第十三話「必要条件」

 い人になる。それは俺の人生目標の一つだった。それは夢と換言かんげんしても良いだろう。この三年間で少しは近づけたと思っていた。しかし俺は「善い人になりたい人」の集合から出ることあたわず、理想の善い人とは程遠い善者ぜんしゃなのだと、昨日さくじつさとってしまったのだ。

 偽善者と言うと「善い人に見せかけたい人」を想像するかも知れない。事実、カントの理論を聞くまで俺もそう考えていた。外面そとづらではなく中身を重視した俺はそのような奴らとは一線をかくしているが、それでも偽善者の中ではマシな方であるというだけなのだ。

 どうやら俺は見当違いの方に向かっていたらしい。俺はこれからどう生きればいのだろう。俺が善い人になれる方法は本当にあるのか。俺には素質がなかったのだとあきらめる他ないのだろうか。嫌だ。すぐにでも解決のいとぐちが、善い人に向かっている実感が欲しい。ただちに考えを改めなければ。しかし頭の整理が一向につかない。

 結局、俺は身近な善い人に助けを求めた。どうしようもない俺はふしに相談するまでこの問題を保留としたのだ。


 購買は一階渡りろうと体育館、中庭に囲まれた離れだ。弁当や惣菜そうざいパンの売り場がある他、建物の半分以上が食事を自由にできる空間になっている。購入した唐揚げ弁当をイートインスペースの長机に置いて、俺はにごった青緑色の丸椅子いすに腰をかけた。

 俺がかかえているのは善い人の問題だけではない。物理準備室の前で級友に浴びせかけた台詞せりふをふと想起する。昨日きのうの俺は何故なぜ激情にられてしまったのか。しぼり出した仮説は、俺のプラトニックな感情と級友のぞくな恋愛観がひどく違っていたからというもの。彼のように男女と性を考えなしに結ぶのはしつけだ。俺が伏見に寄せる想いは性愛などではなく、もっと潔白で美しい。しかしこの説では激昂げきこうへの説明が不十分で、仮に真であっても俺の免罪めんざいなることはない。本当に何故なぜ怒りを覚えたのだろう。

 考え事のに、行列は入口から突き出し渡り廊下へと伸びてゆく。昼食を買いに来た客達のわきを抜け、手提げを肩にかけた伏見が恐縮しながら現れた。気持ちおずおずと俺を探し歩いている。伏見の姿を目にしただけで、俺はじゃっかん気がやわらぐのを感じた。とことこ近寄ってきた伏見は俺の隣、一番端の席に座る。

「購買部には初めて来たけど、結構人が多いんだね」

 白い机にかばんを置いて伏見は周りを見渡す。これまでの集合場所は決まって静かな場所だった。それゆえに伏見と喧騒けんそうは本来ならば背反はいはんするもののように感じる。

「大体いつもこんな感じだ」

「野田君はよく来るの?」

 俺は「よくって言うか、毎日だな。弁当を作るのは俺には無理そうだから」と答えて、プラスチックのふたを外す。俺が弁当を作らないのは、主に朝起きられないことが原因である。

 伏見は手提げから取り出した角丸かどまる長方形の二段を開きながら「そっかぁ、でも慣れたらそんなに大変なものでもないよ」と言った。

 伏見の手元には白米をきつめた一段と、落ち着いた色味の副食を並べた一段が置かれている。一瞥いちべつした限りでは、卵焼きやウィンナー、金平ごぼうに大学芋などが確認された。伏見の弁当からは、女子特有のダイエットにとらわれた様子が見られない。

「それ、自分で作ってるのか」

 伏見は「そう、だね」とみとめたが「と言っても冷凍食品の詰め合わせみたいな物だから大した物でもないんだけど」と補足した。あい変わらず自己評価が低い。

「俺は充分すごいと思うが。高校入ってからずっと作ってるんだろ?」

「え、いや、確か、二年生になるちょっと前からだったような」

「そうなのか? じゃあ、その前はどうしてたんだ」

「それまでお母さんに作ってもらってたんだけど、わたしの分だけだと段々申し訳なく思えてきてね……。それで自分で作ることにしたの」

 これまでもつくづく遠慮深いとは思っていたが、俺の想い人は両親にまで気を使うのか。記憶が正しければ、伏見は実家暮らしの一人ひとりっ子だったはずだ。実家でもこの調子なら、伏見の気はいつ休まるのだろう。逆にずっと気を配ってて平気なら、伏見は華奢きゃしゃな見かけによらず精神的にタフなのかも知れない。やはり真正の善い人は格が違うな。

 俺達は二人ふたりで頂きますを唱え、黙々と弁当を空にした。そして購買から近い中庭のあずまに移動する。本日の天気はくもり。連日の雨は中断されたが、今にも降り出しそうな暗雲あんうんが俺達を冷たく見下ろしている。

「昼休みをつぶしちゃって、悪いな」

「それは大丈夫だけど、どうしたの?」

 同じベンチに座った伏見が心配を声に変えた。

昨日きのうのカントの話。あれを聞いてから、考えがまとまらなくてな。なんと言うか、俺がこれまで人助けのつもりでやってきたことは、偽善なんじゃないかって」

 これはざんだと思った。勝手だと理解しつつも、伏見の他に頼るべきものを知らない俺は、彼女の表情を視界に入れられずに話を続ける。

「俺は、善い人になりたかったんだ。別にボランティア団体に入ったり、派手になにかしたりするわけじゃないけど、小さくたって人の役に立っていれば、きっと善い人になれるんだって思ってた」

