第十一話「十八歳と夢」

 周囲がぼかされたようにめいりょうとしないが、恐らく俺は今帰省していて、ここが実家のリビングであることは疑いようがない。目の前にあるのは、物が置かれてない四角い食卓。これは冬の間たつに化ける品物である。俺はその近くに胡座あぐらを組んで座っていた。

 クラッカーが弾け、整った顔の女が長い黒髪を揺らしながらキッチンから勢い良く飛び出す。

「イェーイ! ハッピバースデーハッピィ弟よー! このケーキを買ってきたのは〜、アタシでーす! ありがとー、お姉ちゃーん!」

 抜かりなくはしゃぐ姉は小さなホールケーキを二つ食卓に並べた。

「あれ、父さん達は?」

 姉はごく真面目に「あの二人ふたりはエベレスト山頂でUFO探すって言ってたよ」と答えた。

「絶対嘘だろ。どんな夫婦だよ」

「ごめん違った違った。父さんは山へしばりに、母さんはコインランドリーへ行ったんだった」

 天から光が射し、一人ひとりの少女が舞い降りた。少女は白いそでばかまという巫女みこ姿で、見慣れた桃色眼鏡めがねをかけている。

ふし、そんな格好で何してるんだ?」

 目をつぶっていた伏見は開眼し口を開く。

わたくしは伏見ではありません。わたしは、女神やねんで』

 声にエコーがかかっている気がする。

「伏見、頭でも打ったのか?」

今日きょうは野田君の誕生日。みんなもちをつきましょう!』

 伏見は屈託くったくのない笑顔できねを手にしている。

 ペッタン。ペッタン。めでたし。めでたし。

 そこで目が覚めた。ベッドの上である。

「そりゃ、夢だよな……」

 俺はそうつぶやいて額に手を当てる。次第に意識がはっきりしてくると、俺をうつつに呼び戻した音源が耳障りであることに気が付いた。叫ぶアラームを黙らせようと枕元の携帯に目をやると、グループチャットに両親と姉からのお祝いの連絡が入っていた。メッセージ横の時刻から、それらが早朝に送られていることが分かる。姉に至ってはれいれい分の送信だ。そもそも誕生日とは、分秒を争って祝うほどに喜ばしい日なのだろうか。俺にとっては、実年齢が精神年齢に一つ近づいただけで、それ以上でもそれ以下でもないように思える。まあでもそんな無粋な考えは胸に納め、とりあえずはお礼の返信をし、朝食と登校のたくに急いで取りかかった。この二十分は一瞬で去ってしまうから注意せねばならない。誕生日であろうと関係なく、いつもと変わらぬせわしない朝。俺のとうの十八歳は、こうして変な夢から始まった。


 ゴールデンウィークが明けて数日。あの喫茶店から見える桜並木もとうに散り尽くし、青々とした葉桜によそおいを変えていることだろう。気温もだい高くなって、暑がりの生徒は制服を夏服へ完全に移行させている。俺は黒の学生服の下に夏服を仕込んで、その日の気候に合わせて冬服を着脱しようと思案した。しかし今日きょうのところは結局上着を脱ぐ機会はなかったのだ。

 季節の他に新学期と共に訪れた大きな変化は、高校範囲を終えた科目が全て演習授業に変わったことである。その演習難易度を自分で決められることに加え、多くの授業が移動をともなうので、さながら大学生のような授業形態なのだ。それにより朝礼や終礼以外は自分達の学級に集まらないという不可思議な毎日を過ごしている。勿論もちろんクラス替えもあったのだが、俺とこんな間柄は文系クラスに一人ひとりしかいないので、どう学級構成員が入れ替わろうが俺には同じことである。また見知らぬ顔が集まったという所感しかない。せめて共通科目だけでも伏見と同じ配属だったならきっと楽しかっただろうに。というのも、国語と英語だけはぶんに関係なく演習クラスが構成されているため、伏見と同じ授業が受けられる可能性があったのは今後も含めてここだけであった。ただ、きょうだい志望とはんだい志望は最難関クラスと難関クラスの境目としてあつかわれているので、結局伏見の姿を目撃するのは放課後になるまでほとんどないのだ。

 俺が受講しているつうしょう最難関クラスでは東大とうだいや京大、旧帝国大学の医学部などを目指す二十人ほどの精鋭がせったくしている。現状、俺の成績はこの猛者もさ共の中で大体ちゅうに位置する。物理学者になる、い人になるという人生目標の他に、期間限定でクラスの連中に食らいついてゆくという目標が追加された。また、物理演習担当が初見の教師だったので、俺を物理準備室に誘い込んで攻撃してきた先生と顔を合わせる機会も激減した。あのしわだらけの白衣をもう目にすることもないと思うと、随分ずいぶんと気が楽である。

 今日きょうも難問の山とたいし脳をこく使した後は、掃除と終礼を終わらせて、いつもの場所へとおもむいた。奥の窓際の席に、こんとブルーグレーのセーラー服、要するに冬服のままの伏見がノートを広げペンを握っている。三年生になっても変わらないのは、俺達の関係性とこの放課後の過ごし方だ。

「伏見、お疲れ」

「あ、お疲れ様」

 俺達の挨拶あいさつは決まってお疲れ様である。これには本日の学業に対するねぎらいだけでなく、考え方や生き方が少数派に分類される俺達の苦労多い人生をなぐさめ合うニュアンスも含まれているように聞こえた。伏見だって今日きょう一日の演習けで疲れているはずなのに、彼女の声にはどこか長閑のどかおもむきがあって、聞いた者の疲労をやわらげる効果があると俺の中で話題になっている。

