこがれた。だから外見ではなく内面の美しさで伏見を語ることができる。俺はい人に対するこの美しい感情に、ほこりのようなものを感じていた。


 善い人になれるのはなにか大きな障害をもっているなど「普通の精神をもっていない人」に限られる。

 必要条件の理論を修正するため、伏見の観察を始めて約一月ひとつき。その期間中に期末試験が重なってしまい、特筆すべき成果もなく、梅雨つゆは後半戦に差しかかる。七月に入ったことでまた一段と蒸し暑い日が続いていた。

 静かな図書室には雨音がしとしと木霊こだまし、俺と伏見だけを俗世から切り離す。最近は模試の解き直しやテスト形式の宿題も増えてきて、大学内容の物理学を勉強しているひまなどないが、時折俺達は定例の議論会を開催していた。

「恋は下心、愛は真心なんて言葉があるが、これは哲学的にどうなんだ?」

 伏見への感情を恋と読んでみることにしたものの、この定義で考えると性的な下心がないからこれは恋ではないということになりそうだ。ならば、これは愛なのか? しかし愛と言うと少しおお袈裟げさにも思えてしまう。

「愛を研究した人はきっと沢山たくさん居るんだろうけど、わたしが話せそうなのはフロムかな。愛は技術だって言った人だよ」

 それだけでは理論の全貌ぜんぼうが全く見えてこない。伏見はペンを置いて説明を始める。

「その意味するところは確か、愛は全ての人があらかじめ備えている心の状態だと考えがちだけど、人を愛するにはその理論を学び習練する必要があるって感じだったかな? まさに技術だね」

 愛の理論。そこにこの感情の答えがあるのだろうか。

「その理論とはどういったものなんだ?」

「色々あるはずだけど覚えてる限りでは、『愛されるから愛す』より『愛すから愛される』の方が成熟しているとか、愛とは相手の成長と幸せを願い、そのために行動することだとか」

「ほう」

 要するに「見返りを求めず人を愛せ」という無償の愛を言っているのか? 相手の成長を願うというのは、親から子への感情と同じと言っていのだろうか。

「愛は単なる激情ではなくて、決意や約束でもある信念の行為だから、抑々そもそも信念を持ちない人は愛することも出来ない、とも言ってたかな」

 信念か。揺るがない自己をもつべしということなのだろう。つまり、フラフラして落ち着かない奴は、愛する能力を持てないということだな。

「後は、愛し合えるのは自立した者同士だけで、そん関係は愛とは呼ばない。だから、愛する為には一人ひとりでも生きていけなきゃいけないの」

「つまり、相手がいないと駄目っていうのは、一見いっけん愛が重いようだが、それは愛じゃないってことか」

「うん、多分その解釈で大丈夫だと思うよ」

 伏見はまだまだ記憶をしぼり出す。

「えーと、他には、愛は落ちるのではなくもっと能動的な行為で、もらうよりも与える。この与えるっていうのは、知識とか自分の中に息づいているものって言ってたかな? そうやって相互に与え合って、高め合ってゆくのが理想の関係ってことだね」

 口に出すのははばかられるが、伏見の説明は俺達の関係のように聞こえた。教え合って、二人ふたりで考えて、新境地や高みを共に目指す。

 伏見ほどの善い人はそうそう見つけられるものではない。だけど交際したいとじんも思っていないのはどうしてだ。現状に満足しているからだろうか。やましい気持ちがないのは良い事のはずなのだが。

「他にも沢山たくさんあったんだけど、駄目だなぁ。思い出せないみたい」

 伏見は自身の額を三つ指でトントンしながら軽くなげいた。伏見はそう言うが、即座にこれだけ呼び起こせるというのは記憶力が良い方である。

「それじゃあ『理想的な愛はプラトニックな肉体関係を望まないものである』とか、そんな感じの理論はなかったか?」

「そう言えば、愛と性愛を同一に見てはいけないとか、孤独を埋めるための性愛は良くないとは書かれてたけど、完全に性愛を断てとはなかったような……。多分、いんすすめるのは、宗教に多い考え方なんじゃないかな? と言っても、日本の神道しんとうや仏教は、性に寛容かんようなことが多いんだけどね」

「仏教がか? しかし、性欲は煩悩ぼんのうめっきゃくする対象だろう」

勿論もちろんみだりがましいのは駄目なんだろうけど、日本のお坊さんの多くは妻帯者さいたいしゃだからねぇ」

「というか宗教の話はどうでも良いんだが」

 俺は次第に胸の辺りが気持ち悪くなってくる。伏見はあごを触りながらこう言った。

「あっめんね、また話がれてたね。そうだなぁ。だけど色欲を完全に無くすとなると、命のれんを途絶えさせることになっちゃうし、性欲は人間の本能的に存在してしかるべきだと、わたしは思うけど」

 性欲は悪じゃない? 好きな人を性的に見ることは当然なのか? それなら何故なぜ、俺は伏見を性的対象にしないままでいられるんだ。じゃあ好きって何だ。俺は伏見に何の感情を向けている。

 今日の議論によって、答えまで後少しのところに来ている気がする。考えろ。性欲が悪なのは本当に宗教思想なのか? しかし性欲感情はけがらわしいものじゃないか。俺が伏見にいだいているのはもっと潔白で、美しくて、ありがたいもので、言うなれば神聖な感情だ。俺が偽善者だったことをざんした時だって、伏見のあいに満ちた言葉が俺の心を浄化するようだった。その時の伏見は女神のように輝いて見えて、俺はやっぱりこの人にかれてるんだなって。それに伏見は心がとてもれいで、けがれを知らなくて、そう、それこそ聖女のような善い人で……。

 善い人? 

