第十二話「影」

 水無みなづきが空に厚い雲を呼び、雨の降り止まない季節がやってきた。終末速度の水滴が今日きょうも天から落下を続けている。夏用の制服に移行したというのにとにかく蒸し暑い。汗を吸った灰色のシャツが執拗しつように肌に接触してきて、俺は終日不快な思いをした。

 午前中の演習を終え購買へ向かう道すがら、俺はふしの後ろ姿を発見する。ろうと渡り廊下の交差点で女子と立ち話をしていた。話し相手は「それじゃあ、お願いね〜」と言い置いて去ってゆく。俺は廊下に残された想い人に近づいた。

「伏見」

 夏服に衣替えした伏見は少し驚いた様子で振り返った。長袖ながそでのセーラー服はこんだった部分が白になり、スカーフがぐんじょうになっている。えりやスカートの淡青たんせいしょくは、とても明るくせいりょう的な印象だった。

「あ、野田君、お疲れ様」

 廊下を突き進んでいる先程の女子を見つめて俺は「どうかしたのか」と事情を聞いた。

今日きょうの図書委員の仕事をね、頼まれたの」

「ん? 今年ことしも図書委員だったのか」

 今年度になってからカウンターに立つ伏見を一度も見かけていない。てっきり今年ことしはやってないのだろうと思っていた。

「いやぁ違うよ。図書委員だったのは、一年生の時だけだね」

 なにかおかしくないだろうか。

「え、いや、二年の時もしてたよな?」

 伏見が図書委員でなかったら、あの時俺達は出会っていないはずだ。

 伏見は平気そうに「あれも代役だよ」と告げた。

 そうだったのか。言われてみればシフトが不規則だったが、まさか代役だったとは。

「伏見、それ押し付けられてるんじゃないのか」

 もし強いられているならどうにかしなければ。伏見が言いづらいなら俺が代わりに談判してやる。伏見を何だと思ってるんだ。

「ううん、みんな忙しいだけだよ。それにお仕事が嫌いなわけじゃないし、わたしがやるって言い出したから」

「本当に、大丈夫なのか」

「うん」

 どうやら本当に無理はしていないようだ。ちょっとい人過ぎやしないか。俺には伏見と芝原しばはらが重なって見える。俺が伏見を好きになったのは、彼らが似ているからなのかも知れないな。

「じゃあ、俺も手伝うよ」

「え、駄目だよ、野田君だって忙しいのに」

「あのなぁ伏見、忙しいのはお互い様だ。どうせ俺も図書室へ行くんだし、二人ふたりでやっても問題ないだろ?」

 善い人を手伝うことが、善い人になる近道であることを俺は知っている。

有難ありがとう」

 伏見は微笑ほほえんだ。伏見がその案内人をになってくれるのだから、礼を言うのは俺の方だ。


 放課後、雨は一段と激しさを増していた。雨音が響く二階の渡り廊下を通り、再び三階へ上がる。今日きょうは横風が弱く、物理準備室に接する外廊下は運良くみずびたしを逃れていた。伏見の待つ図書室はこの先だ。俺はベランダのような外廊下を抜ける。その途中、めずらしい顔に出くわした。

「お、野田じゃん。久しぶり〜」

 昨年度、同じ学級に属していた猫目で赤茶髪の級友である。この男とは学級が変わってしまったので、正しくは級友ではなく元級友なのだが、面倒なのでこれまでのしょうを用いることにしよう。

「久しいな」

 俺達は物理準備室の前で足を止めた。触れる外気が少しすずしい。雨は一向に止む気配がなかった。

「全然会わなかったなー、演習でも一緒にならねぇし。野田はどのクラス受けてんだ?」

「最難関クラスだ」

「あーだからか〜。つーか最難関って東大とうだい受けるやつらのクラスだろ? やべぇな!」

 級友は露骨に驚いた。この学校は東大を受けるやからが身近にいるので、彼らがどれだけ抜きん出ているのかを一般人よりは把握している。俺の「別にみんなが東大を受ける訳では」という訂正は外の強い雨に流されてしまった。

「野田も大変だよな。オレなんか普通の国公立なのに、毎日毎日演習でごくだと思っているぞ」

「受験生なんだから仕方ないだろ」

「でもこれからずっとこんな感じなんだろ? このままでいいのかよ、オレ達高三だぞ?」

 勉強けなのは高校三年生だからだろ。

「あっそうだ、おい聞いたぞ、野田。お前、彼女いるんだってな」

「は?」

 思わずこの一音がこぼれ出た。

「いやー女って難しいよな。オレなんか一年以上続いたことがねぇよ」

 級友は俺が彼女持ちだとして話を進めようとする。俺に交際経験など一度もない。

「待て、俺に彼女なんていないぞ」

「あはは、中学生じゃないんだから彼女ぐらいで恥ずかしがんなよ。うわさになってたぞ、図書室デートしてるって」

 図書室、伏見のことか。半年はんとし近く一緒に放課後を過ごしていたら、どうやらうわさになっていたらしい。密会していた訳ではないし、誰かに知られていてもおかしくはない。これを伏見が聞いたらどう思うのだろうか。俺はただ申し訳ないと感じた。

 伏見のために風聞ふうぶんきょを申告しようと「おい、それはちが――」と言いかけた時、きわめてさわやかな口調の級友から追い討ちを食らった。

「オレ、見たことあるぞ野田がメガネの地味な子と歩いてるとこ。実際付き合ってんだろ。告白はどっちからだ。野田からか? どこまでいった? キスぐらいはしたんだろ? なぁ?」