 本日初めて伏見を目にした俺は、あのなぞ多き夢のことを思い出した。

「伏見って伏見だけど、神社となにか関係があったりするのか?」

 変な日本語である。

「伏見稲荷いなり大社と関係があるかってこと? 神社の雰囲気は好きだけど、多分関係ないかな。でもどうして?」

今朝けさ変な夢を見てな。伏見が巫女みこ姿で現れたんだよ」

 伏見はボブカットのうしろあたまを手で押さえながらバツが悪そうに「いやぁ何と言うか、夢にまでお邪魔しちゃって、申しわけないなぁ」とごとべる。

「何で伏見が謝るんだ」

 訳の分からない謝罪に俺は口元を少し緩めた。

「『変な』ってことは、わたしなにかおかしなことしてた?」

「いやもうはっきりと覚えてないんだが、いて言うなら、餅をついてたな」

「餅?」伏見はポカンとしている。

「そう、餅」

 他にも変なことを言ってた気がするがこれ以上思い出せそうにない。起きた時に鮮明だった夢も、いつの間にかほとんど記憶から消えていってしまう。幻泡影げんほうようという四字熟語があるが、はかないものの例として夢がげられることに納得せざるをないとうなずいた。

 しかし、好きな子の夢を見たことを本人に教えるのも小っ恥ずかしい話だな。かと言って隠す必要は感じられないが。

「でも夢って何なんだろうね」

 俺にけいされているとは知らない伏見は無邪気に疑問を口にした。

「夢か。一般的にはレム睡眠時に見やすいと言われていて、脳活動の副産物で特に意味はないなど諸説あるが、夢や睡眠については解明されてないことだらけだからな」

わたし達は人生の三分の一をよく分からないことに費やしてるんだねぇ」

「そう考えると不思議だよな」

 俺達は二人ふたりで不思議がった。科学の立場からでは話せることが少ないと感じた俺は「哲学で夢の研究はなかったのか?」と伏見の知識を探ることにする。

「夢と言えばフロイトだね」

 フロイト、よく聞く名だ。

「あー、夢分析だったか」

「うん。フロイトいわく夢に出てきた対象物には意味があってね、夢は潜在的な願望の現れなんだって」

 つまり、俺は伏見に巫女みこなって餅をついてもらいたいと望んでいるということになるのか? それはどういったたぐいの願望なんだ?

「そこで問題なのは夢の解釈なんだけど、フロイトは多くを、抑圧された無意識的な性的欲求だって考えたんだよ」

 俺は胸がざわつくのを感じた。伏見が当たり前のように「性的欲求」などという単語を口にしている。だけれども問題はそこではなくて、フロイトが正しいなら俺は伏見によこしまな感情を持っていることになるのだ。それは断じて違うと思いたい。

「ちょっと待ってくれ。それだと俺は伏見にすごく、あの、セクハラめいたことを言ったことになるんじゃ……」

 伏見は俺の言葉に「ふぇ?」と名状しがたい音を発した後、声の調子をくるわせながら「あっ、えっと、いやぁだぃじょっぶダヨ」と言った。一体何が大丈夫なのか。俺は心臓だけが宙に浮いている気がした。伏見は説明を続ける。

「フロイトの考えは、現代では、かなり否定的に扱われてるからね。論拠が薄いし、ちょっと考えがかたより過ぎているんじゃないかって。だけど、フロイトが無意識を発見したこと自体は、とても素晴らしい功績なの」

 普段通りの口調に戻った伏見の説明を聞いている内に、急性の胸部の違和感は薄れていった。発作を起こすような持病はないはずだ。あの感覚は何だったのだろうか。

 ここで伏見がめ息をつく。

「はぁ、精神分析に限らないんだけど、数字が使えず言葉でしか研究できないことって、どうしても正確性にくと思うんだよねぇ」

とらえ方は人それぞれだから再現性が低いってことか?」

「うーん、そう、かな? ……ほらぁ、これも言語のフィルターを通したわたしの考えを、野田君が解釈してまた言語にしている訳だし、これは意見が共有できたと、言えるのかな?」

成程なるほど

 確かに人の心と言語のフィルターをいくつも重ねれば全く別の意見に変貌へんぼうしてしまうだろう。そもそも自分の感情や考えを正しく言語化してアウトプットできているのか、それが恐らく一番の問題点だ。俺は伏見と以前、言語とはひど曖昧あいまいなものだという議論をしていた。

「しかし科学っぽい統計だって、根拠や論理が怪しいことが多々あるからな。数字が使えても、研究者の解釈次第で誤った結論が導かれてしまう。結局一番大切なのは、研究者自身の真実を見抜く力だと俺は思うが」

「うーん、そうだけど、学問にいて数学で記述できるか出来ないかは大きいと思うの。せめて言語に代わる信頼できる道具があればなぁ」

 伏見は軽く握った拳を口元にあてがい、いつものように考える人となった。俺達は一介いっかいの高校生である。当然こんな大問題、俺達の手に負えるものではない。そのうち伏見も「この問題は保留にする」とあきらめ、学校の課題にそれぞれ取りかかった。

 そうして、また普通の一日が終わった。未来にひかえている受験のことや成績のこと、不安なことは沢山たくさんあるが、想い人の隣で共に勉強して、息抜きに議論して、考えて、話し合って、俺にとって青春をおうするとはこういうことなのかも知れないと感じていた。

 やはりこの時の俺はどこか浮ついていた。しかしそれは致し方ないのだ。何故なぜなら、俺の心にすでに根付いてしまった呪いのつぼみが開花の時期をじっと待っていたことなど、知るよしもないのだから。俺の学生時代最大の壁が、もうそこまで迫ってきている。

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