第十二話「影」
午前中の演習を終え購買へ向かう道すがら、俺は
「伏見」
夏服に衣替えした伏見は少し驚いた様子で振り返った。
「あ、野田君、お疲れ様」
廊下を突き進んでいる先程の女子を見つめて俺は「どうかしたのか」と事情を聞いた。
「
「ん?
今年度になってからカウンターに立つ伏見を一度も見かけていない。てっきり
「いやぁ違うよ。図書委員だったのは、一年生の時だけだね」
「え、いや、二年の時もしてたよな?」
伏見が図書委員でなかったら、あの時俺達は出会っていないはずだ。
伏見は平気そうに「あれも代役だよ」と告げた。
そうだったのか。言われてみればシフトが不規則だったが、まさか代役だったとは。
「伏見、それ押し付けられてるんじゃないのか」
もし強いられているならどうにかしなければ。伏見が言いづらいなら俺が代わりに談判してやる。伏見を何だと思ってるんだ。
「ううん、
「本当に、大丈夫なのか」
「うん」
どうやら本当に無理はしていないようだ。ちょっと
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「え、駄目だよ、野田君だって忙しいのに」
「あのなぁ伏見、忙しいのはお互い様だ。どうせ俺も図書室へ行くんだし、
善い人を手伝うことが、善い人になる近道であることを俺は知っている。
「
伏見は
放課後、雨は一段と激しさを増していた。雨音が響く二階の渡り廊下を通り、再び三階へ上がる。
「お、野田じゃん。久しぶり〜」
昨年度、同じ学級に属していた猫目で赤茶髪の級友である。この男とは学級が変わってしまったので、正しくは級友ではなく元級友なのだが、面倒なのでこれまでの
「久しいな」
俺達は物理準備室の前で足を止めた。触れる外気が少し
「全然会わなかったなー、演習でも一緒にならねぇし。野田はどのクラス受けてんだ?」
「最難関クラスだ」
「あーだからか〜。つーか最難関って
級友は露骨に驚いた。この学校は東大を受ける
「野田も大変だよな。オレなんか普通の国公立なのに、毎日毎日演習で
「受験生なんだから仕方ないだろ」
「でもこれからずっとこんな感じなんだろ? このままでいいのかよ、オレ達高三だぞ?」
勉強
「あっそうだ、おい聞いたぞ、野田。お前、彼女いるんだってな」
「は?」
思わずこの一音が
「いやー女って難しいよな。オレなんか一年以上続いたことがねぇよ」
級友は俺が彼女持ちだとして話を進めようとする。俺に交際経験など一度もない。
「待て、俺に彼女なんていないぞ」
「あはは、中学生じゃないんだから彼女ぐらいで恥ずかしがんなよ。
図書室、伏見のことか。
伏見のために
「オレ、見たことあるぞ野田がメガネの地味な子と歩いてるとこ。実際付き合ってんだろ。告白はどっちからだ。野田からか? どこまでいった? キスぐらいはしたんだろ? なぁ?」
雨は止まった。晴れたのではない。
人間の口とは、
「黙れ……」
俺の声は
「何て? 聞こえな――」
俺は
「黙れと言ったんだ。伏見は、伏見はそんなんじゃない。
言葉が勝手に口から飛び出した。感情が思考に反して叫べと言った。
俺は涙目になるほど感情的だった。体が熱い。
目を丸くした後、級友は
級友を、困らせてしまった。今後級友を見かける度に気まずくなるのは目に見えている。適当にはぐらかして、級友と
おい俺、善い人になりたいんじゃなかったのか……。
「カント?」
伏見が
俺達は今、
「ああ。前に言ってなかったか? カントの道徳論、ちゃんと聞いてなかったと思ってな」
初めて隣同士になった日の帰り際、伏見がそんなことを言っていた気がする。あの日気にしてなかったことが、今になって頭を
「カントは難しいから、
このような議論では、
「動機が善だとしても、結果誰かを困らせることになるなら、それは
「現代の感覚だと、そっちの意見の方が多いかな。だけどカントは、道徳的な行為は動機が善じゃないといけないっていう動機説を唱えた人でね、動機さえ善なら結果は問題ではないと考えたの」
果たして本当にそうだろうか。
「動機が善ならどんな
「うーん、と言うよりは、意図しない善行を偽善だとして許さないって感じかな」
「それなら、動機・結果が共に善の時のみ道徳的と言った方が良くないか? と言うか、そもそも何をもって動機・結果の善悪を決めるんだ」
「カントは結果については言及してないから、後者は分からないけど、動機の善、それは善意志だね」
伏見はキーワードを先に
「人の性質の中で、無条件に
確かに、優秀な人材の悪行は決まって
「
「あー、説明が
伏見はこめかみを触りながら脳内検索を行い、文献を音読しているかのように語り出した。
「道徳法則っていうのは、
「悪い、ちょっとよく分からないんだが」
「あっ
伏見の解説は中々に難解で、俺は部分的に理解することしかできなかった。だから善い人とは
「つまり、仮言命法では、善行が手段になっているのが問題なの。善行はそれ自体が目的じゃないといけないから。
そうか。分かった。分かってしまった。ずっと感じていた、伏見達と俺の違い。
俺が人を助ける時、考えるのは、芝原ならどうするのか、あの男のようになるにはどうしたら
俺は善行を手段にしてしまっている。善い人になるための手段。誰のために手を
俺は善い人にはなれないのだ。
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