 雨は止まった。晴れたのではない。こおりついたのだ。

 人間の口とは、ひどみにくい部位だと思った。脳天から墨をかけられたような、泥を胸いっぱいに吸い込んだような心地がした。きっとむしが走るとはこのことだ。

「黙れ……」

 俺の声はかすれていた。雨は降り続く。

「何て? 聞こえな――」

 俺はのんな顔をにらんだ。

「黙れと言ったんだ。伏見は、伏見はそんなんじゃない。じょくするな! 俺達は、そんな汚い関係なんかじゃない! 黙れよ、黙れぇ!」

 言葉が勝手に口から飛び出した。感情が思考に反して叫べと言った。わきの下から気持ちの悪い汗が出てくる。まとわりつくシャツが、俗世のようで嫌だった。俺はもっと洗練された美しい世界を望んだ。

 俺は涙目になるほど感情的だった。体が熱い。何故なぜここまでの怒りを覚えたのか、この怒りはどこから来たのか、分からない。とにかく俺はこの五年間で類を見ないほどのぼうの怒りに震えた。

 目を丸くした後、級友はしょうぜんとして「オ、オレが悪かったよ。野田の恋愛事情はなぞだから、ちょっと気になって。別に嫌がらせのつもりじゃ……」と謝り「じゃ、じゃあな」とけていった。俺は物理準備室の前で立ち尽くしている。

 級友を、困らせてしまった。今後級友を見かける度に気まずくなるのは目に見えている。適当にはぐらかして、級友となおのこと距離を置けばそれで問題なかったというのに。何故なぜ、彼をあそこまで責め立てる必要があったのか。

 おい俺、善い人になりたいんじゃなかったのか……。


「カント?」

 伏見がとんきょうな声を出した。

 俺達は今、せま受付うけつけカウンターに並んで座っている。二人ふたりで図書委員の仕事をしているのだが、来客は勘定できる程度なので基本的には待ち時間である。

「ああ。前に言ってなかったか? カントの道徳論、ちゃんと聞いてなかったと思ってな」

 初めて隣同士になった日の帰り際、伏見がそんなことを言っていた気がする。あの日気にしてなかったことが、今になって頭をぎったのだ。

「カントは難しいから、わたしもちゃんと理解できてるかどうか分からないけど……そうだなぁ、動機の善と結果の善、道徳的なのはどっちだと思う?」

 このような議論では、しゃ択一たくいつであっても片方が正解という訳ではない。そこにあるのは考え方の違いだけだ。

「動機が善だとしても、結果誰かを困らせることになるなら、それは所謂いわゆるありがた迷惑というやつなんじゃないのか?」

「現代の感覚だと、そっちの意見の方が多いかな。だけどカントは、道徳的な行為は動機が善じゃないといけないっていう動機説を唱えた人でね、動機さえ善なら結果は問題ではないと考えたの」

 果たして本当にそうだろうか。

「動機が善ならどんなだいさんを引き起こそうとも構わないと言うのか」

「うーん、と言うよりは、意図しない善行を偽善だとして許さないって感じかな」

「それなら、動機・結果が共に善の時のみ道徳的と言った方が良くないか? と言うか、そもそも何をもって動機・結果の善悪を決めるんだ」

「カントは結果については言及してないから、後者は分からないけど、動機の善、それは善意志だね」

 伏見はキーワードを先にていして説明を続けた。

「人の性質の中で、無条件にいと言えるのは善意志だけなの。例えば、勇気、才能、富なんかも、善意志がなければ悪用されてしまうかも知れないから」

 確かに、優秀な人材の悪行は決まってたちが悪い。どんな素晴らしい能力も善意志にけばわざわいをもたらしかねないという訳か。

成程なるほど。しかし善意志っていうのは、つまり何なんだ?」

「あー、説明がだだったね。でもその前に、道徳法則に触れなきゃ」

 伏見はこめかみを触りながら脳内検索を行い、文献を音読しているかのように語り出した。

「道徳法則っていうのは、なにか条件を課す仮言命法じゃなくて、無条件の定言命法の形で示されて、なおつその格率かくりつが普遍的なルールになりるもののことで――」

「悪い、ちょっとよく分からないんだが」

「あっめんね。余りに端的だったね。えーと、定言命法は、例えば『無条件に嘘は駄目』ということ。仮言命法は『裏切られたくないなら正直であれ』みたいに、なにか条件が存在するものなんだよ」

 伏見の解説は中々に難解で、俺は部分的に理解することしかできなかった。だから善い人とはなんなのか、それは俺にとってつかみどころのない問題のままだ。ただ、伏見の口から現れた次の言葉は、俺の内側にすっと溶け込み、それでいて俺を冷たくはなした。

「つまり、仮言命法では、善行が手段になっているのが問題なの。善行はそれ自体が目的じゃないといけないから。利己りこ的な目的よりも道徳法則に従い、相手を尊重して善行をしようという意志、これを善意志と呼ぶの」

 そうか。分かった。分かってしまった。ずっと感じていた、伏見達と俺の違い。

 あこがれて、俺も善い人になりたいと思った。善い人になれれば、きっと見える世界が変わる。善行を積めばきっとなれると考えた。それが甘過ぎたんだ。このままでは、いつまでたっても「善い人になりたい人」のままじゃないか。

 俺が人を助ける時、考えるのは、芝原ならどうするのか、あの男のようになるにはどうしたらいかということ。困ってる人を助けたいからじゃない。善い人たりないおのれを恥じたくないからだ。俺の行動原理は恣意しい的なものだ。自分勝手だ。見捨てると目覚めが悪いというのと大差がない。ここが、こんなところが俺の成長の限界なのか……。

 俺は善行を手段にしてしまっている。善い人になるための手段。誰のために手をし伸べるのか。彼らは人のために、俺は自分のために。

 俺は善い人にはなれないのだ。

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