第十話「桜の見える喫茶店」

 四月。約束の日。しくも本日、この県の桜は春の訪れを喜ぶかのように満開を迎えた。おぼろぐもが空に浮かび快晴とはいかないものの、風のやわらかな暖かい日和ひよりであった。

 白いVネックのTシャツに黒シャツ、ジーンズというで立ちで、俺は喫茶店の前におう立ちしている。ろくにファッションを問題としたことのない俺は、シャツのボタンを留めるべきなのか外すべきなのかよく分からない。本当によく分からないから気温の寒暖で決めることにした。今のところ、ボタンはただの飾りになっている。

 時刻は十二時四十分。客の出入りはないが、取手にopenと下がっているからあきない中で間違いないだろう。入口に純喫茶和煦わくと書かれたブックエンドのような看板が置かれている。喫茶店は白と茶を基調とした古雅こがな外観で、縦に長い二つの窓が外へと張り出している。その下で整列している低木ていぼくが、小さくも品のある白い花をまばらに開花させていた。

 喫茶店は白線の無い坂に接していた。道路の反対には簡素な欄干らんかんが道に沿って設けられ、その奥に堂々たる桜並木が二、三メートル周期で植えられている。桜の向こうは急斜面になっていて、下がった土地に公園が広がり、さらに遠くにビルの街がたたずむ。この公園は花見の名所のはずだから、満開の今日きょうはさぞにぎわっていることだろう。しかし見る限り、子供達が広場で走り回っているだけである。もしかするとここからでは目視できない所にスポットがあるのかも知れない。

 不意に勢いのある風が木々に触れ、桜は少し散った。数枚の花びらが風の吹くままにあてのない旅へと出かける。先程から、回折かいせつした鳥のさえずりが途切れずに俺の元まで届いている。車や人の通りもなく、ここはきわめて静かな場所であった。

 特にすることもないので「成程なるほど。これが満開か」と桜を五分ほどながめた。桜に飽きたら、次はその枝で追いかけっこをしたり、花をついばんだりしている二羽のすずめを観察した。つがいなのだろうか、よく分からないが、しきりにチュンチュン言っている。

 しかし何故なぜこんなにも早く来てしまったのだろう。ここに着いたのは約束の三十分前である。当然ふしがいるわけもなく、着いてすぐに早過ぎたと後悔した。先に入店して待つという手もあるが、単身で喫茶店に突撃した経験などないのでどうも不安になってしまう。それで俺は案内人の伏見をちょくに待っているのだ。

 とにかく、待つというのは嫌なものである。大体、時間の流れが異様に遅い。登校日の朝の二十分など気付けば過ぎているのに、待ち時間の場合そうは行かない。まだ五分か、まだ十分かと毎分心で言っている。これは相対論を用いて計算せねばならないほどの時空のゆがみなのではなかろうか。そうでなければ登校前と待ち時間の二十分がこうも違う説明ができない。もしこのなぞが解明できれば、きっとバタートーストの法則にぐ快挙になることだろう。

 そんなくだらないことを考えたり、携帯をいじったりしていると、約束の十分前、伏見が桜の坂道をくだってきた。遠目ではあさみどり色のヒラヒラしたロングスカートをいているように見えたが、どうやらガウチョパンツと呼ばれるものらしい。俺に気付いた伏見は小走りになってってくる。まさか走るためのスニーカーではあるまい。ついさっきまで待ちがれていたくせに、俺は急がなくていのにと思った。ピンクともベージュともつかないたんしょくのカーディガンの下に丸首の白シャツを着ている伏見は手提げを肩にかけて、今日きょうも桃色ぶち眼鏡めがねをしている。全体的に、目に優しい色合いであった。

 目的地へ到着した伏見は息と焦げ茶の髪を整えながら「めんね。待たせるつもりは、なかったんだけど」と開口一番に謝った。しかし伏見はなにも悪くない。

「俺がちょっと早く来てしまっただけだ。伏見が謝ることじゃない」

 待つことは嫌いだが、完全に俺のミスだ。そんなことで伏見に当たるほど俺も子供じゃない。

「桜、れいだね」

 伏見が桜並木に微笑ほほえみかけながら言った。なかたましいを吸い取られたかのように魅入みいっている。

「そうだな」

 二人ふたりで満開の桜を観賞した。たんこう色の花が春の空に映えて、先程よりもどこか鮮やかに見える。桜の木々は気持ち良さそうに風に揺られていた。


 喫茶店の中は、夕暮れのような緩やかな音楽とコーヒーの香りがかすかにただよっていた。カウンターの奥でカップ片手に新聞を読んでいる中年男性が座っている他、客が見当たらない。ひとのないをところが図書室の環境と似ている。大きな相違といえば、お互い私服であることと、隣ではなく向かい合って座っていることだ。

 店の中央にはあぶったような質感の柱が縦列し、観葉植物と協力して空間を仕切っている。チョコレートざいみたようなアンティーク家具が白い内壁と対照的で、はりから下がるランタン風のペンダントライトが黄味をびた可視光線をテーブルに落としていた。

 俺達は入口に近い窓際の席に腰を下ろしている。ワイシャツに小豆あずき色のエプロンをかけた店員がどこからともなく現れ、水の入ったグラスを俺達のテーブルに二つ並べて去っていった。絵本サイズのメニューが机の壁側に立てられ、窓硝子ガラスには先程外でながめた桜が二本、絵画のように収まっている。