 伏見は驚くことも失望することもなく、ただ穏やかに「じゃあ、野田君が仕事を手伝ってくれたり、勉強を教えてくれたりするのは……」と事の因果を追っている。

「そう、善い人への前進のつもりだったんだ。だけど俺がやってたのは、経験値かせぎなんだよ。善い人になるための経験値稼ぎ。人助けをり返してれば、いつかはレベルアップして善い人になれるんだと、そう思ってたんだ。でもそれって行為が手段になってるってことだろ? 俺は善をさくしてたんだよ」

 俺はひじひざに置き、拳をてのひらで包んでうな垂れた。

「そうかなぁ、わたしには善い人になるって目標が、利己りこ的だとは思えないけど。それにね、カントの道徳論はかなり厳格で、彼の言う善を実行するのはとっても難しいの」

「難しいのは分かってる。でも難しいからあきらめるっていうのは違うと思うんだ。ずっと感じていた自分への違和感を言い当てられた気がした。善い人になりたいから助けるじゃ駄目なんだよ。俺が本当に目指したかったのは『困ってるから助ける』、『その人のために助ける』ってことなんだ。だから、俺が間違っていたのは分かった。でも染み付いた考えはすぐには変えられない。どうしたらいのか、分からないんだよ。俺は今、今変わらないと駄目だと思うんだ」

「相談事は、今ぐ変わるにはどうしたらいかってこと?」

 俺はうつむいたまま「ああ」と返答した。伏見はいつものように考える人となる。

 言葉を交わさないまま時間だけが流れていった。購買かられる殷賑いんしんみつ波を除いて、耳に届くものはなにもない。このあずまだけが、孤島のように社会から隔絶かくぜつされている。社会は理解し合えない人々と共に生きてゆかねばならないから残酷だ。

「変われないってことはね、中々変わらないってことなんだよ。ぐに変われる人はとどまって居られないの。善人にも悪人にも転がって、いつの間にか居なくなっちゃう。変われないってことは、一度善い人なれたら、長い間善い人で居られるってこと」

 俺は顔を上げて彼女を見た。伏見はここから見える中庭の池を優しい目でながめている。

「だから、そんなに悲観することは、ないんじゃないかな。予想してたよりも目的地が遠いと分かって、あせってしまうのは分かるけど。だけど今までの行為が、無駄になる訳じゃないよ、きっと。従来の方法では効率が悪いと気付いただけ。多分ね、今は次のステージへ踏み出す準備段階なんだよ」

 そう言いながら徐々に俺に顔を向けた伏見は、最後には俺の目を真っとらえて「聖人とたたえられてるガンジーだって、学生時代は素行が悪かったみたいだし、きっと急がなくてもいんだよ。ゆっくり自分の方法を見つければ、それでいんだよ?」と俺をさとした。

 伏見のやわらかい声は、全てを包み込むかのように暖かかった。心が、洗われていると感じた。しょうそう感が薄れてゆく。小柄な少女が少しかがやいて見えた。俺はやっぱり伏見が好きだ。伏見が善い人だから好きなのだ。俺の善行が否定されてしまった今、善い人をしたう心だけが俺が善い人になる唯一ゆいいつの手がかりなのかも知れない。

 伏見は別れ際「解決できなくて、めんね」と謝った。人生を一年とするなら俺達はまだ春の季節にいる。確かに解決を急ぐ必要はない。落ち着いて、考察してみよう。

 恐らく一番の間違いは、今の俺のままで善い人になれると思っていたことだ。もし善い人になる必要条件が存在するなら、まずはそれをクリアしなければならない。その条件とはどのようなものなのだろうか。

 どれだけれいな心をもって生まれたとしても、社会にまれる内に精神がめつ易々やすやすと純粋のままではいられない。善い人は損をする、善い人は格好悪いというけんを小中学生の間に植え込まれてしまうからだ。そうでなくても前例の少ない善い人へ続く道は、いばらき分け自力で探さねばならない。その大変さに多くの者がせつしたり、精進へのほこりが他者への見下しに転じたりする。ひっきょう、善くも悪くもない人として生きるのが一番楽なのだ。ほとんどの人が精進することを嫌う。そして落者らくものがのさばる社会が形成される。

 俺は芝原しばはらから稀有けうい作用を受けた身ではあるが、信条の置き方をあやまり偽善者止まりであった。これほどの幸運をつかんでいながらこのザマなのだから、善人道ぜんにんどうとは過酷なものである。

 自分を含めた数多あまたの人間からのう法的に推論して、そもそも善い人は0にきんできるほど少ないのだろう。善き精神を手にする難しさもさることながら、世に蔓延はびこみにくい心の隣人に囲まれて善い人のままであり続けることがどれだけ困難か。善い人は困っている人を見つける炯眼けいがんをもっていながら、しき隣人を視界に入れない技術をそなえているのかも知れない。

 そしてここに一つの仮説が生まれた。それは、善い人になれるのはなにか大きな障害をもっているなど「普通の精神をもっていない人」に限られる、というものである。何度思考実験をり返しても、ごく一般的な精神では必ず周囲からの悪影響を受け人格がゆがんでしまうのだ。病的に純粋でないと善い人になどなれないのではなかろうか。

 しかしこの理論にはまだ問題点がある。善い人である伏見に、それほど大きな欠点があるとは思えないのだ。伏見という反例が実在する時点で、この命題には改善の余地がある。ならば、伏見には何か秘密があるはずだ。伏見の存在はこの不完全な必要条件の理論、または俺が善い人になるための方法に新たな視点をもたらすはず。そのために、まずは伏見をさぐることから始めてみよう。

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