 伏見が善い人だと、いつ決まったんだ? それに、何だこの感じは。先程からき出てくる単語がおかしくないか? それだとまるで――。

 ここで、論理のつながる音がした。恋と呼ぶことにした俺の感情、伏見が性的な対象でないこと、伏見との交際を望まないこと、伏見を善い人だと思っていたこと、級友の言葉にたかぶってしまった理由、全てが説明できる。それは崇拝すうはい

 俺は思い違いをしていた。あの時、俺は級友の言葉に伏見が汚されたと感じたのだ。汚されたということは、神聖なものだと思っていたということ。因果の倒錯とうさくだ。性的対象にしないから神聖な感情なのではない。神聖な対象だから性的欲求を覚えないのだ。伏見と性概念がいねんの結合を、俺は無意識にきん化していたんだ。その禁忌へおとしいれようとした級友に、俺は激怒した。

 肉欲をともなわない俺の感情は恋でも愛でもましてやプラトニックでもない、これはただの崇拝だ! 伏見の本能的、物質的な肉の部分を否定し、精神をあがめることで伏見を聖人かなにかに祭り上げようとしていたんだ。これは崇拝だったんだ! 俺はそんなくだらない感情をありがたいものだと勘違いしていたのか。

 伏見を善い人だと信じ込んでいたのが何よりの証拠だ。人は多面性をびている。俺から見える一面だけで善い人だと判断してはいけない。何故なぜ、伏見が俺に向けている面が彼女の全てだと思っていたのか。人間とは多面体なのだ。

 例えば俺の姉は、良い姉だが善い人ではない。溌剌はつらつとした自信家で、お笑い芸人という夢に全霊を打ち込んでいた俺の自慢の姉は、面白みに欠ける人や勉強、非をみとめるのが大嫌いで、何より下品なネタや人をこきおろす笑いを絶対に許さない人だった。

 俺がまだエロ餓鬼がきだった頃、一度だけ彼女の逆鱗げきりんに触れてしまったことがある。当時中学生だった姉はり飛ばした弟ののどつかみ「アタシの前でよくそんなことが言えたな」とすごんだ後、小学生にはしきれぬ恐怖を次々と口にした。姉は普段、笑いのためだけに頭を高速回転させている。それを口撃こうげきに切り替えた時の姉はじんだった。お陰で俺は下品を発さない男に育ったのだ。

 お互い成熟すると、彼女には「面白くて世話焼きな美人の姉」という面だけが残った。しかしその一本いっぽんは決して失われていなかったのだ。姉が念願のお笑い養成所に入門して数ヶ月が経った冬の日。家族そろっての食事中に姉は下手へたな笑顔で「お笑いき」に戻ると宣言した。話を聞くと、笑いに真面目過ぎるがために養成所でめ事を起こしたらしいのだ。高校二年生の姉は「アタシなりに色々考えた。我慢しよって思った。でもダメだった。笑いで食べてくなら、このしんは邪魔。でもアタシは、自分を曲げるくらいなら、もう芸人にはならない。だからアタシは、ただのお笑いずきの女に、もどることに、きめました……」と涙声で言った。軽々しく激励げきれいなどできなかった。いつも心きよくおどけていた姉のさびしい表情を見たのは、あの時が初めてだったから。姉が養成所の学費を一年半かけてコツコツめていたのを、俺は知っている。青春を笑いにささげていた俺の自慢の姉が、芸人をあきらめてしまった。

 短大を卒業した後は実家でフリーターをやっている。アルバイト生活は今年ことしで二年目。俺の自慢だった姉は、そろそろ人生を真剣に考えねばなるまい。

 単純そうな姉でさえも複数の面をもっている。だから人の一面だけを切り取って、全てを知った気になるのは余りにも傲慢ごうまんだ。俺は伏見を絶対の善として根拠もなく信仰していたんだ。ただの人間だというのに。ただの同い年の女の子だというのに。

 俺はあやまって恋と呼んでしまっただけだ。たったそれだけの事である。言葉は曖昧あいまいでありながら、こんなけがれた感情をはなやかだと勘違いさせてしまう力がある。これは恋じゃない! そんな青春じみた単語で呼んではいけない。これは崇拝だ。宗教だ。これまで軽蔑けいべつしていた「宗教を盲信もうしんする者達」と何一つ変わらなかったのだ。崇拝だ! これは崇拝だったんだ……!


 春と共に訪れた恋の予感は、俺の目に一時ひとときまぼろしを映し、美しくもみにくい呪いの花だけを残して、闇の奥へとけ抜けていった。

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