 俺達はそれぞれ飲み物を注文して、予定通り宿題に取りかかった。二年生の最後が数Ⅲの大詰めだったこともあり、伏見の対戦相手の数Ⅱ数Bの問題がなつかしい。解くコツや証明の道筋をヒントとして与え、後は自分で考えさせるという指導スタイルである。本番は一人ひとりで問題と向き合うのだから全て教えてしまっては相手の勉強にならない。どこまでヒントを与えるか、その見極めが難しい。

 それに、伏見に教えていて少し疑問に思うことがある。それは本人が分からないと言う割に飲み込みが早いということだ。学年末試験も好調だったようだし、休みの課題ぐらいでつまずくこともないのではないかと感じてしまう。これは理系ゆえの感覚なのだろうか。文系は数学が苦手な人が多いし、この程度の不出来は普通のことなのかも知れない。恐らく、俺には見えない文系特有の落とし穴があるということなのだろう。

 何はともあれ、元々大した量じゃない課題は開始から二時間で段々と終わりが近づいてきた。そうこうしているあいだに、二つの窓にはさまれている六角時計が三時を指す。俺達はきゅうけいとブドウとうの補給をねてかんを頼むことにした。

 伏見はティーカップを手に窓の外をながめながら「桜を見ながらゆっくりするなんて、ひさりだなぁ」と目を細くする。

「俺もだ。一人ひとりだと、花見をしようという発想すらなかったしな」

 俺も桜を硝子ガラス越しに見つめた。

「この灌木かんぼく灯台どうだん躑躅つつじかな? こっちの満開は、後少しみたい。さくら紅葉もみじも有って、秋は秋でれいなんだろうね」

 伏見は窓に顔を寄せて、がね型の白い小さな花を咲かせる低木ていぼくを見下ろしてそう言った。入店前に桜を観賞していた時と同じ表情をしている。

「花、好きなんだな」

 花というか、植物全般かも知れないが。

 伏見は初め口ごもり「え、いや……うん、まあ好き、かな。お花見したかったんだけど、家がそんな雰囲気じゃなくて」とはかない笑顔になった後、視線を桜に向け紅茶を口にした。

「兄弟が受験生とかか?」

 伏見はこちらに向き直って「野田君、受験生はわたし達だよ?」と丁寧にツッコむ。

「確かにそうだな」

 天然でボケてしまった。受験生の自覚がなさ過ぎだな、俺は。決まりが悪くてコーヒーを飲むと、顔が余計に熱くなった。

「いや、何て言うか、俺の高校受験の時に姉ちゃんが家の雰囲気がピリピリしてるって言ってたんだよ、それで思い出して」

 クリームの載ったシフォンケーキに手をつけようとしていた伏見が止まる。

「……野田君には、お姉さんがるんだね」

 そう確認して伏見はケーキを切り分け一口ほうった。左手が口元にえられている。

「そう言えば伏見に兄弟はいるのか? なんとなく弟さんとか妹さんがいそうに見えるが」

 伏見はケーキを飲み込んだ後、左手で半顔はんがんを隠したまま「えっと、一人ひとりっ子、になると思う」と答えた。

なんか意外だな。まあでも、一人ひとりっ子がわがままになるとは限らないもんな」

 伏見という反証が存在する時点で、この説は必ずしも正しいとは言えないことになる。まあ、俺にしてはあまりにもステレオタイプな発想だったかも知れない。もっと論理的に、かつじゅうなんに考えなくてはいけないな。

わたしからは、なんとも言えないかな」

「いや、伏見がわがままなら俺が出会ってきた人類みなわがままに分類されてしまうぞ」

 謙虚なのは伏見らしいのだが、俺は伏見以上におしとやかという形容が似合う女性を知らない。上には上があるのかも知れないが、とにかく今は伏見が暫定ざんてい一位である。

「そう言えば、野田君はどこを受験するか決まってるの?」

 ここで、伏見が受験生らしい話題に変えた。

「志望校か? そうだな、きょうだいを受けようかと考えてはいるが」

きょうだいかぁ。り、野田君はすごいなぁ」

 伏見はにこやかである。

「いや、受験するだけならすごくはないぞ。現状から考えれば、余裕で合格ということもないだろうしな」

 落第だって普通に起こりることだ。

「伏見はどこを目指すんだ?」

 伏見はいつものくせで、手を口元に当てて考えながら「うーん、えず哲学が勉強できる大学ってところまでは決まってるんだけど」と一ヶ月前の俺と同じような発言をして、ゆったりと逡巡しゅんじゅんしている。

 伏見の進路に俺が口出しできることもないので、俺はコーヒーを静かにすすった。

「元々ね、少し遠いけど、関西の方にしようかなって思ってたの。そうぼんやり思ってたんだけど、わたし阪大はんだい目指してみようかな。勿論もちろん今のままじゃ全然届かないけど、うん、がんってみたい。だから、晴れて合格したら、わたし京都までいに行くよ」

「そうか、じゃあお互いがんらないとな」

「ふふふ、きっとだよ」

 俺達は微笑ほほえみを交わした。

 俺達も三年生になる。受験生になる。きっとしんどいこともあるだろうが、その先には必ず素敵なことが待っているのだと、保証も根拠もなく、ただ漠然ばくぜんと期待していた。

 そして、この一日で分かったことがある。これまで議論が楽しいのだと思っていたが、それは違った。伏見とならどんな会話でも楽しいのである。そのやわらかい声を聞くだけでいやされるのである。だから、いさぎよく彼女にかれているとみとめよう。激情も、交際欲求もないけれど、きっと昔の恋とは質が違うのだ。これはプラトニックと呼ばれる恋愛の一形態に違いない。俺は伏見の精神にれ込んだのだ。彼女の優しい性格にりょくを感じたのだ。俺はこの感情をおくせず恋と呼んでみることにした。

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